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2010年3月に作成された記事

2010年3月31日 (水)

今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その十九(その後の御誓文)

ー、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ

   (現代表記)上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。

      (由利案第二条)士民心を一にし盛に経綸を行ふを要す

      (福岡案第三条)上下心を一にし盛に経綸を行ふべし

冒頭の「上下」は、由利案では「士民」だったが、福岡の回顧によれば「一層意味を広くするために士民を上下に改めた」という。「心を一にして」は日本国民の団結を表現する当時の決まり文句であり、江戸期の水戸学者の著作から後の教育勅語に至るまで広く使われている。

後段の「経綸」の語の解釈には注意が必要である。由利の出身藩である越前藩のために横井小楠が著した「国是三論」において「一国上の経綸」という章があり、そこでは主に財政経済について論じられていることから、その影響を受けた由利は経綸の語を専ら経済の意味で用いていた。従って、この条文のいう「盛に経綸を行う」とは由利にとっては「経済を振興する」という意味であったと思われる。

最も、当時、経綸の語は一般に馴染みのある語ではなく、江戸版の太政官日誌では経綸を経論と誤記し「ケイロンとルビ」を振っていた。福岡は後に回顧して「由利が盛に経綸経綸という文句を口癖のごとく振りまわしていた所であったからそのままにして置いたのである。経綸という字の意味は元は経済とか財政とかを意味していたようであるがこれは説く人々の解釈に任してよいのである」と述べている。

一般的には、経綸の語は、経済政策に限らず国家の政策全般を意味するものとして理解されることが多い。

ー、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス

    (現代表記)官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦ま                                                          ざらしめんことを要す。

       (由利案第一条)庶民志を遂げ人心をして倦まざらしむるを欲す

       (福岡案第二条)官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦まざらし   むるを要す

由利案ではこの条文は第一条に置かれ最重視されていた。由利は後の著書「英雄観」で「庶民をして各志を遂げ人心をして倦まざらしむべしとは、治国の要道であって、古今東西の善政は悉くこの一言に帰着するのである。みよ、立憲政じゃというても、あるいは名君の仁政じゃといっても、要はこれに他ならぬのである。」と述べている。

冒頭の「官武一途」は語は福岡孝弟の修正案で追加されたものであり、「官」とは太政官すなわち中央政府、「武」とは武家すなわち地方の諸侯、「一途」は一体を意味する。これは福岡の回顧では「官武一途即ち朝廷と諸侯が一体となって天下の政治を行う」意味としている。この条文は、もともとの由利の意図では庶民の社会生活の充足をうたったものであったが、福岡が政治の意味を込めて「官武一途」の語を挿入したため、条文の主旨が不明瞭になったことが指摘されている(稲田正次)。

    その二十に続く            以上

       

 

2010年3月30日 (火)

今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その十八(その後の御誓文)

御誓文の本体は、明治天皇が天神地祇に誓った五つの条文からなる。この他、御誓文には勅語と奉答書が付属している。御誓文の各条および勅語・奉答書について解説すると次の通り。

ー、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ

  (由利=由利公正 ゆり きみまさ)http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/215.html?c=0  

  (福岡=福岡孝弟 ふくおか たかちか)

                                     http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/184.html?c=0

(現代表記)広く会議を興し、万機公論に決すべし。

   (由利案第五条)万機公論に決し私に論ずるなかれ

   (福岡案第一条)列侯会議を興し万機公論に決すべし

この条文は、由利案では第五条であったが、福岡によって第一条に移された。その理由は「諸侯会議を以って第一着の事業と考え」たためと福岡自身が回顧している。   (福岡孝弟「五箇条御誓文と政体書の由来に就いて」大正8年(1919年)に依る。以下福岡の回顧は特に断らない限りこれに依る。)

前段の「広く会議を興し」については、由利案には「会議」に相当する語はなく、福岡の修正案で「列侯会議」の語があらわれ、これが最終段階で「広く会議」修正(木戸孝允により)された。福岡は後年「この時平民までも此議会に与らしめる御つもりであったか」と問われ、「それは後から考えればそうも解釈されるが、御恥ずかしい話ですが当時私はまだその考えはなかったです」「広くとは人々の意見を広く集めて会議するというのではなく府藩県にわたりて広く何処にも会議を興すという義です」と答えた。

しかしながら、ここを「列侯会議」に限定せずに漠然と「広く会議」に改めたことは、後に起草者たちの意図を離れ、民権論者によって民選議会を開設すべき根拠として拡張解釈されるようになった。また明治政府自身もそのように解釈するようになった。

後段の「万機」「あらゆる重要事項」の意味。「公論」は公議と同義、または公議興論の略語であり、「みんなの意見」または「公開された議論」といったような意味である。「万機公論に決すべし」の語句は、由利と親交のあった坂本龍馬の船中八策(慶応3年6月)に「万機宜しく公議に決すへし」とあり、ここから採られたものとみられる。由利の草稿では、初めは「万機公議」と書き、後で「万機公論」と改めている。

    その十九に続く                      以上

  

2010年3月29日 (月)

今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その十七(その後の御誓文)

自由民権運動が高まる中、御誓文は立憲政治の実現を公約したものとして一般に受け止められるようになった。特に第一条「広く会議を興し万機公論に決すべし」は、当初は民選議会を意図したものではなかったが、後に民選議会を開設すべき根拠とされた。

例えば、明治13年(1880年)4月に植木枝盛が起草し片岡健吉・河野広中らが提出した「国会を開設するの允可を上願する書」が著名である。明治憲法制定により帝国議会が開設されるまでの間、自由民権派は御誓文の実現を求めて政府に対する批判を繰り返した。

「戦後の御誓文」  戦後、昭和21年(1946年)1月1日の昭和天皇の人間宣言で、御誓文の条文が引用されている。昭和天皇は幣原喜重郎首相がGHQに主導されて作成した草案を初めて見た際に、「これで結構だが、これまでも皇室が決して独裁的なものでなかったことを示すために、明治天皇の五箇条の御誓文を加えることはできないだろうか」と述べ、急遽GHQの許可を得て加えられることに成った。

天皇は後に、「それが実は、あの詔書の一番の目的であって、神格とかそういうことは二 の問題でした。(中略)民主主義を採用したのは明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。そうして五箇条御誓文を発して、それが基となって明治憲法が出来たんで、民主主義というものは決して輸入物ではないということを示す必要が大いにあったと思います。」 昭和52年(1977年)8月23日記者会見

と語っている。

昭和21年(1946年)6月25日、衆議院本会議における日本国憲法案の審議の初め、当時の吉田茂首相は御誓文に言及して

   「日本の憲法は御承知のごとく五箇条の御誓文から出発したものと云っても良いのでありますが、いわゆる五箇条の御誓文なるものは、日本の歴史、日本の国情をただ文字に現しただけの話でありまして、御誓文の精神、それが日本国の国体であります。日本国そのものであったのであります。この御誓文を見ましても、日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります」

 と答弁した。このように敗戦後の初期には支配層は五箇条の御誓文は民主主義の原理であると主張した。

正式な表題は、法令全書によると、「御誓文」である。明治天皇自身がこれを呼ぶときは単に「誓文」という(例えば明治8年(1875年)の立憲政体の詔書)。よく使われる「五箇条の御誓文」などの呼称は、後の時代の通称である。 その十八に続く   以上

2010年3月28日 (日)

今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その十六(御誓文布告)

御誓文は明治天皇の勅命によって、明治元年3月13日(1868年4月5日)に天皇の書道指南役であった有栖川宮幟仁親王の手で正本が揮毫され、翌3月14日、京都御所の正殿である紫宸殿で行なわれた天神地祇御誓祭という儀式によって示された。

御誓文は太政官日誌をもって一般に布告された。太政官日誌には「御誓文之御写」が勅語と奉答書とともに掲載されたほか、その前後には天神地祇御誓祭の式次第と御祭文や御宸翰が掲載された。当時の太政官日誌は都市の書店で一般に発売されていたが各農村にまで配布されておらず、一般国民に対しては、キリスト教の禁止など幕府の旧来の政策を踏襲する五榜の掲示が出された

「政体書体制での御誓文」 明治元年閏4月に明治新政府の政治体制を定めた政体書は、劈頭で「大いに斯国是を定め制度規律を建てるは御誓文を以て目的とす」と掲げ、続いて御誓文の五箇条全文を引用した。政体書は、アメリカ憲法の影響を受けたものであり、三権分立や官職の互選、藩代表議会の設置などが定められ、また、地方行政は「御誓文を体すべし」とされた。

このほか、同年4月12日の布告では、諸藩に対して御誓文の趣旨に沿って人材抜擢などの改革を進めることを命じている。また、各地の人民に対して出された告諭書にも御誓文を部分的に引用する例がある。例えば、明治元年8月の「奥羽士民に対する告諭」は御誓文の第一条を元に「広く会議を興し万機公論に決するは素より天下の事一人の私する所にあらざればなり」と述べ、同年10月の「京都府下人民告諭大意」は第三条を元に「上下心を一にし、末々に至るまで各其志を遂げさせ」と述べている。

