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2010年4月に作成された記事

2010年4月30日 (金)

平成の「坂本龍馬」その23(現代の「船中八策」個別解説①)

さて、ここでもう一度、先にご説明したところの三視点法により、現代の時代がどの辺の次元にあるのかを確認してみたいと思います。

社会の構成単位を規模順に並べると次のようにも表現できます。

部落ー郷士(下士)ー上士ー土佐藩-日本ー世界(地球)ー太陽系惑星群ー銀河系宇宙ー局部銀河群ー銀河群ー局部銀河団ー銀河団ー局部超銀河団ー超銀河団ー大宇宙

ここで、幕末の坂本龍馬たちの活躍した頃の一般社会の常識的認識「部落ー郷士(下士)ー上士ー土佐藩」の世界が当時の世の中でした。その世の中に窮屈を感じ坂本龍馬たち一部の過激(意識の高い)な者達が、藩(国)を脱藩し自由の身になり、世界を感じながら、藩を超えた日本を創り出し問題解決したのが、明治維新であります。

当時の一般人「部落ー郷士ー上士」土佐藩の狭い世界が全てで、その狭い世の中で一生を過ごし、精一杯の生活をしていたのが実情です。しかし、龍馬たち一部の者はその世の中に疑問を持ち、不正義の世の中を改革する必要性を感じたために若者の疑問のエネルギーを結集して世の中の転換を成し遂げたものです

世の中の転換の先導役であった尊皇攘夷思想(後に開国思想に転換)の者たちを含む一部のリーダーたち(吉田松陰、横井小楠、藤田東湖、勝海舟、坂本龍馬、大久保利通西郷隆盛、桂小五郎、他)の視野には「民ー武士ー藩ー日本ー世界」一般人とは違いもっと視野が広くその方向に向け行動をしていました。

社会の型を三視点法で捉えるならば、幕末から明治の変革は「藩」-「日本国」へ脱皮して世界を見据える型にしたものです。これを人間の側面から捉えるならば、「土佐人」ー「日本人」へ脱皮して「外国人」に対する型に変革したものです。

この図式を現代の「平成維新」で見直すなら昭和の幕末から平成への変革は「日本国」-「地球合衆国」へ脱皮して宇宙時代を見据えることであり、これを人間の側面から捉えるならば、「日本人」-「地球人」へ脱皮して「宇宙人」に備える事となります。

日本」-「地球」-「宇宙」の図式は「日本人」-「地球人」-「宇宙人」にも変換できます。

幕末の頃は、龍馬のように「藩」を許可無く勝手に出ると「脱藩」といって、脱藩者として罪人扱いです。脱藩後は浪人者で手形が無いため他国(他の藩)には容易に入国出来ません。藩境には関所があり入国できないため裏山等をこっそりと忍び入ることとなります。

平成の現代はどうかと言いますと皆さんも良くご存知の通り「日本国」を許可無く出ることは堅く禁じられていますので、通常は許可書「パスポート」を取得してから海外に出国します。パスポートを取得しないで出国すると密出国であり、他国では、密入国として罰せられ見つかれば国外退去処分となり強制的に送り帰されます。

現代の関所は「通関」であり、空港や船の港にあります。国際ビジネスマンやプロサッカー選手・プロ野球選手・プロゴルフ選手・海外旅行者等は皆パスポートを取得してから海外へ出ています。これは当たり前の事としてだれも文句を言いませんが、しかし、欧州連合国内ではすでにパスポート不用で自由に移動出来ます。現在既に我々の世の中より一歩先に行っています。

幕末の頃も、日本は当時の欧米に比べ、相当遅れていたため、追いつこうと「富国強兵」や「殖産興業」で頑張って今日に至りましたが、やっと追いついたかなと思ったら、またも、欧州連合は100年先を走っている状況です。

現在のアジアは早くこの状況に目覚め、手を打たないと手遅れとなり、欧米の後塵を拝し、新たな植民地化とされかねません。歴史の流れは、このように将来はアジアでもパスポートが不用の世の中になるでしょう。またそうしないとこの世界の大きな矛盾となり、問題が起ってきます。

また、犯罪者も国が違うと判決の結果も違い、ある国では、麻薬売買した場合には、懲役刑程度の軽い扱いであるが、また、ある国では厳しく、死刑となるなど、同じ人間なのにどこか矛盾を感じるものがあります将来は同じ刑法で裁く必要がありそうです。今では海外も国内旅行並みに頻繁に行き来していますので余計に疑問を強く感じます。これらの疑問を凝縮して変革のエネルギーに変えて今の世を転換すべき時と思われます。

       その24に続く                  以上

2010年4月29日 (木)

平成の「坂本龍馬」その22(現代の「船中八策」個別解説①)

それでは、これより「現代の船中八策」を一項目毎に検討していきたいと思います。

「地球合衆国・政府の樹立(大政奉還・主権在民)」

地球合衆国の名称に付いてですが、この名称は「世界政府」でも良いのですが、地球にした理由は、現在の宇宙開発の進展により、今後、月、火星には人類が滞在し生活するようになる為、将来は月、火星にも「生活上のルール」が必要になるでしょう。その時には、月、火星の政府、憲法、その他は、地球とは違うルールになって来るでしょう。

また、将来、宇宙には人類だけではなく、他の星に宇宙人が確認される可能性もあります。このため、地球人の自覚と意識が必要であります。

上記のような情勢を鑑み、火星国憲法というように地球とは区別できるようにするためであります。そこまで考えなくともいいでは無いかと思われるますが、一度決めると仲々変更は難しいので、最初から将来を見据えて計画するものです。

合衆国としたのは、現在進行中の欧州連合のような連合国が今後各地域に出来るようになりますので、この各地の連合国を次に州に変更してそれを一つにまとめ地球合衆国とする考えであります。

次のような案を考えております。

ヨーロッパ州=「欧州連合」・「ロシア東欧連合」

アメリカ州=「北アメリカ連合」・「南アメリカ連合」

アジア州=「東アジア連合」・「東南アジア連合」・「中央アジア連合」

アフリカ州=「アフリカ連合」

中東諸国州=「中東連合」

オセアニア州=「オセアニア連合」

以上 六箇州となりますが、現実にはこのように行くかどうか全く分りません。小生の独断と偏見による大まかな計画です。各地連合もこのような形になるかどうかも分りません。

いずれにしましても大雑把な試案であります。この連合国家も揃うには100年位の期間が掛かるでしょう。それから地球合衆国樹立には、また100年位かかるのではと思います。しかし何時かは始めないと出来ません。

           その23に続く             以上

2010年4月28日 (水)

平成の「坂本龍馬」その21(現代の「船中八策」試案)

今まで、現在の世界情勢におけるアジアと日本の状況を確認してきましたが、このような時点で、今後の100年~200年後の未来を目指して、船中八策の試案を考察してみたいと思います。

最もこの案を考えるのに現在一番相応しい人は、日本でも宇宙飛行士となった方の毛利衛さんたちが現代の船(宇宙船)に乗り考えるのが良いと思いますが、まだ、宇宙船に乗ったことはありませんが、三視点法を使い乗ったつもりになって、代わりに小生「銀河系宇宙人」が試案を提案してみたいと思います。これを機会に読者の皆さんも是非いろいろご提案していただき何が良いのか一緒に考えて行きたいと思います。

「現代の船中八策」試案

1、地球合衆国・政府の樹立(大政奉還・主権在民)

1、地球合衆国・議会の開設(議会・上下院の開設)

1、地球合衆国・憲法の制定(憲法・法律の制定)

1、地球合衆国・防衛軍の整備(陸・海・空・宇宙軍)「宇宙・地球警察・治安・宇宙防衛」

1、地球合衆国・共通通貨の発行(通貨政策・中央銀行の設立)

1、地球人使用の文字と言葉の標準化(教育政策)

1、太陽系時間の設定(太陽系宇宙の共通・年月日・時刻設定)

1、地球合衆国・首都の設置 (宇宙との出入口に便利な場所を選ぶ)

上記の大目標は遠い将来(100~200年以上の未来)を目指して実現するものである。

この目標に向って、幾つかの段階を経て着実に進めるものでなければならない。                            以上                                  

以上が「現代の船中八策」です。

これから、一項目毎に検討していきたいと思います。

上記の大項目は遠い将来の目標ですから、これを念頭に実現するにはどうして行けば良いのか具体策が必要になってきます。

現在の世界情勢は上記の目標に向け、次善の策として、欧州連合に見られるように先ず地域ごとに纏めて行き、最終的には地球政府(世界政府)として一つになる。

従って、アジア地域でも、とりあえず「東アジア共同体ーアジア連合ー世界政府」を想定し、徐々に世の中をその方向に改革して行く必要があります。

           その22に続く                  以上

2010年4月27日 (火)

平成の「坂本龍馬」その20(現代の「船中八策」提案に当たって)

欧州は現在この時間も、着々と前進・深化しつつあります。一方、その他の地域はどうでしょうか。

北アメリカ地域=北米自由貿易協定(米国、カナダ、メキシコ)を基に、共通通貨AMERO(アメロ)の導入を検討中。

南アメリカ=南米諸国連合を中心に経済統合を目指している。

オセアニア=太平洋共同体を中心に統一を目指している。

アフリカ=アフリカ連合を中心に統一を目指している。

ところでアジア地域では、東南アジア諸国連合(ASEAN)・東アジア共同体構想等構想中であり、実現にはまだまだ相当時間が掛かりそうです。21世紀中に実現すれば良い方では無いかと思われ位で、またその間に障害が出てきて実現も怪しくなりそうな気がしてきます

現在実現しつつある「欧州連合」の歴史も長いもので、ウインストン・チャーチルが「ヨーロッパ合衆国」構想を唱えるなどの中で、ロベール・シューマン(フランス外相)は、1950年5月9日に「シューマン宣言」を発し、その中で経済と軍事における重要資源の共同管理構想を掲げ、ヨーロッパの安定と経済の発展を図ったこのシューマンの構想を基礎にしてパリ条約が策定され、1952年7月23日に欧州石炭鉄鋼共同体が設立された。

