今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その六(安政の大獄)
安政5年(1858年)4月大老に就任した井伊直弼(彦根藩主)は条約問題と将軍継嗣問題を強権的に一気に解決を図った。即ち、大老就任直後の6月、勅許の降りないまま井上清直と岩瀬忠震を全権として日米修好通商条約を締結させた。
領事裁判権を認め、関税自主権を喪失し、かつ片務的最恵国待遇を課した拙速な不平等条約であり、同様な条約がイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結ばれた(安政の五ヶ国条約)。
開市開港は段階的に行なうとされたが、この時期についてはロンドン覚書調印により時期をずらすことになる。また、将軍職については、5月紀州慶福を後継に決定する。慶福は家茂と改名し、江戸城へ入った(将軍就任は10月)
こうした井伊の強権的手法には反撥が相次ぎ、徳川斉昭(水戸藩主)・徳川慶勝(尾張藩主)・松平慶永(越前藩主、のち春嶽)らは抗議のため登城するが、無断で登城したことを理由に逆に井伊によって謹慎処分を受ける事となった。また、京都を中心に活躍した一橋派各藩の工作員らも、井伊の指示を受けた老中間部詮勝(鯖江藩主)らが取り締まりを行なった。
これにより、橋本左内・梅田雲浜・頼三樹三郎らが処刑された。また長州藩(萩)で私塾・松下村塾を開いていた吉田松陰なども、間部詮勝の暗殺を企てたかどで処刑された。これら一連の政治的弾圧を「安政の大獄」と呼ぶ。特に幕府・関白を介さず、朝廷から直接水戸藩へ勅書が出された件(戊午の密勅)は井伊ら幕閣の警戒感を強め、水戸藩への弾圧は苛烈を極めた。
安政の大獄は、旧一橋派や攘夷派の反撥を招く。度重なる弾圧に憤慨した水戸藩や薩摩藩の浪士は、密かに暗殺計画を練り、万延元年3月3日(1860年3月24日)、江戸城登城の途中の井伊を桜田門の外で襲撃して暗殺を決行した(桜田門外の変)。政権の最高実力者に対する暗殺という結果は、幕府の権威を大きく失墜させることとなった。
「安政の大獄での犠牲者の名簿サイト」 安政の大獄ーwikipedia で検索して下さい
「平成の大獄での犠牲者の名簿サイト」 小泉劇場ーwikipedia で検索して下さい
その七に続く 以上
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