「御誓文の復活」 その後、政体書体制がなし崩しになり、さらには明治4年(1871年)の廃藩置県により中央集権が確立するに至り、御誓文の存在意義が薄れかけた。明治5年(1872年)4月1日、岩倉使節団がワシントン滞在中、御誓文の話題になった時、木戸孝允は「なるほど左様なことが会った。その御誓文を今覚えておるか」と言い、その存在を忘れていた模様である。この時、御誓文の写しを貰った木戸孝允は翌日には「かの御誓文は昨夜反復熟読したが、実によく出来ておる。この御主意は決して改変してはならぬ自分の目の黒い間は死を賭しても支持する」と語った。

明治8年(1875年)、木戸孝允の主導により出された立憲政体の詔書で「誓文の意を拡充して・・・漸次に国家立憲の政体を立て」と宣言。立憲政治の実現に向けての出発点として御誓文を位置付けた。その十七に続く              以上

2010年3月27日 (土)

今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その十五(五箇条の御誓文)

「五箇条の御誓文」

江戸幕府による大政奉還を受け、王政復古によって発足した明治新政府の方針は、天皇親政(旧来の幕府・摂関などの廃止)を基本とし、諸外国(主に欧米列強国を指す)に追いつくための改革を模索することであった。その方針は、翌明治元年(慶応4年、1868年)の五箇条の御誓文で具体的に明文化されることになる。合議体制、官民一体での国家形成、旧習の打破、世界列国と伍する実力の涵養などである。また、この目的を達するための具体的なスローガンとして「富国強兵」「殖産興業」が頻用された。

[五箇条の御誓文」

ー、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ

ー、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ

ー、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス

ー、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ

ー、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

現代語訳サイト「http://www.geocities.jp/kunitama2664/goseimon.html

明治新政府は発足当初から公議を標榜し、その具体的方策としての国是を模索していた。明治元年正月、福井藩出身の参与由利公正が、坂本龍馬の船中八策と似ている部分が多い議事之体大意五箇条を起草し、参与東久世道禧を通じて議定兼副総裁の岩倉具視に提出した。

制度取調参与の福岡孝弟は、この由利五箇条に対して第一条冒頭に「列侯会議を興し」の字句を入れるなどして封建的な方向へ後退させ、表題も会盟に改めたため、列侯会盟の色彩が非常に強くなった。更に福岡は発表の形式として天皇と諸侯が共に会盟を約する形を提案した。しかし、この「会盟」形式は、天皇と諸侯とを対等に扱うものであり王政復古の理念に反するという批判にさらされた。

そこで、総裁局顧問の木戸孝允が、天皇が天神地祇を祀り、神前で公卿・諸侯を率いている状態で共に誓いかつ全員が署名するという形式を提案し、採用されることとなった。その際、木戸孝允は、福岡案第一条の「列侯会議を興し」を「広ク会議ヲ興シ」に改め、「徴士」の任用期間を制限していた福岡案第五条を削除して木戸最終案第四条を新たに組み込み、五箇条の順序を体裁良く整え直すなどして大幅に変更を加え、より普遍的な内容にした。

また、議定兼副総裁の三条実美も福岡案表題の「会盟」を「誓」に修正したため、木戸による五箇条が「誓文」「御誓文」「五箇条誓文」「五箇条の御誓文」と呼ばれるようになった。この木戸五箇条が天下に布告すべき日本の国是として明治天皇の裁可を受け、1868年(慶応4年)3月14日、朝廷の規模の大きさを天下に確定させんとする木戸の狙い通り、誓約された。木戸は後日、「天下の侯伯と誓い、億兆の向かう所を知らしめ、藩主をして其責に任ぜんと欲し」たと述べている。その十六に続く   以上

               

2010年3月26日 (金)

今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その十四(明治維新)

「明治維新」は、江戸幕府に対する倒幕運動から、明治政府による天皇親政体制への転換とそれに伴う一連の改革をいう。その範囲は、中央管制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・教育・外交・宗教政策など多岐に及び日本をアジアで最初の西洋的国家体制を有する近代国家へと変貌させた。福沢諭吉は著書で「王政維新」と命名している。

明治維新の原点は欧米諸国による植民地政策に対する抵抗運動(攘夷運動)に起源を持つ。アヘン戦争以後、東アジアで欧米による帝国主義の波が強まる中で、それまでの江戸の天下泰平の世の中(鎖国体制下の社会)を維持し、欧米の植民地となることを回避するという尊幕攘夷思想が高まった。

しかし薩英戦争や下関戦争において欧米との力の差に直面したことにより、単純な攘夷論に対する批判が生じ、国内統一・体制改革(近代化)を優先して、外国との交易によって富国強兵を図り、欧米に対抗できる力を付けるべきだとする「大攘夷」論が台頭し、これまで強硬に攘夷論を主張してきた長州藩・薩摩藩も事実上開国論へと転向していくことになった。

開港後は、改革に保守的な態度をとる幕府への不満や国学の発展によって強化されつつあった日本は神国であるというナショナリズムの発想の高まり、倒幕、尊皇攘夷論となって諸藩の志士や公卿によって支持され、国内の改革が叫ばれることとなる

明治維新の開始時期については諸説あるが、狭義では明治改元に当たる明治元年9月8日(1868年10月23日)となる。しかし一般的にはその前年にあたる慶応3年(1867年)の大政奉還、王政復古以降の改革を指すことが多い終了時期についても、廃藩置県の断行(明治4年、1872年)、西南戦争の終結(明治10年、1877年)、内閣制度の発足(明治18年、1885年)、立憲体制の確立(明治22年、1889年)までとするなど諸説ある。

この期間の政府(一般的には慶応3年12月9日「1868年1月3日」の王政復古以降に成立した政権)を特に明治政府、新政府、維新政府などと呼称することが多い。主に旧薩摩藩・長州藩および一部の公卿による専制政治として実行されたため「藩閥政府」と揶揄されることもあるが、中級官僚以上でも旧親藩・旧幕臣などから採用された者も少なくなく一概に一部雄藩のみが主導したともいえない。当時の人々からは主に大政奉還廃藩置県を指して御一新と呼ばれていた。

短期間にほぼ独力で近代国家を整備し、西欧列強に比肩する国家を築き上げたことは諸外国からは奇跡と見られ、特にアジア諸国にとって近代革命の模範となった。この革新の象徴となり、アジア初の本格的立憲君主となった明治天皇について、諸外国では日本以上に高く評価されることもある。   その十五に続く     以上

2010年3月25日 (木)

今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その十三(戊辰戦争へ)

一方的に御所警備の任を解かれ、追い払われた会津・桑名藩兵や在京の幕臣たちが二条城に集まり激高しました。彼らは口々に「薩摩を討つべし」と騒ぎましたが、徳川慶喜は激発しようとする会津や桑名の兵をなだめすかし、大坂城に退(ひ)き下がりました。

この時慶喜の下には幕兵5千余、会津3千余、桑名1千5百余、合わせて約1万の兵がいました大坂湾には榎本武楊が率いる軍艦開陽もあり、志気も高く、兵力も充分にあったのに慶喜は武力討薩に出ず、大坂に退き下がったのでした

薩摩の大久保利通は、慶喜が抵抗もせず、あまりにあっさりと大坂に退いたので驚きました。大久保は戦いに敗けることまで計画に入れていて、その時は天皇をつれて広島あたりまで逃げるつもりだったそうです

「総裁・議定・参与の三職」

総裁 有栖川宮熾仁親王   議定        参与

(ありすがわのみや・たるひとしんのう)

                  皇族・公卿・諸侯から10名     公卿・諸藩代表者20名

             中山忠能          大原重徳

             正親町三条実愛       岩倉具視

             中御門経之          万里小路博房

            仁和寺宮入道純仁親王   長谷信篤

            山階宮晃親王         橋本実梁

           徳川慶勝(尾張大納言)   尾張藩(3人)

         松平慶永(越前宰相)   越前藩(中根雪江ら3人)

         浅野茂勲(安芸少将)    芸州藩(辻将曹ら3人)

        山内豊信(土佐前少将) 土佐藩(後藤象二郎ら3人)

       島津忠義(薩摩少将)  薩摩藩(西郷、大久保ら3人)

決定を受けて慶喜は大坂城へ退去したが、山内容堂・松平春嶽・徳川慶勝の仲介により辞官納地は次第に骨抜きとなってしまう。そのため、西郷らは相良総三ら浪士を集めて江戸に騒擾を起こし、幕府側を挑発した。江戸市中の治安を担当した庄内藩勘定奉行小栗忠順らは激昂し薩摩藩江戸藩邸を焼き討ちした。なおこの頃、政情不安や物価の高騰による生活苦などから「世直し一揆」や打ちこわしが頻発し、また社会現象として「ええじゃないか」なる奇妙な流行が広範囲で見られた。