このシューマン宣言は第二次世界大戦後の仏独協調体制の始点と位置づけられ、また西ドイツが西側陣営に付く契機ともなった。西ドイツ首相コンラート・アデナウアーはシューマン宣言を「西ドイツの転換点」と述べている。

欧州石炭鉄鋼共同体が発足したことで共同石炭・鉄鋼市場が導入され、これにより市場価格の自由な決定が可能となったり、輸出入にかかる関税や補助金が撤廃された。しかしながら異なる経済がこのような状況に至る移行期間にはおよそ1年以上かかった。

特筆するべき点として、シューマン宣言では各国政府から独立した再考機関の創設が謳われている。また欧州統合の観点からシューマンは次のようにも述べている。

「ヨーロッパは一日にして成らず、また、単一の構想によって成り立つものでもない。事実上の結束をまず生み出すという具体的な実績を積み上げることによって築かれるものだ」

1985年、当時欧州委員会の委員長はフランス出身のジャック・ドロールであったが、ミラノにおける欧州理事会において、5月9日を欧州連合におけるヨーロッパ・デー(欧州評議会では5月5日をヨーロッパ・デーとしている)として祝賀記念行事を行うことを決めた。欧州諸共同体ではこの宣言をヨーロッパ統合プロジェクトの公式行事としており、「最初のヨーロッパ・デーはシューマン宣言の記念日として5月9日に祝われた。この年に祝われたヨーロッパの父であるジャン・モネの生誕100周年は同様に共通の歴史として認識されるようになった」。

(サイト検索)

  http://ja.wikipedia.org/で検索<欧州連合><シューマン宣言>

<国家連合から連邦へー欧州統合の最終段階に関する考察>=http://ecowww.leh.kagoshima-u.ac.jp/staff/nakajima/r-mai/fischer.html

                 その21に続く                以上

 

2010年4月26日 (月)

平成の「坂本龍馬」その19(現在の「船中八策」提案に当たって)

「現代の船中八策」を提案する前に、もう一点確認しておく事があります。それは、幕末の時代に、龍馬が「船中八策」を提案した頃の背景にある世界情勢にあたる所の現在の世界情勢です。この情勢がどのようなものなのか正しく認識する事が、現代の船中八策を考える時に大切になります。

幕末の時代は、欧米を中心とする帝国主義・植民地主義国による植民地獲得競争の時代で、武力等による圧力で開国をせまりその目的を達していました。これに対し現代は、欧米が、マスコミ、民主主義、人権、文化、経済、武力、等様々な力を使い総合力で各国を飲み込みつつ併合化しようとしています。

その先頭に立っているのが、今回もやはり、欧州で「欧州連合」として既に域内はパスポートなしで自由に国内並みに旅行や移動が可能です。この欧州連合は、マーストリヒト条約(欧州連合条約)により設立されたヨーロッパの地域統合体です。

マーストリヒト条約第二条では、欧州連合の存在価値について、次のように謳っています。

「連合は人間の尊厳に対する敬意、自由、民主主義、平等、法の支配、マイノリテイに属する権利を含む人権の尊重という価値観に基づいて設置されている。これらの価値観は多元的共存、無差別、寛容、正義、結束、女性と男性との間での平等が普及する社会において、加盟国に共通するものである。」

加盟国は27カ国であるが、今後も加盟国が増える方向である。共通通貨として欧州単通貨「ユーロ」がすでに使用されており、政治の面でも欧州議会があり、5年毎の直接選挙で議員を選び、初代EU大統領も誕生して、政治、経済、外交、法律、軍隊等も含め実質一つの国として活動をしつつ前進・変化しています。

日本で言えば、廃藩置県の如く、幕末の藩(国)を無くし、日本に統一して日本国を作り上げた仕組みの変更に当ります。この変更が今現在この地球上のヨーロッパ、欧州で現実化しつつあるのです

翻って、こちらのアジアの状況を見るに、まだ、20世紀の「国家主権至上主義」の思考が強く、相変わらず、この島は我が国、固有の領土だ、いや、違う歴史的にもこちらの領土が正しいとかと、小さい島の帰属をめぐり争っていて、お互いに次元が一段低い(国と国との争いの次元=国(藩)を超えられない)ところで無駄なエネルギーを費やしています。

アジア諸国がこのように無駄な事に時間を費やして争っている間にも、欧州では、着々と深化しており、また、次の新しい時代に進んでしまっています。いつまで経ってもアジアは欧米に追いつけず、遅れをとりそして挙句の果てに搾取を許すことになって来た歴史を、またも繰り返すのかと思うと本当に情けなく、幕末の頃の諸先輩に対しても誠に申し訳ない気持ちで一杯になります。

(サイト検索)http://ja.wikipedia.org/で検索して下さい<欧州連合><ユーロ><マーストリヒト条約>

マーストリヒト条約=http://kccn.konan-u.ac.jp/keizai/europe/09/frame.html

         その20に続く                  以上

2010年4月25日 (日)

平成の「坂本龍馬」その18(現在の「船中八策」提案に当たって)

歴史を「過去」「現在」「未来」に分けて、次元を変えて見る事は、歴史の流れる方向性を掴むのには大変有効であります。例えば坂本龍馬が幕末時代に「藩」を超えて「日本」という国を想像していたように、当時では、このように考えられる人物は、ほんの僅かです。それが、現在の世の中ではそれが当たり前のことで何の疑問も持ちません。幕末の時代では、非常識と見られた考え方も100年も経ると常識となります。

言い方を変えれば、それ位時間を掛けなければ人々の考えも変わらないという事でもあります。非常識(幕末の「藩」の時代に、100年後の「日本国」を想像する事)も、100年もすれば常識化(日本国は今は常識で「藩」の制度は昔の事)して、今日の現代で「藩」の制度を考える人は非常識と逆転します。

このように、常識も時代と共に変化しており、時代に合わせ常識も変える必要があります。この常識も必ず最初は少人数の非常識から始まります。非常識人が段々増加して行きある時点で逆転して非常識人が常識人となり、従来の常識人が非常識化していくものです。

一般的に普通人はこの常識の変化に弱い傾向にあります。従って、何世代か経ないと変化しないということになり時間が掛かります。コンピューターのプログラムではありませんが、プログラム(堅い頭)の変更は仲々出来ませんので同じプログラムで一生を過ごす事となるのが多勢となります。

保守的(保守も良い面と悪い面ありますが)な頭はどうしても、このような変化には拒否反応を示します。何事も変えるときは必ず反対者がいるのは止むを得ないことでもあります。最もこの変える事も、その変える方向が良い場合は良いのですが、往々にして悪い方向へ変える(改悪)事もあるのが実情ですから、反対=悪でなく善であることもありで、ややこしくなります。

良い面は1000年も2000年も変えずに保守的であるべきですが、悪い弊害のある事については、良い方に改革しなければなりません。この良い方か悪い方かは、現在では主権在民の選挙で決めねばなりません。選挙で投票するときは、騙されることの無いように十分注意して投票することです。

私も最終回の方で「現代の船中八策」を提案しますが、読者の皆様には「こんな非常識な提案」であると、お叱りを受けるのは覚悟の上での提案ですので、どうぞご自由にご批判ご意見をお寄せ下さい。また、本当に真の提案内容であれば、それは必ず「現在では非常識な内容である」のが、本物である事の証明でもあります。しかし、100年後は常識となる事でしょう。

平時に受け入れられる提案であれば、それは本物ではありません。幕末の「船中八策」も幕末の大混乱時であったからこそ、受け入れる余地があったのでしょう。この意味では、現在も幕末時に劣らず、平成の大混乱時でありますので「現在の船中八策」も受け入れる余地があるやも知れません。一縷の望みがあるのはありがたい事です。

             その19に続く            以上

2010年4月24日 (土)

平成の「坂本龍馬」その17(現代の「船中八策」提案に当たって)

折角,転勤希望で実現した九州・博多勤務は僅か1年3ヶ月の短いものでした。従って楽しみにしていた九州旅行も出来ずにまた東京勤務となりました。九州旅行は銀行の博多支店の店内旅行で行った熊本と、是非とも行きたかった長崎だけは個人的に行って来たことがありました。

しかし、目的の明治維新が九州方面から起きた要因は凡そ掴んではいましたので、その点では少し安心してそれなりの目的は既に達してました。その勉強方法は、着任早々地元の西日本新聞を取り読み、福岡・博多の歴史と風土・風景や人々の考え暮らし方等を良く観察してそれを感じ取った次第です。

やはり、風土・風景・景色は人を育てるのが分りました。比較的短期間で感じを掴むことが出来たのは、転勤前の東京勤務時代に、寮生活の個人で新聞各種8~9紙(極右~中~極左)取って読み勉強を積んでいたのが役に立ちました。短期間ではありましたが、ここ九州での勉強の集大成を纏め東京へ帰って間もなく、当時の総理大臣であった「田中角栄内閣総理大臣」の首相官邸宛に手紙を書き「日本国の国際化に付いて」と題して提案をしました。

間もなく田中総理より直々の毛筆の手紙の返事があり、国政の参考にしたい旨の内容でした。

その後の国政の動きから見ると私の提案が採用されたのではないかと思われる事柄が確認されました。・・・話が大分横道にそれましたのでこの辺で元に戻します。

「三視点法」とは、三つの視点から物事を立体的且つ三つの次元で捉えて理解し判断しようとする方法です。私も最初は一つの考え一面的で拡がりも立体感もなく一次元的で単調なものでした。どうしたらもっと立体的・多次元的・拡がりを持った思考が出来ないものかと試行錯誤を繰り返しました。

そこで工夫したのが、当時宿泊していた銀行の独身寮の自分の部屋の壁に、「世界地図」「日本地図」「地元の東京の地図」を一面に張り、この地図を見ながら一つの問題を思考していました。東京地元の地図を見ながら問題を考えて、次に日本地図を見ながら同じ問題を考える、そして世界地図を見ながら、また同じ問題を考えるという方法を毎日毎日問題を変えながら訓練を積みました。8~9紙の新聞から適当な事案を選び修練した訳です。

