今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その八(尊王攘夷)
「尊王攘夷」とは、王を尊び外圧・外敵を撃退しなければならないとする思想。日本では、江戸時代末期(幕末)に朝廷から一般民衆まで熱く論じられ、反体制運動の合言葉として利用された。国の存在の根拠としての尊王と、侵掠・侵入してくる外敵に対抗する攘夷が結びついたもの。「王(きみ=天子)を尊び、夷(い=外国人)を壌(はら)う」の意。
古代中国の春秋時代において、周王朝の天子(王)を尊び、王朝を守るため侵入する夷狄(いてき=周辺諸民族。この時代の夷狄は南方の楚を差していた)を打ち払う、という意味で覇者が用いた標語を、国学者が輸入して流用したものである。
斉の桓公は、周室への礼を失せず、諸侯を一致団結させて、楚に代表される夷狄を討伐した。その後、尊王攘夷を声高に唱えたのは、宋学の儒学者たちであった。なお幕末期における「尊王攘夷」という言葉の用例は、徳川斉昭が弘道館記で東照宮家康公の事績を褒め称える文脈で使っているのが最も古い。
「攘夷」 徳川斉昭時代の後期水戸学は、外圧に対抗する尊攘運動を思想的に指導したように、この時代から尊王攘夷は攘夷運動が中心となる。1858年(安政5)、大老井伊直弼が、無勅許で日米修好通商条約に調印し、そののちオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも条約を結んだため、天皇尊崇の尊王論と外国排斥の攘夷論が、幕府を問責するに主力を傾注した。
その背景には輸出超過のために起こった国内物資の不足と物価高騰とがあり、下級武士や豪農・豪商は幕府の責任を問うとともにその政権打倒に与するに至った。吉田松陰の出た長州藩は尊王攘夷を激化させたが、島津藩や土佐・福井・会津藩などは公武合体論による対外的現実主義政策を主張して、京都で両派は激突を繰り返した。
長州激派と薩摩藩等公武合体派が1864年(元治1)に戦った禁門の変で長州が敗北したが、1866年(慶応2)の第二次長州征伐で幕府が失敗し、薩摩の小松帯刀・西郷隆盛と長州の木戸孝允らが薩長同盟に成功したのも同年のことである。1863年(文久3)の長州藩外国船砲撃事件と薩英戦争に敗れた薩長は、外圧に対する攘夷の不可能を思い知らされ、攘夷運動を討幕に切り替えた。
1867年(明治1)の将軍慶喜の大政奉還は、薩長らの討幕計画の圧力によるものだが、形式的には尊王論の結論でもあった。明治維新の王政復古や1870年(明治3)の大教宣布の詔は、尊王運動の結末であるが、そののちの文明開化以後には尊攘思想の復古と反省が繰り返される。 その九に続く 以上
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