江戸での薩摩藩邸焼き討ちの報が大坂城へ伝わると、城内の旧幕兵も興奮し、ついに翌慶応4年(1868年)の正月「討薩表」を掲げ、京へ進軍を開始した。1月3日鳥羽街道・伏見街道において薩摩軍との戦闘が開始された(鳥羽伏見の戦い)。官軍を意味する錦の御旗が薩長軍に翻り幕府軍が賊軍となるにおよび淀藩や安濃津藩などの寝返りが相次ぎ、5日には幕府軍の敗北が決定的となる。

徳川慶喜は全軍を鼓舞した直後、軍艦開陽丸にて江戸へ脱走した旧幕軍は瓦解した。以後、翌年まで行われた一連の内戦を、1868年の干支である戊辰に因んで「戊辰戦争」という。なお戊辰戦争中の1868年10月23日(旧暦9月8日)には、元号が慶応から明治に変更された。

    その十四に続く                   以上

 

 

2010年3月24日 (水)

今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その十二(王政復古の大号令)

「王政復古の大号令」 慶応3年12月9日(1868年1月3日)

徳川内府、従前御委任ノ大政返上、将軍職辞退ノ両条、今般断然聞シ召サレ候。抑癸丑以来未曾有ノ国難、先帝頻年宸襟ヲ悩マセラレ御次第、衆庶ノ知ル所ニ候。之ニ依リ叡慮ヲ決セラレ、王政復古、国威挽回ノ御基立テサセラレ候間、自今、摂関・幕府等廃絶、即今先仮ニ総裁・議定・参与ノ三職ヲ置レ、万機行ハセラルベシ。諸事神武創業ノ始ニ原キ、縉紳・武弁・堂上・地下ノ別無ク、至当ノ公議ヲ竭シ、天下ト休戚ヲ同ク遊バサルベキ叡慮ニ付、各勉励、旧来驕懦ノ汚習ヲ洗ヒ、尽忠報国ノ誠ヲ以テ奉公致スベク候事。

将軍慶喜の大政奉還により、政権が天皇に移管されました。(将軍職の辞表を出したのは10日後の10月24日)。しかし大政奉還に反対する会津藩、桑名藩や旧幕府勢力の強硬な幕府権力奪還の動きもあり次の新政権に慶喜が擁立される可能性が高かったのです。

それを完全に排除するために出されたのが「王政復古の大号令」です。

慶応3年11月末(1867年)、薩摩藩主島津忠義(島津久光は忠義の父)の率いる約3千の兵が上京。長州藩兵約2千5百も12月初めには摂津西宮と備後尾道に到着しました。

慶応3年12月9日(1868年1月3日)朝、薩摩、安芸、備前、尾道(遅れて土佐も)の藩兵が宮中に入り、それまで宮門の警備に就いていた会津、桑名の兵を追い払って各要所を固めました。五藩の兵に守られた宮中の学問所に親王、公卿の他、薩摩、安芸、越前、尾張、土佐の諸侯を集め、明治天皇〔15歳)が王政復古の大号令を下しました。

摂政、関白、幕府の廃止が明示され、加えて五摂家、門流、議奏、武家伝奏の廃止ならびに守護職、所司代の廃止が布告されました。幕府(徳川慶喜)、京都守護職(松平容保)、京都所司代(松平定敬)が正式に廃止され、新設された「総裁・議定・参与」三職には徳川慶喜の名前はありませんでした。

同日夜、小御所において初めての三職会議が開かれました。席上、岩倉具視と大久保利通(参与)は徳川慶喜の辞官納地(慶喜の内大臣の官位辞退・領地返上)を主張し、山内豊信(容堂)、松平慶永(春嶽)と対立。会議は紛糾して深夜に及びましたが、慶喜に辞官納地を命ずることが決定されました。その十三に続く     以上

 

2010年3月23日 (火)

9.11テロ事件は、米国のCIAとイスラエルのモサドとの共同工作であったと指摘!

3月19日に、9.11NYテロ事件は米国CIAとイスラエルのモサドとの共同工作の偽装テロであった事を米国陸軍士官学校卒業生で、海兵隊に10年いたベテランが指摘した

この方は、アラン・サブロフスキー(Alan Sabrosky)氏である。

米国の真の愛国者の中から、真実を語る者が出てきた。この潮流は今後ますます拡大していくことであろう

同氏の発言内容は以下の通り

「背信、裏切り、そしてペテンの9月11日同時多発テロ」

2001年9月11日の攻撃は米国にとって決定的な瞬間だった。よく練られた目に見える国内でのこの攻撃の米国国民に対する政治的、心理的なインパクトは巨大なものだった・・・この攻撃が9・1・1という危険と緊急性を一般大衆に呼び起こす番号と同じその日に起きたということは実に興味深い”偶然”だ。

1990年代の重要な進展は、PNAC(project for a new american century)と言われるネオコンのシンクタンクが作られた時期で、そのメンバーはイスラエル政府と将来の米国の行政のために彼らの考え方を盛り込んだ政策方針書を準備した者たちだ。それは2000年のブッシュ大統領の選出時に起きた、今の記者たちは、ブッシュ政権の一期目にネオコンの氷山の一角が現れていることを以下のように要約している:PNACのアウトサイダーたちは、今や力あるインサイダーとなり、重要な位置を占めるようになっている。

彼らは米国の政治に最大限の影響力を行使することができるようになったーPNACはブッシュ政権内に軍事政策を生み出す鍵を握ったのだ。その結果として出てくる面での特別な意義は、PNACのドキュメントの一つに認められる認識の内容だ。それは、彼らの米国(とイスラエル)向けのプログラムは一般米国人に即座に受け入れられるものではないことだ。それは何かと言うと、PNACは2000年に、以下のような考えを示している。

「トランスフォーメーションのプロセスは、それが革命的な変化をもたらすとしても、破滅的で副作用の大きな新しい真珠湾攻撃のようなものが起きなければ、長期的なものになるだろう。」

「9月11日テロ再考」  9.11委員会の公式リポートは良く言っても不十分な内容である多くの人々は委員会の報告に駄目押ししている。その他の人々はあの報告書内容を全く信用していない米国政府の説明を受け付けないそれどころか委員会と米政府を公式に隠蔽工作をしてと指摘し、事件は自作自演であるとしている。そのような人々の中には、空軍のパイロット退役軍人、EMT(緊急医療技術員)、防空専門家、民間航空機パイロット、建築家、技術者など、誰を見ても、騙され易いような、あるいは軽薄な職業の人々ではない。

9月11日攻撃の公式の評価と批判的な評価の両方の注意深い査定から、私には以下のようないくつかのことは、非常に明確である。

第一に、物理的な証拠と専門家らの証言を考慮すれば、攻撃した航空機だけでは二つのいずれのビルにもあのような崩壊をもたらすことはできない。まして航空機の攻撃を受けていない第三のビルの崩壊はありえない(私は、ペンシルベニアに落ちた航空機が実は第三のビルを崩壊させることになっていたものと考えている。)

これは、攻撃したものには地上にアシスタントがいたということになる。また攻撃が起きる前に工作があったはずである:つまり制御崩壊のための準備はでたらめに混乱の中でできるようなものではないからだ。

第二には、専門家で、工作員がいて、空中と地上で9月11日の事件を起こしても政治的に保護され影響力を行使できる情報部門はたった二つしか存在しない:わがCIAとイスラエルのモサドだ。わずかに、イラクの抵抗の予想外の強さが、シリアとイランがブッシュ政権の第二期で攻撃されることを回避させえたのだ。このように、9月11日事件の証拠となる手がかりは、PNACやAIPAC、それに彼らの仲間によって進められているアフガンとイラクでの戦争がブッシュ政権内の殆んどのユダヤ人のネオコンを通して、イスラエル政府へと繋がる。

最後に、あからさまな嘘や、矛盾、不整合性に満ちている米国政府の9月11日事件の対処の仕方を分析するべきなのに、なぜ、主流のメディアはそれを回避するのか、我々は綿密に検討する必要がある。・・・・・            以上

2010年3月22日 (月)

今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その十一(龍馬暗殺)

近江屋事件は、幕末の慶応3年11月15日(1867年12月10日)に坂本龍馬と中岡慎太郎が京都河原町近江屋井口新助邸において暗殺された事件のこと京都見廻組の仕業であるとされる。

龍馬はそれまで宿舎としていた薩摩藩の定宿であった寺田屋が幕府に目をつけられ急襲(寺田屋事件)されたため、慶応3年11月3日(1867年11月28日)に近江屋(醤油屋)に移った。11月13日(12月8日)、伊東甲子太郎が尋ねてきて、新撰組に狙われているので河原町三条の土佐藩邸に移ったらどうかと勧めたが、龍馬は間近の近江屋に留まった。