例えば「宇宙」「地球」「日本」の三視点で「人間」を考えれば、それは「宇宙人」「地球人」「日本人」と理解出来ます。このように三視点法はどんなことにも適用できます。会社で言えば「本社」「支店」「個人」で考えても良いのです。

三つの違った視点から同じ事柄を見る、又は逆に、同じ事柄から三つの違う視点を見て理解しようとする方法です。同じ問題でも立場が違えばまた違う結果もありうることになります。次元を変えて物事を見ることによりいろいろ見方があるものだと気が付くことが出来ます。

歴史を見る場合には三視点を「過去」「現在」「未来」にして100年前・現在・100年後等の次元に自分の頭を瞬間移動し、それぞれの次元で思考するのです。慣れてきますと三次元同時に自分の頭に置いて同時に思考することが出来るようになります。

    その18に続く                     以上

2010年4月23日 (金)

平成の「坂本龍馬」その16(現代の「船中八策」提案に当たって)

話を少し前に戻しますが、転勤希望してから1~2ヶ月したら本当に転勤辞令が出て九州へ行くことになりました。まだ25~26歳の独身でしたので身軽なため、簡単に九州博多に着任した訳です。希望転勤は3~5年は滞在するとの人事部の指示でしたので、焦らず、ゆっくりこれから腰を落着けてやろうと決めていました。

九州旅行も時間がたっぷりあるので、時期を見てから行ってみようと思っておりましたので、すぐには旅行もしませんでした。最も、仕事が一番ですので、約半年は慣れるまで徹底して仕事に打ち込み、徹夜で仕事を片付けたりしており、宿泊場所は銀行の独身寮なので、朝出勤前には早く起床して、寮は博多湾が近かったため、百道海岸の浜辺を早朝ランニングし一汗かいてから朝食を取り、路面電車(西新~博多・呉服町)のチンチン電車で出勤していました。

本当にすがすがしい毎日でしたが、早朝ランニングも半年続けた頃、足に魚の目が出来て走れなくなり自然とやめました。仕事は後輩も入社してきているので、当然中堅社員としての役目もあり、後輩を引き連れて中州の夜の飲み屋街も経験しました。

仕事に関連しての話としては、当時100円札を100円硬貨に切り替え中でもありました。東京では既に100円硬貨に切り替え済みのため、100円紙幣を数える手間は少なく、100円硬貨を機械で処理していましたので、助かっていましたが、地方である博多はまだ100円札が主流で銀行窓口での100円札の処理がそれはそれは大変な作業でした。大変な量の紙幣を超多忙の中で処理(手で数える)するのは、神業であるともいえます。

この地方の実情を変えるために、福岡・天神にある、日銀・福岡支店担当者に電話して、硬貨切り替えを進めて下さるようお願いしました。その結果予定より約半年早く切り替わることになり大変助かった事が記憶にあります。当時電話で交渉した日銀の担当者の説明では、日本中の100円紙幣を一気に切り替えてしまうと紙幣の原料(楮)を造っている生産者が減産で困るため徐々に切り替える必要がある、それで少し,地方にはご負担をお掛けしているとの説明があり、或る程度は止むを得ない事情があるものだなと思ったものでした。

もう一つ記憶にあるのが、朝夕利用しているチンチン電車ですが、路面電車であった事と、また一般自動車も急増中であったので、何時もラッシュアワーは渋滞・渋滞で大変でした。出勤時刻も大分余裕を持たないと危ない状態でした。当時、残業・残業・徹夜等もありで一分の時間も無駄にしたくない時の渋滞でしたので、事業者の西鉄に電話して、路面電車を地下鉄に変更するように交渉した事もありました。

結果は地下鉄に変更することになり現在は「地下鉄空港線」として活躍しています。当時の西鉄担当者の説明では、電車道の道路は地盤が砂地のため崩れ易く、地下化が出来ないとの理由でしたが、建設技術の向上で可能となり実現したようです。私は博多は1年半弱で予想外の短期間の勤務でしたので、その完成した地下鉄に、まだ一度も乗車した事はないのが残念です、機会あれば是非一度乗って当時を思い出したいと思って居ります。

    その17に続く                   以上

2010年4月22日 (木)

平成の「坂本龍馬」その15(現代の「船中八策」提案に当たって)

「三視点法」

「現代の船中八策」を提案します前に、この提案を誤解なくより良く理解するための一助として、小生が時々記述してきました言葉に上記の「三視点法」という言葉があります。この言葉について少しご説明しておきたいと思います。

この新しい「三視点法」という言葉は、小生がまだ若い20歳台の頃に自分で命名して使って来ました。そのためもあり国語辞典にも、広辞苑にもまだ載っていません。これから載せてもらえるような言葉にすべくどしどし使用して参りたいと思っております。

ヤフーのインターネットで検索しましたら、小生に関する事項が殆んどで、一件のみ「ヤルデア研究所」所長の伊東義高さんが文章の中で一度使用していました。今後は段々と使用する方も増えるものと思われます。

小生がどうしてこの言葉を作ったのかと申しますと、当時まだ小生も若く仕事(銀行勤務)しながら自身の成長のためもあり、いろいろ勉強もしていました。宇宙森羅万象が興味の対象ですが、歴史も好きでそれなりに勉強もしていました。特に幕末の頃の激動時代に興味を持ちました。

徳川時代から明治維新に変わる時代の変化がどのようにして起きたのかも勉強の目的の一つでした。時代は自然に変化するのでなく必ず人間が動かすものである事、明治維新で活躍した、薩長同盟を実現した、坂本龍馬・中岡慎太郎や、それに関わった、西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀・桂小五郎やその他当時の時代に登場した人物・吉田松陰・横井小楠・勝海舟・徳川慶喜・等々挙げれば切りがありません。

当時は私は出来ればその方たちに会って見たかったのですが、現実は時代が違い会うことは出来ません。そこで当時勤務していた銀行に転勤願いして、東京勤務から福岡・博多勤務にして頂きました。薩摩・長州の九州方面から東京(江戸)を観察しながら、何故、明治維新の考え・動きがこの九州方面から発生したのかを考え研究しました。

当時、転勤願いで転勤した場合は少なくとも3年長ければ5年は滞在すると、銀行の人事部の担当者から言われていましたので、その覚悟は出来ていました。最初は言葉が小生の上州 弁には、九州弁は仲々分りずらく、特にお年寄りの言葉には困ったものでした。若い人々はテレビ等の影響で東京標準語が拡がっていたためそれほど苦労はありませんでした。

      その16に続く                  以上

2010年4月21日 (水)

平成の「坂本龍馬」その14(暗殺)

後藤象二郎の依頼で、慶応3年(1867年=32歳)10月24日に越前へ出向き、松平春嶽の上京を促して三岡八郎(由利公正)と会談した後、11月5日に帰京した。

11月15日、龍馬は宿にしていた河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいた。当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などの訪問を受けている。午後8時頃、龍馬と中岡が話していたところ、十津川郷士と名乗る男達数人が来訪し面会を求めて来た。

従僕の藤吉が取り次いだところで、来訪者はそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋に押し入った。龍馬たちは帯刀しておらず龍馬はまず額を深く斬られ、その他数箇所を斬られて、ほとんど即死に近かった(慶応3年11月15日「1867年12月10日」32歳)中岡と藤吉も重傷を負うが、藤吉は翌日、中岡は翌々日の17日まで生存して意識もあり、事件の証言を残した。

新撰組から分離した御陵衛士の伊東甲子太郎(または他の御陵衛士隊士)が現場に残された鞘を新撰組の原田左之助のものと証言したこともあり、新撰組が強く疑われた。また、海援隊士たちは紀州藩による、いろは丸事件の報復であると疑い、12月6日に陸奥陽之助らが紀州藩御用人・三浦休太郎を襲撃して、三浦の護衛に当たっていた新撰組と斬り合いになっている(天満屋事件)。

慶応4年(1868年)4月に下総国流山で出頭し捕縛された新撰組局長・近藤勇土佐藩士の強い主張によって斬首に処された。

明治3年(1870年)、箱館戦争で降伏した元見廻組の今井信郎が明治政府の取調べに対し、与頭・佐々木只三郎と自分を含めた部下6人(または7人)が坂本龍馬を殺害したと供述し、これらが現在では定説になっているが、薩摩藩陰謀説、土佐藩陰謀説、果てはフリーメイソン陰謀説まで様々な異説が生れ現在まで取り沙汰されている。

墓所京都市東山区の京都霊山護国神社参道中腹。なお、靖国神社に祀られている

「龍馬の暗殺実行犯は誰か?」

1、京都見廻組実行説

2、新撰組犯行説

3、薩摩藩陰謀説

4、土佐藩陰謀説

5、イギリス陰謀説 以上のサイト検索は=http://ja.wikipedia.org/で<近江屋事件>にて検索して下さい。

[天満屋事件」も=http://ja.wikipedia.org/で検索して下さい。

            その15に続く              以上

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2010年4月20日 (火)

平成の「坂本龍馬」その13(大政奉還)

「大政奉還へ」

龍馬の提示を受けた後藤は直ちに京都へ出向し、建白書の形式で山内容堂へ上書しようとしたが、この時既に容堂は土佐に帰国しており、このため、大坂で藩重臣と協議してこれを藩論となした。次いで後藤は6月22日に薩摩藩と会合を持ち薩摩側は西郷隆盛、小松帯刀、大久保一蔵、土佐側からは坂本龍馬、中岡慎太郎、後藤象二郎、福岡孝悌、寺村左膳、真鍋栄三郎が代表となり船中八策に基づいた王政復古を目標となす薩土盟約が成立した。後藤は薩摩と密約を成立させる一方で、土佐に帰って容堂に上書を行い、これから程ない6月26日、芸州藩が加わって薩土芸盟約が成立した

7月6日、龍馬が不在中の長崎で英国軍艦イカロス号の水夫が殺害され、海援隊士に嫌疑がかけられる事件が発生した。龍馬と後藤はこの対応のために長崎へ戻り、龍馬は9月まで英国公使パークスとの談判に当たっていた。結局、容疑不十分で海援隊士の嫌疑は晴れている(犯人は福岡藩士・金子才吉で事件直後に自刃していた)。