11月15日(12月10日)、夕刻に中岡が近江屋を訪れ、三条制礼事件について話し合う。夜になり客が近江屋を訪れ、十津川郷士を名乗って龍馬に会いたいと願い出た。元力士の山田藤吉は客を龍馬に合わせようとするが背後から斬られた(1日後に死亡)。

このとき「ぎゃあ!!」と大声を上げた山田に対し、龍馬は「ほたえな!(土佐弁で「騒ぐな」の意)」と言い、刺客に自分の居場所を教えてしまう。刺客は音もなく階段を駆け上がり、ふすまを開けて部屋に侵入した。そして龍馬は額を斬られた(この他、浪士達が二人を斬る前に名刺を渡してから斬ったという説などいろいろな説がある)。

龍馬は意識がもうろうとする中中岡の正体がばれないように中岡のことを「石川、太刀はないか」と変名で呼んだという。その後龍馬は胸など数箇所を斬られ、とどめを刺されて絶命した。中岡はまだ生きており助けを求めるが、2日後に吐き気を催した後に死亡した。

なお、近江屋と土佐藩邸の位置関係は、河原町通りを隔てた真向かい(数メートル)であったが、暗殺当夜に土佐藩邸からは何の救援の手も差し伸べられなかった。暗殺直後に、真っ先に現場に着いたのは薩摩藩の吉井幸輔、土佐藩の田中光顕、谷干城、毛利恭介、海援隊隊士の白峰駿馬らである

暗殺実行者は誰か!

「京都見廻組実行説」 大正時代になって元見廻組隊士だった今井信郎、渡辺篤の口述で、佐々木只三郎らが実行犯であると証言している。また、勝海舟は幕府上層部の指示であるとも推測している。この見廻組実行説がいわば通説となっており、これに疑問を呈する歴史学者は皆無に等しい。ただし、今井や渡辺の口述に食い違う部分(刺客の人数構成、現場に置き忘れた鞘の持ち主など)があるため、主に作家を中心に色々な異説が唱えられている状況である。なお現場に駆けつけた中岡慎太郎を見舞った谷干城は京都見廻組説を信じていなかったという。

「新撰組犯行説」 事件後、11月26日に幕府から取り調べを受けた新撰組局長の近藤勇は関与を否定した。現在では、新撰組犯行説を支持する研究者は殆んどいない

「薩摩藩陰謀説」 幕藩側に立って良く書かれるテレビ・小説等は故意に幕府側に龍馬の所在を薩摩側が漏らしたとする説で、一部に熱狂的な支持者がいるものの、歴史学界では殆んど相手にされていないのが実情である

「イギリス陰謀説」 武力倒幕により、薩長倒幕側に武器の売り込みを狙ったジャーデイン・マセソン系のイギリス人・グラバー、外交官・パークス、アーネスト・サトウらにより仕組まれた陰謀であるとの説。

       その十二に続く             以上

2010年3月21日 (日)

米9.11テロ事件テロ主犯格の裁判、オバマ政権、軍事法廷に転換か?

ワシントン(CNN) 2001年9月11日のNYテロ事件の主犯格とされる国際テロ組織アルカイダ(?)ハリド・シェイク・モハメド容疑者らの裁判の実施場所で、オバマ政権高官は5日、ホワイトハウス顧問らがホルダー司法長官が提案したニューヨークの一般法廷ではなく軍事法廷とする提案を検討していることを明らかにした。

司法長官は昨年11月、陪審による公正な裁判を目指し、ニューヨークの連邦裁判所の一般法廷を提案、オバマ大統領も賛同していた。しかし、治安対策、経費捻出などを踏まえ、ニューヨーク市や野党・共和党から異論が続出。共和党からは、テロ容疑者は一般法廷で被告に与えられる法的権利を受ける資格はないとの反発も出ていた。

モハメド容疑者らのニューヨーク移送は、現在収容されているキューバ・グアンタナモ米海軍基地にあるテロ容疑者施設の閉鎖案に絡むものだが、連邦議員の間には閉鎖に必要な経費支出の承認に軍事法廷での裁判を条件付ける動きも出ている

ホワイトハウスのギブス報道官は5日、ニューヨーク市が抱く治安対策、支援態勢に関する懸念を踏まえ、選択肢も検討していると述べた。政権高官は、裁判の実施場所についてオバマ大統領は3月後半に予定するオーストラリア、インドネシア歴訪前に決定する見通しだとも語った。

グアンタナモ施設の収容者の移送先については、オバマ大統領の地元である米イリノイ州の刑務所利用が決まっている他、「危険度」の少ない収容者は出身国もしくは第三国への移送を進める方針。

他方、CNNは6日、「イラン大統領、米NYテロ事件は(作り話)と主張」とニュースを発信した。イラン国営プレスTVによると、同国のアフマデイネジャド大統領は6日、2001年9月11日の米NYテロ事件について、米軍によるアフガニスタン攻撃の口実とするための「作り話」だったと述べた。

アフマデイネジャド大統領は、NYテロが米国にとって、「対テロ戦に乗り出し、アフガンへ部隊を送り込む理由を作る」ことを目的とした「シナリオであり、巧妙な情報策」だったと主張した。

イラン労働党通信(ILNA)が7日伝えたところによると、同大統領は8日、再選後初めてアフガンを訪問。これに先立ち、同国が抱える「問題」の原因は、米軍など外国部隊の駐留にあるとの立場を改めて示した。

ここで疑問が湧くのは、CNNが9.11テロ事件において米国での動き(9.11テロの正当化の動き)とイランでの動き(9.11テロの否定化の動き)の、正反対の意見を同時に敢て取り上げる目的は何かということである。

先般ワシントン・ポスト紙日本の民主党・現職参議院議員の藤田幸久氏を9.11テロ事件に疑問を持ったとの事で、酷評したため、改めて世界的に反響を呼び、疑問が渦巻いてきた中での取り上げ方のため、何か目的があるのかどうか今後のオバマ政権の動きに目が離せません。        以上

2010年3月20日 (土)

今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その十(大政奉還)

徳川家茂の死後、将軍後見職の徳川慶喜は徳川宗家を相続したが、幕府の自分に対する忠誠を疑ったため、征夷大将軍職への就任を拒んでいた。5か月後の1866年(慶応2)12月5日ついに将軍宣下を受ける。しかし、同月天然痘に罹っていた孝明天皇が突然崩御。睦仁親王(後の明治天皇)が践祚した

翌1867年(慶応3)薩摩藩の西郷・大久保利通らは政局の主導権を握るため雄藩連合を模索し、島津久光・松平春嶽・伊達宗徳・山内容堂(前土佐藩主)の上京を促して、兵庫開港および長州処分問題について徳川慶喜と協議させたが、慶喜の政治力が上回り、団結を欠いた四侯会議は無力化した

5月には摂政二条斉敬以下多くの公卿を集めた徹夜の朝議により長年の懸案であった兵庫開港の勅許も得るなど、慶喜による主導権が確立されつつあったこうした状況下、薩摩・長州はもはや武力による倒幕しか事態を打開できないと悟り、土佐藩・藝州藩の取り込みを図る。土佐藩では後藤象二郎が坂本龍馬の影響もあり、武力打倒路線を回避するために大政奉還を提議し、薩摩藩もこれに同意したため、6月22日には薩土盟約が締結される。

これは徳川慶喜に自発的に政権返上することを建白し、拒否された場合には武力による圧迫に切り替える策であった。しかし兵力の発動を渋る山内容堂に反対され、また薩摩藩も慶喜の拒否を大義名分として結局武力発動しかないと判断していたため、両藩の思惑のずれから9月7日盟約は解消。

結局土佐藩は10月3日単独で山内容堂が老中に大政奉還の建白書を提出した。いっぽう、薩摩藩の大久保・西郷らは、長州藩・藝州藩との間に武力を背景にした政変計画を策定。さらに洛北に隠棲中だった岩倉具視と工作し、中山忠能(明治天皇の祖父)・中御門経之・正親町三条実愛らによって、慶応3年10月14日(1867年11月9日)に討幕の蜜勅が出されるにいたる。

ところが、徳川慶喜は山内容堂の進言を受け入れ、同じ10月14日には、天皇に大政奉還を奏請しており(在京各藩士には前日に二条城で宣言していた)、討幕派は大義名分を失った。大政奉還により、江戸幕府による政権は名目上終了した