後藤は9月2日京都へ戻ったが、イカロス号事件の処理に時間が掛かったことと薩土両藩の思惑の違いから、9月7日に薩土盟約は解消されてしまった。その後、薩摩は武力討幕の準備を進めることになる

事件の処理を終えた龍馬は新式小銃1,000余挺を船に積んで土佐へ運び、9月23日、5年半ぶりに故郷の土を踏み家族と再会した。10月9日に龍馬は入京し、この間、容堂の同意を受けた後藤が10月3日に二条城に登城して老中・板倉勝静に王政復古の建白書を提出し、幕府が時勢に従い政権を朝廷に奉還することを提案していた。

慶喜がこの建白を受け入れるか否かは不明瞭で、焦燥した龍馬は後藤に「建白が受け入れられない場合は、あなたはその場で切腹する覚悟でしょうから、後下城なき時は、海援隊同士とともに慶喜を路上で待ち受けて仇を討ちます。地下で相まみえましょう」と激しい内容の手紙を送っている。だが、将軍慶喜は既に決断を下しており、10月13日に二条城で後藤を含む諸藩重臣に大政奉還を諮問。翌14日に帝へ上奏、15日に勅許が下され大政奉還が成立。

大政奉還・上奏の直前、慶応3年(1867年=32歳10月14日に討幕の密勅が薩摩と長州に下されていた。大政奉還の成立によって討幕の大義名分が失われ、21日に討幕実行延期を命じられている

展望が見えた龍馬は10月16日に戸田雅楽(尾崎三良)と新政府職制案の「新官制擬定書」を策定した。この職制案を見た西郷がその名簿に西郷の名はあるのに龍馬の名が欠けていることを知り、新政府に入ってはどうかと勧めると龍馬は「わしは世界の海援隊をやります」と答えたという有名な逸話がある。だが、尾崎の史料には龍馬の名は参議候補者として記載されており、この逸話は大正3年に書かれた千頭清臣作の「坂本竜馬」が出典の創作であることが分っている

また、11月上旬には船中八策を元に「新政府綱領八策」を起草し、新政府の中心人物の名は故意に「OOO自ら盟主と為り」空欄にしておいた。龍馬が誰を意図していたのかは様々な説がある。

(サイト検索)

http://ja.wikipedia.org/で検索<薩土盟約><大政奉還>

新政府綱領八策=http://www2.odn.ne.jp/kasumi-so/bakumatu/jiken/hassaku.htm

          その14に続く                  以上

2010年4月19日 (月)

平成の「坂本龍馬」その12(土佐藩の海援隊と船中八策)

海援隊規約によると、隊の主要目的は土佐藩の援助を受けて土佐藩士や他藩の脱藩者中の海外事業に志を持つ者を引き受け、運輸・交易・開拓・投機等の商業活動を行い土佐藩を助けることとされ、隊士は土佐藩士(千屋寅之助・沢村惣之丞・高松太郎・安岡金馬・新宮馬之助・長岡謙吉・石田英吉・中島作太郎)および他藩出身者(陸奥陽之助「紀州藩」・白峰駿馬「長岡藩」)など16~28人水夫を加えて約50人から成っていた。同時期、中岡慎太郎は陸援隊を結成している

海援隊結成から程なく「いろは丸事件」が発生した。4月23日晩、大洲藩籍で海援隊が運用する蒸気船「いろは丸」が瀬戸内海で紀伊藩船「明光丸」と衝突し、「明光丸」が遥かに大型であったために「いろは丸」は大きく損傷して沈没してしまった。その後、龍馬は万国公法を基に紀州藩に賠償を要求して談判し、後藤ら土佐藩もこれを支援した結果、薩摩藩士・五代友厚の調停によって5月に紀州藩は賠償金8万3526両198文の支払いに同意した。

海運通商活動以外に龍馬は蝦夷地や竹島の開拓も構想しており、後年妻おりょうも「私も行くつもりで、北海道の言葉の稽古をしていました」と回顧している。一方で、海援隊の経済状態は苦しく、開成館長長崎商会主任の岩崎弥太郎(三菱財閥創業者)は、たびたび金の無心に来る海援隊士を日記に「厄介もの」と書き残している。

船中八策」

いろは丸事件の談判を終えた龍馬と後藤象二郎は慶応3年(1867年=32歳)6月9日に藩船「夕顔丸」に乗船して長崎を発ち兵庫へ向った。京都では島津久光、伊達宗城、松平春嶽そして山内容堂による四侯会議が開かれており、後藤はこのために京都へ呼ばれていた。龍馬はその船上で政治綱領を書き上げ、後藤に提示した。それは以下の内容の八項目であった

1、政権を朝廷に奉還し、政令は朝廷より出すべき事(大政奉還)

2、上下議政局を設け、議員を配置して政事を参照し、政事は公議を以って決定する事(議会開設)

3、有能な公卿諸侯その他の才人を顧問として官爵を賄い、従来の有名無実な官位は除くべき事(官制改革)

4、外国との交際は広く公議を採り、新たに至当な規約を成立せしむ事(条約改正)

5、古来の律令を折衷し、新たに法典を撰する事(憲法制定)

6、海軍を拡張する事(海軍の創設)

7、御親兵の設置を以って帝都の守衛をなす事(陸軍の創設)

8、金銀物価は外国と均しく法を設ける事(通貨政策)

以上の八原則は「船中八策」として知られることになる。長岡謙吉が筆記したこれは、横井小楠の「国是七条」を原案としたもので、後に成立した維新政府の綱領の実質的な原本となった。

(サイト検索)

http://ja.wikipedia.org/で検索<いろは丸事件><岩崎家><船中八策>

国是七条=http://www8.ocn.ne.jp/~s-yokoi/2.bakumatsu/kokuze.htm

            その13に続く               以上

2010年4月18日 (日)

平成の「坂本龍馬」その11(薩長同盟後・海援隊)

慶応2年(1866年=31歳)5月1日、薩摩藩からの要請に応えて長州から兵糧500俵を積んだユニオン号が鹿児島に入港したが、この航海で薩摩藩から供与された帆船ワイルウエフ号が遭難沈没し、土佐脱藩の池内蔵太ら12名が犠牲になってしまった。幕府による長州再征が迫っており、薩摩は国難にある長州から兵糧は受け取れないと謝辞し、ユニオン号は長州へ引き返した。

6月、幕府は10万を超える兵力を投入して第二次長州征伐を開始した。6月16日にユニオン号に乗って下関に寄港した龍馬は長州藩の求めにより参戦することになり、高杉晋作が指揮する6月17日の小倉藩への渡海作戦で龍馬はユニオン号を指揮して最初で最後の実戦を経験した。

長州藩は西洋の新式兵器を装備していたのに対して幕府軍は総じて旧式であり、指揮統制も拙劣だった。幕府軍は圧倒的な兵力を投入しても長州軍には適わず、長州軍は連戦連勝した。思わしくない戦況に幕府軍総司令官の将軍・徳川家茂は心労が重なり7月10日に大坂城で病に倒れ、7月20日に21歳の短い人生を終えた。このため、第二次長州征伐は立ち消えとなり勝海舟が長州藩と談判を行い9月19日に幕府軍は撤兵した(小倉口では交戦が続き和議が成立したのは翌慶応3年1月23日)。

「海援隊」

先に帆船ワイルウェフ号を喪失し、ユニオン号も戦時の長州藩へ引き渡すことになり、亀山社中には船がなくなってしまった。慶応2年(1866年=31歳)7月28日付けの三吉慎蔵宛の手紙で龍馬は「水夫たちに暇を出したが、大方は離れようとしない」と窮状を伝えている。このため、薩摩藩は10月にワイルウェフ号の代船として帆船「大極丸」を亀山社中に供与した。

将軍・家茂の死後、将軍後見職・一橋慶喜の第15代将軍就任が衆望されたが、慶喜は将軍職に就くことを望まず、先ずは徳川宗家の家督のみを継承していた。8月末頃、龍馬は長崎に来ていた越前藩士・下山尚に政権奉還策を説き松平春嶽に伝えるよう頼んだ龍馬が政権奉還論を述べた最初の記録だが、政権奉還論自体は龍馬の創意ではなく、幕臣大久保一翁がかねてから論じていたことで、龍馬と下山の会見以前の8月14日には春嶽当人が慶喜に提案して拒否されていた。

尊攘派の土佐勤王党を弾圧粛清した土佐藩だが、この頃には時勢の変化を察して軍備強化を急いでおり、参政・後藤象二郎を責任者として長崎で武器弾薬の購入を盛んに行なっていた。航海と通商の専門技術があり、薩長とも関係の深い龍馬に注目した土佐藩は11月頃から溝渕広之丞を介して龍馬と接触を取り、翌慶応3年(1867年=32歳)1月13日に龍馬と後藤が会談した。

結果、土佐藩は龍馬らの脱藩を赦免し、亀山社中を土佐藩の外郭団体的な組織とすることが決まり、これを機として4月上旬ごろに亀山社中は「海援隊」と改称した。

    (サイト検索)

 http://ja.wikipedia.org/で検索<海援隊>

海援隊のあらまし=http://homepage3.nifty.com/kaientaidesu/html/link1.htm

                             その12に続く                以上

2010年4月17日 (土)

あの疑惑の「ワシントン・ポスト」紙、また、吠える!