「大政奉還の上奏文」 臣慶喜謹て皇国時運の沿革を考候に、昔し王綱紐を解き相家権を執り、保平の乱政権武門に移りてより、祖宗に至り更に寵眷を蒙り、二百余年子孫相受、臣其職奉ずと雖も、政刑当を失ふこと少なからず。今日の形勢に至り候も、畢竟薄徳の致す処、慙愧に堪へず候。況や当今、外国の交際日に盛なるにより、愈朝権一途に出申さず候ては、綱紀立ち難く候間従来の旧習を改め、政権を朝廷に帰し奉り、広く天下の公議を尽し、聖断を仰ぎ、同心協力共に皇国を保護仕候得ば、必ず海外万国と並立つべく候。臣慶喜国家に尽す所、是に過ぎずと存じ奉り候。去り乍ら猶見込の儀も之有り候得ば、申聞くべき旨、諸侯え相達置候。之に依って此段謹て奏聞仕候。以上 慶喜

             その十一に続く                以上

2010年3月19日 (金)

群大で重粒子線治療が開始される。

昨年3月から試行中であった重粒子線治療が、この程、群馬大学医学部(前橋市昭和町)が導入した重粒子線治療施設でガン患者への初めての治療が行なわれ、同大と県は17日、県庁で記者会見を開き、経過と今後の計画を発表した。

発表によると、患者は前立腺ガンを患う県内の男性で、16日に一回目の照射が行なわれた。患部への照射時間は40~45秒で、担当医師によると、患者の容体に異状はなく、「体調は良好」と話しているという。

県などによると、重粒子線治療の特徴は、エックス線を用いる従来の放射線治療に比べ、ピンポイントでガン病巣に照射でき、正常細胞を殆んど傷つけない点が挙げられる。また、細胞を破壊する作用が強く、照射回数も少なくなる。前立腺ガンの場合、4週間で16回の照射を想定。他に肺ガン、直腸ガン(術後の再発)などに対する治療効果が期待されている。

現在、重粒子線治療は自由診療として行なわれ、全額患者の自己負担で、治療費は約300万円と高額になる。同大は、保険診療との併用が認められる「先進治療」として承認を受けるため、条件となる10例の治療を済ませた後、厚生労働省に申請する今夏には一般治療を初め、将来は年間800人の治療を計画している。

同大は、「いずれ外来通院で治療する態勢にしていきたい」と意欲を示し、県も「保険適用されるよう国に働きかけていきたい」と話した。県は、患者の負担を軽減するため治療費を金融機関から借り入れた場合に利子を助成する制度を導入し、新年度当初予算案に90万円を盛り込んだ。            以上

2010年3月18日 (木)

今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その九(薩長同盟)

「薩長同盟」 は、江戸時代後期の慶応2年1月21日(1866年3月7日)に京都二本松薩摩藩邸で幕末の薩摩藩と長州藩の間で締結された政治的、軍事的同盟である。薩長盟約、薩長連合ともいう。

幕末の政治世界で影響力を持った薩摩藩と長州藩は討幕の思想では共通していたが、西郷隆盛・大久保利通らの薩摩は、1864年(元治元年)の会津藩と協力した8月18日の政変や禁門の変で長州を京都から追放し、第一次長州征伐(幕長戦争)などで薩摩が長州を屈服させて以来感情的には敵対していた。

長州、薩摩共に伝のある土佐藩脱藩の坂本龍馬や中岡慎太郎の斡旋により、主戦派の長州藩重臣である福永喜助宅において会談が進められ、下関での会談を西郷が直前に拒否する事態もあったが1月21日(22日説も)京都小松清廉(京都市上京区)で坂本を介して西郷隆盛、大久保利通、薩摩藩家老の小松清廉(帯刀)と長州藩の木戸孝允(当時は桂小五郎)が討幕運動に協力する6か条の同盟を締結した。他の薩摩側出席者は、島津伊勢(諏訪甚六広兼)、桂久武、吉井友実、奈良原繁。

薩長同盟提携内容(6ヶ条)

ー、 戦いと相成候時は、すぐさま二千余の兵を急速差登し、只今在京の兵と合し浪華へも一千程は差置き、京阪両所相固め候事

ー、 戦、自然も我が勝利と相成り候気鋒相見え候とき、其節朝廷へ申上げきっと尽力の次第これあり候との事

ー、 万一敗色に相成り候とも、一年や半年に決して潰滅致し候と申す事はこれなき事に付き其間には必ず尽力の次第これあり候との事

ー、 是なりにて幕兵東帰せし時は、きっと朝廷へ申上げすぐさま冕罪は朝廷より御免に相成り候都合にきっと尽力との事

ー、 兵士をも上国の土、橋、会、桑も只今の如き次第にて、勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を抗し、周旋尽力の道を相遮り候時は、終に決戦に及ぶほかこれなくとの事

ー、 冕罪も御免の上は、双方とも誠心を以って相合し、皇国の御為に砕身尽力仕り候事は申すに及ばず、いづれの道にしても、今日より双方皇国の御為め皇威相輝き、御回復に立ち至り候を目途に誠しを尽くして尽力して致すべくとの事なり

坂本龍馬が桂小五郎の求めに応じて裏面に朱書で、裏書署名している。

「表に御記入しなされ候六条は小・西両氏および老兄龍等も御同席にて談合せし所にて、毛も相違これなく候。従来といえども決して変わり候事はこれなきは神明の知る所に御座候。」      その十に続く             以上

  

          

 

2010年3月16日 (火)

今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その八(尊王攘夷)

「尊王攘夷」とは、王を尊び外圧・外敵を撃退しなければならないとする思想。日本では、江戸時代末期(幕末)に朝廷から一般民衆まで熱く論じられ、反体制運動の合言葉として利用された。国の存在の根拠としての尊王と、侵掠・侵入してくる外敵に対抗する攘夷が結びついたもの。「王(きみ=天子)を尊び、夷(い=外国人)を壌(はら)う」の意。

古代中国の春秋時代において、周王朝の天子(王)を尊び、王朝を守るため侵入する夷狄(いてき=周辺諸民族。この時代の夷狄は南方の楚を差していた)を打ち払う、という意味で覇者が用いた標語を、国学者が輸入して流用したものである。

斉の桓公は、周室への礼を失せず、諸侯を一致団結させて、楚に代表される夷狄を討伐した。その後、尊王攘夷を声高に唱えたのは、宋学の儒学者たちであった。なお幕末期における「尊王攘夷」という言葉の用例は、徳川斉昭が弘道館記で東照宮家康公の事績を褒め称える文脈で使っているのが最も古い。

「攘夷」 徳川斉昭時代の後期水戸学は、外圧に対抗する尊攘運動を思想的に指導したように、この時代から尊王攘夷は攘夷運動が中心となる。1858年(安政5)、大老井伊直弼が、無勅許で日米修好通商条約に調印し、そののちオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも条約を結んだため、天皇尊崇の尊王論と外国排斥の攘夷論が、幕府を問責するに主力を傾注した。

その背景には輸出超過のために起こった国内物資の不足と物価高騰とがあり下級武士や豪農・豪商は幕府の責任を問うとともにその政権打倒に与するに至った。吉田松陰の出た長州藩は尊王攘夷を激化させたが、島津藩や土佐・福井・会津藩などは公武合体論による対外的現実主義政策を主張して、京都で両派は激突を繰り返した。

長州激派と薩摩藩等公武合体派が1864年(元治1)に戦った禁門の変で長州が敗北したが、1866年(慶応2)の第二次長州征伐で幕府が失敗し薩摩の小松帯刀・西郷隆盛と長州の木戸孝允らが薩長同盟に成功したのも同年のことである。1863年(文久3)の長州藩外国船砲撃事件と薩英戦争に敗れた薩長は外圧に対する攘夷の不可能を思い知らされ、攘夷運動を討幕に切り替えた。

1867年(明治1)の将軍慶喜の大政奉還は薩長らの討幕計画の圧力によるものだが形式的には尊王論の結論でもあった。明治維新の王政復古や1870年(明治3)の大教宣布の詔は、尊王運動の結末であるが、そののちの文明開化以後には尊攘思想の復古と反省が繰り返される。 その九に続く                   以上

2010年3月15日 (月)

GMのリコール件数、トヨタの10倍以上!が真相なのに、何故?

トヨタのリコール叩きの一環として、米ABCテレビが2月22日に放映した、「急加速原因が電子制御装置の欠陥である事を立証した」とするギルバート南イリノイ大学教授の実験報道について、この程3月12日に、映像を操作したものであることを遂に認めざるを得なくなり発表した。電子装置に細工を施しショートさせ、故意に欠陥を作りだしたとの事である

9.11テロ事件以降とくにそういう傾向が強まっていたが、ここまで米国のメディア(日本のメディアもこの傾向)「真実を伝えるとの原則」を殴り捨て、自己の利益を確保するためにはなりふり構わず、敢えて作り出した宣伝情報(偽装情報を含む)を、日常的に放送してしまう事に転じてしまったのか嘆かわしい限りであります。かって、世界をリードしていた頃の輝かしい米国の資本主義もここまで腐敗してしまったのかと驚かされます。

リコール問題で日本のトヨタだけを狙いうちに叩くのは、アメリカがトヨタの売り上げを減らし、米国車のGM等を助けるために、何がなんでもやるとの意思で米国民主党やオバマ政権が動いているものです。

因みに現状の米国でのリコールされ修理された車の状況は下記の通りです。

BUICK         765       CHRYSLER      661

CADILLAC      518        DODGE       2,599

VHEVROLET    3,524        

GMC         2,745

OLDSMOBILE   578

PONTIAC       928

    TOTAL    9,058 (米国車)      3,260(伊車)

TOTAL government autos:   12,318(米国+伊国 )

TOYOTA   669(日本)

以上のように、米国車のメーカーのリコール件数は9058件であり、一方トヨタのリコール数は669件と10分の1以下である。

更に、CHRYSLERは661件で,DODGEは2599件とクライスラー系単体でも3260件、全て含めると12,318件のリコール件数となる。

確かに日本のトヨタにもリコールはあるし、ゼロではないのは事実なので、十分調査して欠陥がないように今後も努力する必要はありますが米国車のリコールは圧倒的に多いのが実情です今回のやり方はあまりにも理不尽で不公平であります。ちょっと度が過ぎていてヒステリックな面があります。

今後とも、他の分野にもこの傾向は進行していく可能性が十分ありますので、他山の石としたいものです。         以上 

                     

2010年3月14日 (日)

今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その七(尊王攘夷)

尊王論は江戸初期から始まり、幕末には攘夷運動と合体して尊王攘夷運動となり討幕運動に発展して、明治維新変革を成功させた。日本の近代民族国家を創設することを目的とした維新変革は、富国強兵と西欧文明の近代技術を輸入消化することを手段としながら、変革のイデオロギーは尊王攘夷であった。

後進地域であるアジアの一国としての日本が、西欧先進国との国際的競争に打ち勝つためには、日本の主体性の主張が先決問題であった。尊王攘夷は日本の民族主義の主張であり、西欧近代国家のナショナリズムと性格は同じである。ナショナリズムは合理的・理性的であるよりは、非合理的で感情的である。

「尊王」 戦国時代末期から江戸時代初期にかけて日本に渡来したイスパニア・ポルトガル・オランダ・イギリスなどの西欧諸国は、重商主義国としてアジアの植民地化を企て、キリシタン布教により宗教的進出をも目的としていた。1637~1638年(寛永14~15)の島原の乱と1633~1639年(寛永10~16)の数次の鎖国令は、近世の日本が西欧の脅威に民族としては初めての危機を痛感した象徴的史実である。

1657年(明暦3)に始まる徳川光圀「大日本史」編纂は、江戸時代初期の国際的危機に、日本の国体の尊厳を古代的・大和神話的権威の象徴である天皇尊崇を歴史研究によって確かめるための事業であった。江戸小石川の彰考館で「大日本史」編纂に従事した館員は、安積澹泊・朱舜水ら朱子学派が15名、栗山潜鋒ら敬義学派が3名、国学神道の学者が4名、その他となっている。

朱子学の大義名分論敬義派儒者山崎闇斎の垂加神道、その他国学や神道のような既成思想の影響が彰考館でも大きかったが、「大日本史」は日本の歴史事実を史料的に実証して、天皇を頂点とする家政国家や君臣の階級節度の史実を明らかにすることを目的とした。

前期水戸学の尊王は、国民の自覚を高揚させるが、対外的な攘夷思想ではなく鎖国と同様な性格である。1758年(宝暦8)の宝暦事件は、竹内式部が京都の公卿に垂加神道の尊王思想を宣伝して処罰されたが、これも朝幕関係にかかわる国内問題に過ぎなかった。徳川斉昭が彰考館で、豊田天功・藤田東湖・会沢正志斎らと「大日本史」編纂を続けた1829~1860年(文政9~万延1)の頃は、ロシア・イギリス・アメリカなどが日本の近海に出没し1853年(嘉永6)のペリー来航以来、日本の存亡にかかわる外圧の時代であった。

会沢正志斎が1825年(安政8)に世に問うた「新論」は、激越な尊王攘夷思想の宣伝文書で、幕末尊攘運動の志士たちの指針となった。

   その八に続く              以上

2010年3月13日 (土)

「9.11偽装テロ事件」真相究明のための資料編

3月8日付けの米紙ワシントン・ポストの社説で日本の民主党現職・参院議員「藤田幸久氏」を「9.11テロ事件」の件で「とんでもない、いい加減な事を言っている人物である」と酷評した問題が、一気にまた、「9.11の真相は」どうなんだという大反響を世界中に巻き起こしています

その真相を知る上で大変参考になるサイトをいくつかご紹介致しますので、是非この際良く研究していただき、従来の新聞・テレビ・ラジオの偽装ニュースに惑わされずにご自身の目で、しっかり確かめていただきたくご案内致します

藤田幸久氏「現職・参院議員、民主党国際局長」

       http://www2.y-fujita.com/cgi-bin/

きくち ゆみ氏 911真相究明国際会議

       http://kikuchiyumi.blogspot.com/

見ればわかる9.11研究

       http://doujibar.ganriki.net/00menu.html

911の真実を今

       http://www5.pf-x.net/~gotama/

以上、主なサイトをご紹介いたしました。なお、現在、多数のサイトやyou tubeの動画・

    書籍・各国のサイト等、いっぱいあります。是非ご覧下さい。

2010年3月12日 (金)

今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その六(安政の大獄)

安政5年(1858年)4月大老に就任した井伊直弼(彦根藩主)は条約問題と将軍継嗣問題を強権的に一気に解決を図った。即ち、大老就任直後の6月、勅許の降りないまま井上清直と岩瀬忠震を全権として日米修好通商条約を締結させた。

領事裁判権を認め、関税自主権を喪失し、かつ片務的最恵国待遇を課した拙速な不平等条約であり、同様な条約がイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結ばれた(安政の五ヶ国条約)。

開市開港は段階的に行なうとされたが、この時期についてはロンドン覚書調印により時期をずらすことになる。また、将軍職については、5月紀州慶福を後継に決定する。慶福は家茂と改名し、江戸城へ入った(将軍就任は10月)

こうした井伊の強権的手法には反撥が相次ぎ、徳川斉昭(水戸藩主)・徳川慶勝(尾張藩主)・松平慶永(越前藩主、のち春嶽)らは抗議のため登城するが、無断で登城したことを理由に逆に井伊によって謹慎処分を受ける事となった。また、京都を中心に活躍した一橋派各藩の工作員らも、井伊の指示を受けた老中間部詮勝(鯖江藩主)らが取り締まりを行なった。

これにより、橋本左内・梅田雲浜・頼三樹三郎らが処刑された。また長州藩(萩)で私塾・松下村塾を開いていた吉田松陰なども、間部詮勝の暗殺を企てたかどで処刑された。これら一連の政治的弾圧を「安政の大獄」と呼ぶ。特に幕府・関白を介さず、朝廷から直接水戸藩へ勅書が出された件(戊午の密勅)は井伊ら幕閣の警戒感を強め、水戸藩への弾圧は苛烈を極めた。

安政の大獄は、旧一橋派や攘夷派の反撥を招く。度重なる弾圧に憤慨した水戸藩や薩摩藩の浪士は、密かに暗殺計画を練り、万延元年3月3日(1860年3月24日)、江戸城登城の途中の井伊を桜田門の外で襲撃して暗殺を決行した(桜田門外の変)。政権の最高実力者に対する暗殺という結果は、幕府の権威を大きく失墜させることとなった

「安政の大獄での犠牲者の名簿サイト」  安政の大獄ーwikipedia で検索して下さい

「平成の大獄での犠牲者の名簿サイト」 小泉劇場ーwikipedia で検索して下さい 

 その七に続く                            以上

2010年3月11日 (木)

「9.11偽装テロ事件」を正当化しようとの動きあり!