4月14日の米紙ワシントン・ポストのコラムでカーメン記者は、日本の「わしんとん・ぽすと紙」?いやいや違いました、あの日本の「産経新聞」によれば、「ワシントン=佐々木類、米紙ワシントン・ポストは14日付で、核安全保証サミットで最大の敗者は日本の鳩山由紀夫首相だと報じた。最大の勝者は約1時間半にわたり首脳会談を行なった中国の胡錦濤国家主席とした。鳩山首相については同紙は、「不運で愚かな日本の首相」と紹介。「鳩山首相はオバマ大統領に2度にわたり、米軍普天間飛行場問題で解決を約束したが、全くあてにならない」とし、「鳩山さん、あなたは同盟国の首相ではなかったか。核の傘をお忘れか。その上で、まだトヨタを買えというのか。鳩山首相を相手にしたのは、胡主席だけだ」と皮肉った。以上

産経新聞(他の大手新聞や、NHK初め民法テレビも同様の動き)は何故、この記事を大げさに取り上げて、日本国民をまた騙し(9.11偽装テロ事件の真相を未だ伝えず大本営発表を続けている)、鳩山内閣そして民主党政権の国民の支持率を下げようと必死になっているのか、その魂胆が見え見えであります。

札付きの例のワシントン・ポスト紙は、先に、リー・ホックスタッダー記者が同紙社説で「9.11テロ事件」に疑問を持ち真相解明を求めたとの事で、民主党の現職・参議院議員の藤田幸久氏をこっ酷く貶し、日米同盟が怪しくなるかも知れないなどと脅し、自身の疑惑を覆い隠そうとしたばかりでありました。

これに付いては既に、国際的には勿論でありますが、米国内でも知識人中心良識ある人々からは顰蹙を買ったが、ここに来て少しは落ちついて来たかなと思っていたところに、また一騒動といったところです。

このような動きが出てくるのも、やはり、「9.11偽装テロ事件」が、うやむやにされていて、決着がついていないからであります。9.11事件を起こした真の闇グループがまだ逮捕もされずにのうのうと動きまわっている証明でもあります。

米・英・日の一部の悪のグループが、検察・マスコミ等を使い主権者を騙し続けて復権を狙っている動きの一つであります。賢明な主権者はこの動きに惑わされずに、何が真実なのか、よく見極める必要がありそうです。最終的には国民の生活に火の粉が降りかかって来るのですから、そうならないようにすることです。そうなってからでは遅いのです。昨年、やっと政権交代を成し遂げた実績があるのですから今は、その成果をもっと出させる方向に努力すべきであります。

   今の政局は、重要な時期でもありますので、敢て取り上げてみました。           以上

平成の「坂本龍馬」その10(薩長同盟成る)

「薩長同盟」

慶応2年(1866年=31歳)1月8日、小松帯刀の京都屋敷において、桂と西郷の会談が開かれた。だが、話し合いは難航して容易に妥結しなかった。龍馬が1月20日に下関から京都に到着すると未だ盟約が成立していないことに驚愕し、桂に問い質したところ、長州はこれ以上頭を下げられないと答えた。そこで、その夜に龍馬は西郷を説き伏せて、これにより薩長両藩は1月22日に薩摩側が西郷と小松、長州は桂が代表となり、龍馬が立会人となって列席して、後世「薩長同盟」と呼ばれることになる盟約を結んだ。

盟約成立後も桂の薩摩に対する不信感は根強く、帰国途中で龍馬に盟約履行の裏書を要求している。天下の大藩同士の同盟に一介の素浪人が保証を与えたものであって、彼がいかに信用されていたかが分る。

盟約成立から程ない1月23日、龍馬は護衛役の長府藩士・三吉慎蔵と投宿していた伏見寺田屋へ戻り祝杯を挙げた。だがこの時、伏見奉行が龍馬捕縛の準備を進めていた。明け方2時頃、一階で入浴していた龍馬の恋人のおりょうが窓外の異常を察知してたもと祫一枚のまま二階に駆け上がり二人に知らせた。

すぐに多数の捕り手が屋内に押し入ったが龍馬は高杉晋作から贈られた拳銃を三吉は長槍をもって応戦するが、多勢に無勢で龍馬は両手指を斬られ、両人は屋外に脱出した。負傷した龍馬は材木場に潜み、三吉は旅人を装って伏見薩摩藩邸に逃げ込み救援を求めた。これにより龍馬は薩摩藩に救出された。寺田屋での遭難の様子を龍馬は12月4日付けの手紙で兄権平に報告している。

龍馬が不在の長崎の亀山社中では1月14日にユニオン号購入で活躍した近藤長次郎(上杉宗次郎)が独断で英国留学を企てて露見し自刃させられる事件が起きていた。事件を知らされた龍馬は「手帳摘要」に「術数はあるが誠が足らず。上杉氏(近藤)の身を亡ぼすところなり」と書き残しているが、後年のおりょうの回顧では「自分がいたら殺しはしなかった」と嘆いたという。

寺田屋遭難での龍馬の傷は深く、特に左手一指し指が曲がらなくなり、以後撮影などでは左手を隠していることが多い。西郷の勧めにより、刀傷の治療のために薩摩の霧島温泉で療養することを決めた龍馬は2月29日に薩摩藩船「三邦丸」に便乗しておりょうを伴い京都を出立した。

3月10日に薩摩に到着し、83日間逗留した。二人は温泉療養の傍ら霧島山、日当山温泉、塩浸温泉、鹿児島などを巡った。温泉で休養を取ると共に左手の傷を治療したこの旅は龍馬とおりょうとの蜜月旅行となり、これが日本最初の新婚旅行とされている。

(サイト検索)

http://ja.wikipedia.org/で検索<薩長同盟><寺田屋事件>

薩長同盟から大政奉還まで=http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/syougai6.htm

伏見寺田屋=http://homepage2.nifty.com/airman/satsuma/teradaya01.html

                   その11に続く               以上

2010年4月16日 (金)

平成の「坂本龍馬」その9(薩長同盟へ努力)

幕府勢力から一連の打撃を受けて、長州藩には彼らを京都政治から駆逐した中心勢力である薩摩・会津両藩に対する根強い反感が生じており、一部の藩士は共に天を戴かずと心中に誓い、例えば「薩賊會奸」の四文字を下駄底に書き踏みつけて鬱憤を晴らす者がいたほどだった。この様な雰囲気の元でも、土佐脱藩志士中岡慎太郎とその同士土方久元は薩摩、長州の如き雄藩の結盟を促し、これをもって武力討幕を望んでいた。

慶応元年(1865年=30歳)5月、先ず土方と龍馬が協同して長州の桂小五郎を説諭し下関で薩摩の西郷隆盛と会談することを承服させ、同時に中岡は薩摩に赴き西郷に会談を応じるよう説いた。同年閏5月21日、龍馬と桂は下関で西郷の到来を待ったが、「茫然と」した中岡が漁船に乗って現れただけであった。

西郷は下関へ向っていたが、途中で朝議が幕府の主張する長州再征に傾くことを阻止するために急ぎ京都へ向ってしまっていた。桂は激怒して、和談の進展は不可能になったかに見えたが、龍馬と中岡は薩長和解を諦めなかった。

倒幕急先鋒の立場にある長州藩に対して、幕府は国外勢力に対して長州との武器弾薬類の取引を全面的に禁止しており、長州藩は近代的兵器の導入が難しくなっていた。一方、薩摩藩は兵糧米の調達に苦慮していた。ここで龍馬は薩摩藩名義で武器を調達して密かに長州に転売し、その代わりに長州から薩摩へ不足していた米を回送する策を提案した。

取り引きの実行と貨物の搬送は亀山社中が担当する。この策略によって両藩の焦眉の急が解決することになるので、両藩とも自然これに首肯した。これが亀山社中の初仕事になり、8月、長崎のグラバー商会からミニエール銃4,300挺、ゲベール銃3,000挺の薩摩藩名義での長州藩への買い付け斡旋に成功した。

これは同時に薩長和解の最初の契機となった。また、近藤長次郎(この当時は上杉宗次郎と改名)の働きにより薩摩藩名義でイギリス製蒸気軍艦ユニオン号(薩摩名「桜島丸」、長州名「乙丑丸」)の購入に成功し、所有権を巡って紆余曲折はあったが10月と12月に長州藩と桜島丸条約を結び、同船の運航は亀山社中に委ねられることになった。

9月には長州再征の勅命には薩摩は従わない旨の「非義勅命は勅命にあらず」という文言で有名な大久保一蔵の書簡を、長州藩重役広沢真臣に届けるという重大な任務を龍馬が大久保や西郷に任されている。

(サイト検索)

イギリス製蒸気軍艦ユニオン号(薩摩名「桜島丸」、長州名「乙丑丸」)

    http://homepage3.nifty.com/kaientaidesu/html/ziken4.htm

            その10に続く            以上

2010年4月15日 (木)

平成の「坂本龍馬」その8(神戸海軍操練所廃止・亀山社中へ)

文久3年(1863年=28歳8月18日の政変池田屋事件の後、長州藩は薩摩・会津勢力によって一掃された。7月19日に京都政治の舞台に戻ることを目標とした長州軍三千が御所を目指して進軍したが、一日の戦闘で幕府勢力に敗れた(禁門の変)。

それから少し後の8月5日、長州は英米仏蘭四カ国艦隊による下関砲撃を受けて大打撃を蒙った(下関戦争)。禁門の変で長州兵が御所に発砲したことで長州藩は朝敵の宣告を受け、幕府はこの機に長州征伐を発令した。二度の敗戦により長州藩には抗する戦力はなく、11月に責任者の三家老が切腹して降伏恭順した(長州征討)。

おりょうの後年の回想によると、これらの動乱の最中の8月1日に龍馬はおりょうと内祝言を挙げている。8月中旬頃に龍馬は海舟の紹介を受けて薩摩の西郷隆盛に面会し、龍馬は海舟に対して西郷の印象を「分らぬ奴で、少し叩けば少し響き、大きく叩けば大きく響く、馬鹿なら大馬鹿、利口なら大利口だろう」と評している。

望月の件に続き、塾生の安岡金馬が禁門の変で長州軍に参加していたことが幕府から問題視され、さらに海舟が老中・阿部正外の不興を買ったこともあり、10月22日に海舟は江戸召還を命ぜられ、11月10日には軍艦奉行も罷免されてしまった。これに至って、神戸海軍操練所廃止は避けえなくなり、龍馬ら塾生の後事を心配した海舟は江戸へ出立する前に薩摩藩城代家老・小松帯刀に彼らを託して、薩摩藩の庇護を依頼した。慶応元年(1865年=30歳)3月18日に神戸海軍操練所は廃止になった。

「亀山社中」

龍馬ら塾生の庇護を引き受けた薩摩藩は彼らの航海術の専門知識を重視しており、慶応元年(1865年=30歳)5月頃に龍馬らに出資して「亀山社中」を結成させた。これは商業活動に従事する近代的な株式会社に類似した性格を持つ組織であり、当時商人が参集していた長崎の小曾根英四郎家を根拠地として、下関の伊藤助太夫家そして京都の酢屋に事務所を設置した。

長州藩では前年の元治2年(1864年=29歳)12月に高杉晋作が挙兵して、恭順派政権を倒して再び尊攘派が政権を掌握していた(功山寺挙兵)。亀山社中の成立は商業活動の儲けによって利潤を上げることの外に、当時、水火の如き関係にあった薩長両藩和解の目的も含まれており、後の薩長同盟成立(後述)に貢献することになる。

(サイト検索)

禁門の変(蛤御門の変)=http://y-hyouma.hp.infoseek.co.jp/history/hamaguri.html

http://ja.wikipedia.org/で検索<下関戦争><長州征伐>

亀山社中=http://www.webkohbo.com./info3/kameyamashachu/kameyama.html

功山寺挙兵=http://members.jcom.home.ne.jp/saitaniya/html/kouzanji.htm

              その9に続く             以上

2010年4月14日 (水)

平成の「坂本龍馬」その7(神戸海軍塾)

龍馬が神戸海軍操練所成立のために方々を奔走していた最中の文久3年(1863年=28歳)4月、土佐藩の情勢が変わり、下士階層の武市半平太が藩論を主導していることに不満を持っていた容堂は再度実権を取り戻すべく、吉田東洋暗殺の下手人の探索を命じ、土佐勤王党の粛清に乗り出した。6月に勤王党の間崎哲馬、平井収二郎、弘瀬健太が切腹させられた。

平井の妹加尾は龍馬の恋人とされる女性で、龍馬は姉乙女へ「平井収二郎のことは誠にむごい、妹の加尾の嘆きはいかばかりか」と書き送っている。また、6月29日付けの手紙では攘夷を決行し米仏軍艦と交戦して苦杯を喫した長州藩の情勢(下関戦争)について強い危機感を抱き「姦史を打ち殺して、日本を今一度洗濯いたし申し候」と後世殊に有名になった言葉を述べている。

同年8月18日に倒幕勢力最有力であった長州藩の京都における勢力を一網打尽にすべく薩摩藩と会津藩が手を組み「8月18日の政変」が起きた。これにより京都の政情は一変し、佐幕派が再び実権を握った。8月に天誅組が大和国で挙兵したが、翌9月に壊滅して吉村虎太郎、那須信吾ら多くの土佐脱藩志士が討ち死にしている(天誅組の変)。土佐では9月に武市半平太が投獄され、土佐勤王党は壊滅状態に陥っていた(武市は一年半の入獄後の慶応元年「1865年」閏5月に切腹となっている)。

文久3年(1863年=28歳)10月に龍馬は神戸海軍塾塾頭に任ぜられたが、翌元治元年(1864年=29歳)2月に前年に申請した帰国延期申請が拒否されると、龍馬は海軍操練所設立の仕事を続けるために再び藩に拘束されることを好まず、藩命を無視して帰国を拒絶し再度の脱藩をする。同年2月9日、海舟は前年5月から続いている長州藩による関門海峡封鎖の調停のために長崎出張の命令を受け、龍馬もこれに同行した。

熊本で龍馬は横井小楠を訪ねて会合し、小楠はその返書として海舟に「海軍問答」を贈り、海軍建設に関する諸提案をした。同年5月、龍馬は生涯の伴侶となる楢崎龍(おりょうと出会い、後に彼女を懇意にしていた寺田屋の女将お登勢に預けている。5月14日、海舟が正規の軍艦奉行に昇進して神戸海軍操練所が発足した。

6月17日、龍馬は下田で海舟と会合し京摂の過激の輩数十人(或いは200人程)を蝦夷地開拓と通商に送り込む構想を話し、老中・水野忠精も承知し資金三、四千両集めていると述べている。だが、この時点では龍馬と海舟は知らなかったが、6月5日に池田屋事件が起きており京都の情勢は大きく動いていた。池田屋事件で肥後の宮部鼎蔵、長州の吉田棯磨ら多くの尊攘派志士が落命または捕縛され、死者の中には土佐の北添佶魔と望月亀弥太もいた。北添は龍馬が開拓を構想していた蝦夷地を周遊した経験のある人物で、望月は神戸海軍塾の塾生であった

(サイト検索)

http://ja.wikipedia.org/で検索<下関戦争><天誅組の変><池田屋事件>

      その8に続く                   以上

2010年4月13日 (火)

平成の「坂本龍馬」その6(勝海舟と神戸海軍操練所)

「勝海舟と神戸海軍操練所」

龍馬は文久2年(1862年=27歳)8月に江戸に到着して小千葉道場に寄宿した。この期間、龍馬は土佐藩の同志や長州の久坂玄瑞、高杉晋作らと交流している。12月5日、龍馬は間崎哲馬、近藤長次郎とともに幕府政事総裁職にあった前福井藩主・松平春嶽に拝謁した。12月9日、春嶽から幕府軍艦奉行並・勝海舟への紹介状を受けた龍馬と門田為之助、近藤長次郎は海舟宅を訪問して、海舟の門人となった

龍馬と千葉重太郎が開国論者の海舟を斬るために訪れたが、海舟から世界情勢と海軍必要性を説かれて龍馬は大いに感服し、己の固陋を恥じてその場で海舟の弟子になったという話が広くしられており、この話は海舟本人が明治23年に「追賛一話」で語ったものが出典である。だが、春嶽から正式な紹介状を受けての訪問であること、また海舟の日記に記載されている12月29日の千葉重太郎の訪問時には既に龍馬は弟子であった可能性があることから、近年では前述の龍馬と海舟との劇的な出会いの話は海舟の記憶違い、または誇張であるとする見方が強い。いずれにせよ、龍馬が海舟に心服していたことは姉乙女への手紙で海舟を「日本第一の人物」と称賛していることに良く現れている。

海舟は山内容堂に取り成して、文久3年(1863年=28歳)2月25日に龍馬の脱藩の罪は赦免され、更に土佐藩士が海舟の私塾に入門することを追認もした。龍馬は海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走し、土佐藩出身者の千屋寅之助、新宮馬之助、望月亀弥太、近藤長次郎、沢村惣之丞、高松太郎、安岡金馬らが海舟の門人に加わっている。

また、龍馬が人斬り以蔵の異名を持つ土佐勤王党の岡田以蔵を海舟の京都での警護役にし、海舟が路上で3人の浪士に襲われた際に以蔵がこれを一刀のもとに斬り捨てた事件はこの頃のことである。

幕府要人と各藩藩主に海軍設立の必要性を説得するために海舟は彼らを軍艦に便乗させて実地で経験させた。文久3年(1863年=28歳)4月23日、14代将軍・徳川家茂が軍艦「順動丸」に乗艦の後、「神戸海軍操練所」設立の許可を受け同時に海舟の私塾(神戸海軍塾)開設も認められた。幕府から年三千両の経費の支給も承諾されたが、この程度の資金では海軍操練所の運営は賄えず、そのため5月に龍馬は福井藩に出向して松平春嶽から千両を借り入れした。

5月17日付の姉乙女への手紙で「この頃は軍学者勝麟太郎大先生の門人になり、ことの外かわいがられ候・・・すこしエヘンに顔をし、密かにおり申し候。エヘン、エヘン」と近況を知らせている。

(サイト検索)

神戸海軍塾http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/1863/ryoma-kobe.htm

神戸海軍操練所http://www7b.biglobe.ne.jp/~koberyoma/soren/soren.html

                              その7に続く                 以上

2010年4月12日 (月)

平成の「坂本龍馬」その5(幕末・脱藩)

「脱藩」

武市は藩論を転換すべく積極的に方策を講じるとともに絶えず諸藩の動向にも注意し、土佐勤王党の同志を四国、中国、九州などへ動静調査のために派遣しており、龍馬もその中の一人であった。文久元年(1861年=26歳)10月、日根野弁治から小栗流皆伝目録「小栗流和兵法三箇條」を授かった後に、龍馬は丸亀藩への「剣術詮議」(剣術修行)の名目で土佐を出て文久2年(1862年=27歳)1月に長州萩を訪れて長州藩における尊王運動の主要人物である久坂玄瑞と面会し、久坂から武市宛の書簡を託されている。

龍馬は同年2月にその任務を終えて土佐に帰着したが、この頃、薩摩藩国父・島津久光の率いる兵上洛の知らせが土佐に伝わり、土佐藩が二の足を踏んでいると挫折を感じていた土佐勤王党同士の中には脱藩して京都へ行き、薩摩藩の勤王義挙に参加しようとする者が出て来た。

脱藩は藩籍から離れて一方的に主従関係の拘束から脱することであり、浪人となった脱藩者は藩内では罪人となり、更に藩内に留まった家族友人も連座の罪に問われることになる。武市は藩論を変えて挙藩勤王を希望しており、脱藩して上洛する策には反対していた。だが、一部の同志が脱藩することを止めることは出来ず、まず吉村虎太郎が、次いで沢村惣之丞等が脱藩し、ここにおいて龍馬も脱藩を決意した

龍馬の脱藩は文久2年(1862年=27歳)3月24日のことで、当時既に脱藩していた沢村惣之丞の手引きを受けていた。龍馬が脱藩を決意すると兄・権平は彼の異状に気づいて強く警戒し、身内や親戚友人に龍馬の挙動に特別に注意することを要求し、龍馬の佩刀は全て権平に取り上げられてしまった。この時、龍馬と最も親しい姉の乙女が権平を騙して倉庫に忍び入り、権平秘蔵の刀「肥前忠広」を龍馬に門出の餞に授けたという逸話がある。龍馬は那須信吾(後に脱藩して天誅組の変に参加)の助けを受けて土佐を抜け出した。

脱藩した龍馬と沢村はまず長州下関の豪商白石正一郎を訪ねたが、吉村は二人を待たずに京都へ出立していた。尊攘派志士の期待と異なり、島津久光の真意はあくまでも公武合体であり、尊攘派藩士の動きを知った久光は驚愕して鎮撫を命じ、4月23日に寺田屋事件が起り薩摩藩尊攘派は粛清された