昨日(2010年3月9日)の朝日新聞夕刊に載った記事を見て、やはりかと思った。記事の内容は次の通り。

民主・藤田氏発言を酷評

「ワシントン=伊藤宏」米紙ワシントン・ポストは8日付けの社説で、民主党の藤田幸久国際局長(現職・参院議員)が同紙の取材に対し、2001年9月11日の米同時多発テロをめぐる米捜査当局の調べに疑問を挟む発言をしたとして「突拍子もなく、いい加減で、偽りがありまじめな議論に値しない」と酷評した。鳩山由紀夫首相が容認すれば、日米関係に影響するとも警告した。同紙は、藤田氏が最近の同紙による取材に対し、

「テロリストの犯行かどうかに疑問を挟んだ」 「世界貿易センタービルの倒壊が(飛行機の衝突による)火災ではなく、起爆装置で起きた可能性があると示唆した」 と紹介。そのうえで、こうした「幻想」は鳩山政権の「反米傾向」を反映していると指摘した。

さらに「藤田氏のような無謀で事実に反した考え方を鳩山氏が容認するなら、日米関係が厳しく問われる事になるだろう」と断じた。

藤田氏は、野党時代の2008年4月(1月?)の参院外交防衛委員会で、国際テロ組織アルカイダのオサマ・ビンラデイン容疑者の関与に疑問を挟む内容の質問をした。今年1月発売の週刊朝日でも、同様の持論を展開。米国の対日専門家らは「ありえない話だ」と批判しており、日米間の新たな問題に発展する可能性もある。

以上の内容で紹介されている。

この問題は、米国でも83%が真相を知っている(しかし世間に口外できない愛国法が有る)し、世界的にも三分の二の人々が知っている事実である。残念ながら、日本国内では99%の方が、まだ誤魔化されたままで真相を知らない方が多い。

米紙ワシントン・ポスト紙はもともと保守系の新聞ではあるが、しかし他の新聞・マスコミも真相を仲々言えない状況であり昨年5月オバマ大統領自身が暗殺の危機がありましたオバマ氏はそれ以来「9.11偽装テロ事件の真犯人」追求を緩めた経緯があります

かって、ケネデイ大統領暗殺がありましたが、言う事を聞かない人間は大統領でさえも殺してしまう国であるのは、本当に怖い恐ろしい国であります。

現在、日米同盟50周年で議論されていますが、本当に、こんな正義の通らない、自分勝手な恐ろしい国と同盟を組んでいて良いのかどうかもう一度良く考える必要がありそうです。  以上

2010年3月10日 (水)

今、何故,NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その五(条約の内容)

日米修好通商条約調印後、勝海舟や、福澤諭吉を乗せた咸臨丸が条約の批准書を交換するために渡米している最中に桜田門外の変により井伊直弼は暗殺された。

条約の主な内容は、

(1)条約港の設定。神奈川(1859年7月4日「安政6・6・5」)

 長崎(1859年7月4日「安政6・6・5」)  箱館(函館)(既約1854年3月31日「嘉永7・3・3」)

 新潟(1860年1月1日「安政6・12・9」) 兵庫(1863年1月1日「文久2・11・12」)

  以上の開港と

 下田の閉鎖(1860年1月4日「安政6・12・12」)

(2)領事裁判権をアメリカに認める。

(3)江戸(1862年1月1日「文久元年12・2」)  大阪(1863年1月1日「文久2・11・12」)

  二都市での開市許可。

(4)自由貿易

(5)関税はあらかじめ両国で協議する(協定税率、関税自主権がない状態)。

(6)内外貨幣の同種同量による通用。

(7)アメリカへの片務的最恵国待遇。

詳細のサイトは「http://www.geocities.jp/sybrma/177nichibeisyukoutsusyou.html]           

以上であるが、実際に開港したのは神奈川ではなく横浜(1859年7月1日「安政6・6・2」)、兵庫ではなく神戸であった。この事は条約を結んだ各国から批判もされたが、明治新政府になると横浜を神奈川県神戸を兵庫県として廃藩置県することで半ば強引に正当化した。

最恵国待遇については、当初アメリカ側からは双務的な最恵国待遇を提案されたものの、鎖国政策を出来るだけ維持し、一般の日本人に対しては自由な海外渡航を認める考えが無かった幕府側から断ったとする見方もある。

貨幣の交換比率は銀貨を基準に定められた。当時の日本の金銀比率は金1に対し銀4.65であり、諸外国の相場(金1対銀15.3)に比べ銀が強く、物価は金基準では諸外国と同等、銀基準では格段に安かった。そのため幕府は金貨基準の貨幣の交換を主張するがハリスは銀貨基準の交換を主張して押し切り、金の流出・インフレーションによる経済の混乱を引き起こすことと成った。(幕末の通貨問題)

 その六に続く                                 以上

2010年3月 8日 (月)

今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その四(通商条約)

江戸幕府は、諸国大名に命じ江戸湾一帯の警備を固めたが、如何せん軍事力の差は歴然としており、戦争すれば、敗北間違いなしの状態(現在と同じ)であった。

このため、1858年7月29日(安政5年6月19日)に日本とアメリカ合衆国の間で「日米修好通商条約を結んだ。幕末の混乱期から明治初頭にかけて日本が列強と結ぶことを余儀なくされた不平等条約の一つである。幕府は同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んだ(安政五ヶ国条約)。

この不平等条約が解消するのは日本が日清戦争において清に勝利した後で1899年(明治32)7月17日に日米通商航海条約(1940年{昭和15年」1月26日失効)が発効したことにより失効した。

経緯

日米和親条約により日本初の総領事として赴任したタウンゼント・ハリスは当初から通商条約の締結を計画していたが、日本側は消極的態度に終始した。しかしハリスの強硬な主張により交渉担当者の間で通商条約止むを得ずという雰囲気が醸成されると老中・堀田正睦は孝明天皇の勅許を得て世論を納得させた上での通商条約締結を企図する。

堀田は自ら京都へ向い条約勅許に尽力したが武家伝奏への取次ぎの際、中山忠能・岩倉具視ら中・下級公家88人が抗議の座り込みを行なう(いわゆる「廷臣八十八卿列参事件」)など攘夷派の少壮公家が抵抗した。

また、孝明天皇自身、和親条約による薪水給与までなら、あくまで港内での上陸であるため「神国日本を汚すことにはならない」との考えであったが、対等な立場での異国との通商条約となるとこの秩序に変化をもたらすものであり、「祖先に申し訳ない」と頑固な態度で拒否した勅許獲得は失敗に終わり、それが原因で堀田は辞職に追い込まれる

ハリスはここに至って交渉を急ぎ、アロー号事件をきっかけに清と戦争中(1856~1860年)のイギリスやフランスが日本に侵略する可能性を指摘してそれを防ぐにはあらかじめ日本と友好的なアメリカとアヘンの輸入を禁止する条項を含む通商条約を結ぶしかないと説得した。新たに大老に就任した井伊直弼はこれを脅威に感じ孝明天皇の勅許がないままに独断で条約締結に踏み切った。

調印は神奈川沖・小柴(八景島周辺)のポウハタン号上で行なわれた。日本側代表は下田奉行の井上清直・目付の岩瀬忠震、アメリカ側の全権はハリスであった。

その五に続く                          以上

2010年3月 7日 (日)

太陽系惑星群、銀河系宇宙の星間雲に突入を確認!最新情報(3)

この程、「恐竜絶滅の原因、やはり小惑星」であったことについて、従来からの論争に決着が付きました。

小生のブログ(2010・2・21付け、その二十二「7500万年前、約300Mの岩石」)での見解も、今回の発表の結論に訂正させていただきます。すみませんでした。

「発表内容」

白亜紀末にあたる約6550万年前の、恐竜の絶滅の原因はやはり小惑星の衝突だった。

千葉工業大学惑星探査研究センターの松井孝典所長(惑星科学)らが参加する国際チームがそう結論づけた。松井所長は「天体衝突の環境への影響がはっきりした」と話している。2010年3月5日付けの米科学誌サイエンスに発表する。

天体衝突説は、ノーベル物理学賞受賞者のルイス・アルバレス氏らが1980年に提唱。1991年にメキシコのユカタン半島で衝突跡と見られる「チチュルブ・クレーター」(推定直径180キロ以上)が確認された。だが、大規模な火山活動などが原因とする異論もあり、決着はついていなかった。今回、地質学や古生物学、地球物理学など世界12カ国41人の研究者が約半年かけ、さまざまな論文を精査した。

その結果、世界約350地点の白亜紀と古第三紀(~2300万年前)の境目にあたる地層に、小惑星がもたらしたとみられる希少な金属イリジウムや衝突で変質した石英が含まれ、ユカタン半島から遠くなるほどその地層が薄くなっていること、生物の大量絶滅と時期が一致すること、などが確認できた。

小惑星の直径:10~15キロメートル  速度:秒速20キロメートル(弾丸の約20倍)

放出エネルギー:10の23~24乗ジュール(広島型原爆の10億倍)

衝突による地震:マグニチュード11以上 衝突地点周辺の津波:高さ300メートル

千億~5千億トンの硫酸塩やすすが大気中に放出されて太陽光を遮り、酸性雨や寒冷化を引き起こし、植物プランクトンの光合成が長期間停止するなど生物の約6割が絶滅したとみられる。

1億5千万年以上続いた恐竜時代はここで終わったとしている。国内から研究に参加した東北大の後藤和久助教(地質学)は「30年間のあらゆる分野のデータが、チチュルブ衝突による生物絶滅を支持している。この説は揺ぎ無いものになった」と話している。(2010・3・5朝日・朝刊より)                    以上

2010年3月 6日 (土)

今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その三(日米和親条約)

条約調印後は、伊豆国下田(現静岡県下田市)の了仙寺へ交渉の場を移し、1854年5月25日に和親条約の細目を定めた下田条約(全13箇条)を締結した。なお、ペリー艦隊は同年6月1日に下田を去り、帰路琉球へ立ち寄り、琉球王国とも通商条約を締結している(琉米修好条約)。