吉村はこの最中に捕縛されて土佐へ送還されている。一般的には龍馬は沢村と別れて薩摩藩の動静を探るべく九州に向ったとされるが、この間の龍馬の正確な動静は詳らかではない。

一方、土佐では吉田東洋が4月8日に暗殺され(勤王党の犯行とされる)、武市が藩論の転換に成功して藩主の上洛を促していた。龍馬は7月頃に大坂に潜伏している。この時期に龍馬は望月清平と連絡をとり、自らが吉田東洋暗殺の容疑者と看做されていることをしらされる。

(サイト検索)

幕末の脱藩=http://plaza.across.or.jp/~tom-hori/dappannnokokorozashi.html

現代の脱藩=http://dappan.hp.infoseek.co.jp/dojo/magmag/mag17.html

寺田屋事件=http://homepage2.nifty.com/airman/satsuma/teradaya01.html

吉田東洋=http://www.katsuo.co.jp/ijin/yosidatouyou.html

                  その6に続く                       以上

2010年4月11日 (日)

平成の「坂本龍馬」その4(幕末・土佐勤王党)

安政7年(1860年=25歳)7月、龍馬の朋友である武市半平太が武者修行のために門人岡田以蔵(後に「人斬り以蔵」の名で知られる幕末四大人斬りの一人となる)、久松喜代馬、島村外内らとともに土佐を出立した。武者修行と称していたが、実際は西国諸藩を巡って時勢を視察することが目的であった。一行はまず讃岐丸亀藩に入り、備前・美作・備中・備後・安芸・長州などを経て九州に入り、途中で龍馬の外甥の高松太郎と合流している。

文久元年(1861年=26歳)3月、土佐で井口村刃傷事件(永福寺事件)が起り、下士と上士の間で対立が深まった。「維新土佐勤王史」にはこの事件について「坂本等、一時池田の宅に集合し、敢て上士に対抗する気勢を示したり」とある。なお、事件の当事者で切腹した池田虎之進の介錯を龍馬が行って、その血に刀の下緒を浸しながら下士の団結を誓ったという逸話が流布しているが、これは坂崎紫瀾の小説「汗血千里駒」のフィクションである。

同年4月、武市は江戸に上り、水戸藩、長州藩、薩摩藩などの諸藩の藩士と交流を持ち、土佐藩の勤王運動が諸藩に後れを取っていることを了解し、武市は長州の久坂玄瑞、薩摩の樺山三円と各藩へ帰国して藩内同志の結集を試み、藩論をまとめ、これをもって各藩の力で朝廷の権威を強化し、朝廷を助けて幕府に対抗することで盟約を交わした

これにより、同年8月、武市は江戸で密かに少数の同志とともに「土佐勤王党」を結成し、盟日(めいえつ)を決めた。武市は土佐に戻って192人の同志を募り、龍馬は9番目、国元では筆頭として加盟した。武市が勤王党を結成した目的は、これを藩内勢力となして、藩の政策(主に老公山内容堂の意向)に影響を与えて、尊王攘夷の方向へ導くことにあった

勤王党結成以来、武市は藩内に薩長二藩の情勢について説明をするのみならず、土佐もこれに続いて尊王運動の助力となるべきと主張した。しかし、参政吉田東洋をはじめとした当時の藩政府は「公武合体」が藩論の主要な方針であり、勤王党の尊王攘夷主張は藩内の支持を得ることが出来なかった。

(*この頃の龍馬は土佐の尊王攘夷の仲間とともに行動をしていたが、余り過激な行動を好まぬ龍馬はどうしたら良いものかと苦悩していた)

(サイト検索)

永福寺事件=http://homepage2.nifty.com/ryomado/Sakaryo/SRanec/saryo_anec04-05.html

幕府の公武合体運動=http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/koumon-b.htm

公武合体と尊王攘夷=http://f40.aaa.livedoor.jp/~paulnobu/kobugattai-sonnojyoi.html

               その5に続く                  以上

2010年4月10日 (土)

平成の「坂本龍馬」その3(幕末・江戸遊学・帰国へ)

安政元年(1854年=19歳)6月23日、龍馬は15ヶ月の江戸修業を終えて土佐へ帰国した。在郷中に、龍馬は中伝目録に当たる「小栗流和兵法十二箇条並二十五箇条」を取得し、日根野道場の師範代を務めた。また、ジョン万次郎を聴取した際に「漂巽記略」を編んだ絵師河田小龍宅を訪れて国際情勢について学び、河田から海運の重要性について説かれて大いに感銘し、後の同志となる近藤長次郎、長岡謙吉らを紹介されている。またこの時期に、徳弘孝蔵の元で砲術とオランダ語を学んでいる

安政2年(1855年=20歳)12月4日、父・八平が他界し、坂本家の家督は兄・権平が安政3年(1856年=21歳)2月に継承した。同年7月、龍馬は再度の江戸剣術修行を申請して8月に藩から1年間の修業が許され、9月に江戸に到着し武市半平太、大石弥太郎らとともに築地の土佐藩邸中屋敷に寄宿した。二度目の江戸遊学では小千葉道場とともにお玉が池の玄武館でも一時期修業している。

安政4年(1857年=22歳)に藩に1年の修業延長を願い出て許された。同年、盗みを働き切腹沙汰となった龍馬と武市の親戚関係にある山本琢磨を逃がす。安政5年(1858年=23歳)1月、師匠の千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられる。千葉佐那の回顧によると、この年に龍馬と佐那が結納を交わしているが、結納は文久2年とする見方もある。同年9月に土佐へ帰国した。

*23歳で北辰一刀流の免許皆伝を受けたのは、現在では、司法試験や公認会計士試験等に合格したようなものであり、一流の人物となる足がかりが出来たことの証明である

「土佐勤王党」

土佐藩では幕府からの黒船問題に関する各藩への諮問を機に藩主山内豊信(容堂)が吉田東洋を参政に起用して意欲的な藩政改革に取り組んでいた。また、容堂は水戸藩主・徳川斉昭、薩摩藩主・島津斉彬、宇和島藩主・伊達宗城らとともに将軍継嗣に一橋慶喜を推戴して幕政改革をも企図していた。

だが、安政5年(1858年=23歳)4月に井伊直弼が幕府大老に就任すると、幕府は一橋派を退けて徳川慶福(家茂)を将軍継嗣に定め、開国を強行し反対派の弾圧に乗り出した(安政の大獄)。一橋派の容堂も安政6年(1859年=24歳)2月に家督を豊範に譲り隠居を余儀なくされた。隠居謹慎したものの藩政の実権は容堂にあり、吉田東洋を中心とした藩政改革は着々と進められた。

安政7年(1860年=25歳)3月3日、井伊直弼が江戸城へ登城途中の桜田門外で水戸脱藩浪士らの襲撃を受けて暗殺される(桜田門外の変)。事件が土佐に伝わると、下士の間で議論が沸き起こり尊王攘夷思想が土佐下士の主流となった。

(サイト検索)

安政の大獄と井伊直弼=http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/rekishi/bakumatu07.htm

桜田門外の変=http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/rekishi/bakumatu04.htm

                        その4に続く                   以上

2010年4月 9日 (金)

平成の「坂本龍馬」その2(幕末・幼少年期)

弘化3年(1846年)、12歳のときに母・幸が死去し、父・八平の後妻・伊興に養育された。幼年の龍馬は寝小便癖が直らない泣き虫の惰弱であり、漢学の楠山塾に入学したものの、いじめに遭い抜刀騒ぎを起こして退塾させられてしまい三姉の乙女が武芸や学問を教えたという。

龍馬の人格形成において多大な影響を与えていったのはのは、父・八平の後妻・伊興の実家・下田屋(川島家)といわれている。龍馬は姉・乙女とともに浦戸湾を船で渡り、当時土佐藩御船蔵のあった種崎にある川島家をたびたび訪れては、長崎や下関からの珍しい土産話などを聞いたとされる。また、世界地図や数々の輸入品を見て外の世界への憧れを高めたともいわれている。

嘉永元年(1848年=13歳)に日根野弁治の道場に入門して小栗流剣術を学び、非常に熱心に剣術に精励し、5年の修業を経た嘉永6年(1853年=18歳)に「小栗流和兵法事目録」を得た。

「江戸遊学」

小栗流目録を得た嘉永6年(1853年)、龍馬は剣術修行のための一年間の江戸自費遊学を藩に願い出て許された。出立に際して龍馬は父・八平から「修行中心得大意」を授けられ、溝渕広之丞とともに土佐を出立した。4月頃に江戸に到着し、築地の中屋敷(または鍛冶橋の土佐藩上屋敷)に寄宿し、北辰一刀流の千葉定吉道場(現:東京都千代田区)の門人となる。

定吉は北辰一刀流創始者千葉周作の弟で、その道場は「小千葉」または「桶町千葉」として知られ、周作の「玄武館」(大千葉)とは別である。道場には定吉の他に長男・重太郎と三人の娘(その内一人は龍馬の婚約者と言われる佐那)がいた。

龍馬が小千葉道場で剣術修業を始めた直後の、6月3日ぺリー提督率いる米艦隊が浦賀沖に来航した(黒船来航)。自費遊学の龍馬も臨時召集されて品川の土佐藩下屋敷守備の任務に就いた。龍馬が家族に宛てた当時の手紙では「戦いになったら異国人の首を打ち取って帰国します」と書き送っている。(*この当時はまだまだ、一般の若者と大して変わらない視野の狭い普通の人間である)

同年12月、剣術修業の傍ら龍馬は当代の軍学家・思想家である佐久間象山の私塾に入学した。そこでは砲術、漢学、蘭学などの学問が教授されていた。象山は翌年4月に吉田松陰の米国軍艦密航事件に関係したとして投獄されてしまい、龍馬が象山に師事した期間はごく短いものだった。(*当時の先進的な人物「佐久間象山」の私塾に入学したのは龍馬自身の考えなのか、誰の勧めか分らないが優れた選択である=普通の人間から一段階レベルを上げる道である)

       その3に続く                     以上

2010年4月 8日 (木)

平成の「坂本龍馬」その1(幕末時代の龍馬)