条約の内容は以下の通り

日米和親条約の主な項目

(1)アメリカに物資を補給(薪水給与)するために下田、函館を開港(条約港の設定)すること。(第2条)

(2)漂流民の救助、引渡し。(第3条)

(3)アメリカ人居留地を下田に設定する。(第5条)

(4)片務的最恵国待遇(第9条)

詳細項目サイトhttp://www.geocities.jp/sybrma/173nichibeiwashinjouyaku.html

下田条約の主要項目

「1)アメリカ人の移動可能範囲は下田より7里函館より5里四方に限り武家・町家に   立ち入る事を禁ず

(2)アメリカ人に対する暫定的な休息所として了仙寺・玉泉寺に置き米人墓所は玉泉寺に置く。

(3)アメリカ人が鳥獣を狩猟する事を禁ず。

アメリカ側の目的

アメリカはその時代には鯨油を貴重な燃料として使用していたが、そのために太平洋に鯨を取りに行くと大量の燃料が必要になるので、それを日本で補給して燃料代を浮かせようとした事が目的であったといわれている。

また、別の目的は食料と水の補給確保である。特に、穀類は別としても、冷蔵庫もなく、しっかりした保存食もない時代において、脚気や壊血病の防止、また乗組員の満足できる味と量の食事のためには生野菜や肉類の補給は必要であった。また、清をはじめとする東アジアとの貿易のための補給港としても重宝とされた。

条約の日本語批准書原本は幕末の江戸城火災により消失した。オランダ語によって書かれた批准書原本の内アメリカ合衆国が持ち帰ったものについては、アメリカ国立公文書記録管理局で保管されており現存する。2004年(平成16年)には、日米交流150周年を記念して、アメリカから日本へ条約批准書のレプリカが贈られた。

       この続きはその四に               以上

2010年3月 5日 (金)

経済産業省アイディアボックスの件

既に、ご存知の方も多いと思いますが、政権交代して、新たな試みで、現在、経済産業省で、「アイディアボックス」を設置して、広く国民よりアイディアを募集しています。小生も既に数件提案したり、他の方のアイディアに付いてコメントをしたりしています。

本日3/4(木)18:00現在、3357人の方が提案しています。まだ、ご覧になってない方が、居りましたら是非一度下記メールアドレスにクリックして、どんな提案があるか見ていただき、或は、こうしたら良いのではないかと思われましたら、どしどしご意見を提言されてみたら良いのではと思いますので、このブログを利用してお知らせする事に致しました。

経済産業省アイデイアボックスのメールアドレスは

      http://open-meti.go.jp/

こちらです。

募集期間は:2010年2月23日~3月15日まで。     以上

2010年3月 4日 (木)

今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その二

「2009年に起工された、最新の米国原子力空母(CVNー21級、CVNー78)艦名「ジェラルド・R・フォード」の規模は以下の通り

満載排水量:102,000t 全長:332.9m 甲板幅:78M 速度:30kt以上 原子炉:A1B(14万馬力ほど)x2基 蒸気タービン ギヤ減速4軸推進 リニアモーター・エレベータx3艦形:左:片側アングルド・デッキ 右:アイランド 搭載機:ミサイル:原子爆弾等の数は不明だが、かなりの数と思われる。」

「米国の原子力空母を含む大型空母は通常、一隻の空母とミサイル巡洋艦、ミサイル駆逐艦、駆逐艦、ミサイルフリゲートなど複数の護衛艦艇及び攻撃型原子力潜水艦、高速戦闘支援艦・給油艦・戦闘給糧艦などよりなる空母打撃群(carrier strike group,CSG)を構成して空母単艦では脆弱な海中や空中からの攻撃などに備えている。」

当時の江戸・徳川幕府は米国の砲艦外交(黒船・大砲での威嚇等)に恐れをなし1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に江戸幕府とアメリカ合衆国との間で「日米和親条約」を締結した。神奈川条約ともいわれており、日本側全権は林復斎(大学頭)、アメリカ側全権は東インド艦隊指令長官のマシュー・ペリーである。この条約によって日本は下田と箱館(現在の函館)を開港し、鎖国体制は終焉を迎えた

条約名のうち「日米」とは、日は日本、米はメリケン(米利堅)で、条約の正式名は、「日本國米利堅合衆国和親條約」である。幕末から明治にかけては、アメリカ合衆国は「メリケン」「米利堅」と呼ばれることが多かった。

1842年(天保13年)にアヘン戦争による清国の敗北もあり、江戸幕府は異国船打払令から薪水給与令に改めた。この変更も開国を意味せず、諸外国の船舶には穏便に帰国してもらうことが目的であった。

1853年(嘉永6年)、フィルモア米大統領の命を受けたペリー提督は艦隊(日本では黒船と呼ばれた)を率いて日本に来航、大統領の開国・通商を求める親書を持って幕府に開国・通商を求めたが、幕府側が一年の猶予を求めたため一時退去した(黒船来航)。

翌年の1854年2月13日(嘉永7年1月16日)、再び来航して江戸湾(東京湾)へ入港した。同年2月6日、幕府は武蔵国久良岐郡横浜村字駒形(神奈川県横浜市中区の神奈川県庁付近、現横浜開港資料館所在地)に応接所を設置し、約1ヶ月にわたる協議の末、同年3月31日(嘉永7年3月3日)に全12箇条からなる日米和親条約を締結、調印した。

この時の将軍は13代将軍徳川家定(1853.10~1858.7)、老中は阿部正弘(1819~1857)である。阿部は、幕末の政治家で備後福山藩主で老中となり、ペリー来航以降の国事に際しては幕府独裁制を廃して有力大名との協調、人材の登用をはかり、和親条約を結んで開国の端を開いた。その三に続く             以上

2010年3月 2日 (火)

今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その一

今年、2010年のNHK大河ドラマは、龍馬伝をやっています。主人公の坂本龍馬については、過去にいろいろな形で、TVドラマ、映画、小説、等に扱われて来ました。またか、の思いもありますが、小生は今回、新たな視点よりこのドラマを一年間観て行きたいと思っております

当時の時代背景の、幕末から明治維新の時代の大転換期に生きた一人の人間「坂本龍馬」を現代の時代と比較しながら当時の生き方を現代に活かす方法はどうなのかを念頭に置き、このドラマを観て行きたいと思っております。

当時、幕末の時代に、徳川300年の眠りから目を覚まされる事件として、米国海軍ペリー提督率いる軍艦「黒船」が下田沖に現れて、徳川幕府に開国を迫ったからです

「現在、明治維新以来140~150年からの目覚めで自公民政府・官僚支配から平成維新により民主・社民・国民新政府の政治(国民)主導となる。」

ぺリー艦隊は、総勢7隻、1265人、旗艦ポーハタン号は、長さ75メートル、トン数2415トン、3本マスト、両舷に一つづつの外輪があり、航海には蒸気と風力の双方を用いる木造の軍艦でした。大砲9門を積み、乗組員300名、黒い船体に赤い横筋が入っていたため、「赤すじポーハタン」と呼ばれました。

ペリー艦隊は、米国東海岸のノーフォーク港を出港。喜望峰を回り、7ヶ月で日本に来ています。ペリーの目的は、米国捕鯨船の物資補給を目的とした寄港地の確保、当時米国は、太平洋で盛んに捕鯨を操業していたため、太平洋での航海・捕鯨の拠点(薪・水・食料の補給点)の必要に駆られていた。このため、徳川幕府が開国しない時は、琉球(沖縄)を占領しようと狙っていた。

「現在は、米国・原子力空母や原子力潜水艦が、横須賀港等に寄港して、日本政府に圧力を掛けて、米国の意向を押し通している状況にあります。」

「原子力空母が最初に建造されたのは、1960年進水の米海軍のエンタープライズである。移動できる兵器としては人類最大のものである原子力空母には多くの人や国が、その存在感に恐れと敬意を持って接する。」

「そのため、多くの映画・小説・TV番組にも登場し、11隻も保有する米海軍の象徴的な存在である。2009年現在、原子力空母を運用しているのは米海軍のエンタープライズとニミッツ級とフランス海軍のシャルル・ド・ゴールの合わせて12隻だけである。旧ソ連海軍も計画していたが、ソ連崩壊により中止された。」

「米空母で、90機、仏空母で、40機程の各種航空機を艦内に収容して、海上戦闘、航空戦闘、陸上への戦力投射、輸送、軍事活動支援、人道援助、外交などの各種活動に多角的に対応できる柔軟性を持つ。1艦に2000人から5500人もの人員が乗り込み、何ヶ月もの長期(多くが6ヶ月間)に渡り本国を離れた遠い洋上で生活するため、艦内に診療室、床屋、郵便局、売店、教会などを備えた小さな街を形成している。」その二に続く 以上

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