前回までは、「今、何故、NHK大河ドラマ(龍馬伝)なのか」のシリーズを記述してきましたが、NHKのドラマは今年一杯続きますので、この辺で一息入れる意味でも、当面今度のタイトル「平成の(坂本龍馬)」を記述してみたいと思います。今までの目線は現代から幕末を見ていましたが、今度の目線は「坂本龍馬」個人の目線で世の流れを記述してみたいと思います。最後の方では、「龍馬の船中八策」の現代版「現代の船中八策}を読者の皆様にご提案して見たいと思っておりますので、是非最後まで、お付き合い下さいますようお願い申し上げます。

「坂本龍馬」(幕末時代の頃)

坂本龍馬(さかもと りょうま)、天保6年11月15日(1836年1月3日)生まれ、慶応3年11月15日(1867年12月10日)(満31歳没)は、日本の武士(土佐藩郷士)。倒幕および明治維新に影響を与えた人物。諱は直陰(なおかげ)のちに直柔(なおなり)。通称龍馬。他に才谷梅太郎(さいだに うめたろう)などの変名がある。

「概観」

グラバー商会(ジャーデイン・マセソンの日本代理販売点)代理人として武器輸入に関わった実業家。土佐藩脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)の結成薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど、志士として活動した。贈正四位(1891年「明治24年」4月8日)。司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」の主人公とされて以来、国民的人気を誇っている。また、その実績については様々な論議がある。

生前より死後に有名になった人物であり、先述の「竜馬がゆく」を初め、小説やドラマに度々取り上げられる人物ではあるが、それらで描かれる人物像は実際の龍馬とかなり異なっているのではないかという指摘もある。ちなみに、龍馬の伝記を書いた歴史家としては、平尾道雄・池田敬正・飛鳥井雅道などが代表的。

「生涯」(幼少年期)

龍馬は天保6年(1835年)11月15日、土佐国土佐郡上街本町筋一丁目(現在の高知県高知市上町一丁目)に土佐藩郷士(下級武士)坂本家父・八平、母・幸の間の次男として生れた。兄(権平)と三人の姉(千鶴、栄、乙女)がいた。坂本家は質屋、酒造業、呉服商を営む豪商才谷屋の分家で、第六代・直益の時に長男・直海が藩から郷士御用人に召し出されて坂本家を興した。

土佐藩の武士階級には上士と下士があり、両者の間には様々な待遇差別が存在し、下士は長い間様々な場面で抑圧されてきた。商家出身の坂本家は下士(郷士)だったが、分家の際に才谷屋から多額の土地財産を相続しており非常に裕福な家庭だった

龍馬が生れる前の晩に、母親が龍が天を飛ぶ瑞夢を見て(または父が駿馬の母が蛟龍の夢を見たとも)それに因んで龍馬と名づけられ、幼い龍馬の背には一魂の怪毛があったという伝説がある。

(サイト検索)グラバー=http://www.geocities.jp/bane2161/guraba-.html

ジャーデイン・マセソン=http://ja.wikipedia.org/wikiで検索して下さい

                                                                                               その2に続く                   以上

2010年4月 7日 (水)

今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その二十六(維新改革の影響など)

明治維新の諸改革は、新たな制度で生じた矛盾をいくらか孕みながらも、おおむね成功を収め、短期間で立憲制度を達成し、富国強兵が推進された。その評価は日清戦争・日露戦争における勝利により飛躍的に高まり、諸外国からも感嘆・驚異の目で見られるようになった

特にアジア諸国では明治維新を模範として改革や独立運動を行なおうとする動きが盛んになる孫文も日本亡命時には「明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である」との言葉を犬養毅へ送っている。その多くは明治維新が行政制度のみならず教育・産業・金融などを含めた総合的な改革であったという本質への理解には及ばず、形だけの改革や一面だけを捉えた「上からの改革」に終始したため、成功に至った例は少ない。

朝鮮における壬午事変・甲申政変や清の戊戌の変法の失敗、長続きしなかったイランのイラン立憲革命やロシア帝国のヴィッテ改革・ストルイピン改革などが典型である。(朝鮮の改革運動については金玉均など、清の改革については光緒帝、黄遵憲など)一定の成功を収めた例としては、パラグアイのカルロス・アントニオ・ロペス大統領による改革、タイのチャクリー改革、トルコのアタチュルク主義、エジプトのエジプト革命、メキシコのベニート・ファレス改革が挙げられる。

明治維新は欧米列強に抑圧されたアジア諸国にとって近代化革命の模範ともなったが、やがて日本自身が列強側の国家として、帝国主義的な領土・権益獲得の立場となった。日本は明治維新によって列強と化した事により、アジア諸国では数少ない植民地にならなかった国となったのである。

一方、殆んどのアジア諸国で挫折ないし不可能だった近代化革命が、何故、日本においてのみ成功したのかについても近年研究が盛んとなっている。毛沢東、孫文その他アジアの指導者はほぼ例外なく明治維新に何らかの関心を持っており、その歴史的価値についての問い直しが盛んとなっている。維新成功の背景として、その前段階たる江戸時代における日本人の労働生産性・教育水準・遵法意識の高さや、近世においてすでに近代的科学(合理)精神を受け入れる素地・教養が準備されていたことなども要因と考えられ、江戸時代の再評価のきっかけにもなっている

(小生のコメント)

幕末から明治維新に掛けて日本は欧米諸国やアジア諸国との間で各種条約を締結しましたが、その条約の内容は、それぞれの国との開国に伴う約束ごとです。これを今日の日本の姿を歴史的に観察するならば、以下のように理解できそうです。

幕末に江戸幕府は最初に(黒船と大砲に脅されながら)アメリカと日米和親条約を締結しましたが、現在は、日米安保条約を中心とした、日米同盟関係(日米併合化=国境をなくす)を(原子力空母と原爆で脅されながら)再深化しようとしています。これも前政権江戸幕府(自民・公明)が既に不平等条約・和親条約(安保条約・普天間基地移転等)を締結済みであったため、維新政府明治政府(平成維新政府・「民主・国民・社民」)はその条約改正に大変な苦労をしました。今日、沖縄の普天間基地移転等で現政権は大変な目にあって居ります。このように、歴史をよく知る事は、現在の状況を理解するのに役立ちます。  平成の「坂本龍馬」シリーズに続く    以上             以上

2010年4月 6日 (火)

今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その二十五(維新改革・宗教・外交政策)

「宗教」

 宗教的には、祭政一致の古代に復す改革であったから、慶応3年(1867年)旧暦正月17日に制定された職制には神祇を七科の筆頭に置き、3月(旧暦)には神仏分離令が布かれた。神仏分離令の主旨は仏教の排斥ではなく、江戸時代までの神仏習合による仏教と神道の混交から両者を分離することであったが、当時の復古的機運は仏教でさえも外来の宗教として激しく排斥する廃仏毀釈へと向った。また、キリスト教(耶蘇教)は、新政府によって引き続き厳禁された。キリスト教の指導者の総数140人は、萩(66人)、津和野(28人)、福山(20人)に分けて強制的に移住させた。

その後、明治2年(1869年)12月7日には、信者約3,000人を金沢以下10藩に分散移住させた。しかし、明治4年(1871年)旧11月、岩倉具視特命全権大使一行が欧米各国を歴訪した折、阿蘇教禁止令が各国の非難を浴びて、条約改正の交渉上障碍になるとの報告により、明治5年(1872年)に大蔵大輔の職にあった井上馨は、長崎府庁在任時に関わった事から、明治5年正月に教徒赦免の建議をした。

神道国教化政策との絡みや、キリスト教を解禁しても直ちに欧米が条約改正には応じないとする懐疑的な姿勢から来る、政府内の保守派の反対のみばかりでなく、宗教界や一般民衆からも「邪宗門」解禁に反対する声が強く紛糾したものの、明治6年(1873年)2月24日禁制の高札を除去し、その旨を各国に通告した。各藩に移住させられた教徒は帰村させ、ようやく終結した。

「外交政策」

新政府にとって、最大の目標は欧米列強に追いつくことであり、そのためにも旧幕府時代に締結された不平等条約の改正が急務とされた。上記の岩倉使節団は西欧諸制度の調査も目的であったが、条約改正のための下準備という面もあり、実際交渉も準備されたが、日本を近代国家と看做していない欧米諸国からは相手にされず、まだ時期尚早であった。そのため、欧化政策など日本が西洋と対等たらんとする様々な政策が行なわれたが、条約改正自体は半世紀におよぶ不断の努力を必要とした(条約改正)。

一方、不平等条約の失敗を鑑とした政府は、アジア諸国に対しては、平等以上の立場を確保することを旨とした。清との間には明治4年(1871年)対等条約である日清修好条規が締結される。明治7年(1874年)には台湾における宮古島民殺害事件をきっかけに台湾出兵が行なわれ、両国の間で台湾・沖縄の帰属が決定されることになった。

李氏朝鮮との間では国書受け入れを巡って紛争が起こり、明治6年(1873年)には政府を二分する論争(いわゆる征韓論)となったが、明治9年(1876年)に起きた江華島事件を契機として日朝修好条規(江華島条約)を締結し、朝鮮を自主国として認め、開国させるに至る。

また、ロシア帝国との間では明治8年(1875年)に、千島樺太交換条約が締結され、それまで日露雑居地とされた樺太および千島列島における日露国境が確定した。

(サイト索引)=http://ja.wikipedia.org/ で検索、<不平等条約><条約改正><日清修好条規><日朝修好条規><千島樺太交換条約>

                                   その二十六に続く              以上

2010年4月 5日 (月)

今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その二十四(維新改革・諸制度の改革)

廃藩置県と太政官制の改革を経て中央集権体制が整ったことで、ようやく旧幕府時代の制度を改革する準備が整った。ほぼ同時に宮中の改革も行なわれ、旧来の宮中職や女官は廃され、士族を中心とした侍従らが明治天皇を武断的な改革君主に相応しい天皇に養育することとなった。

幕末期には病弱であった明治天皇も、士族による養育のためか健康も回復し、西洋的立憲君主としての心得も学び、「明治国家」の元首として相応しい存在になっていく。特に憲法制定過程における枢密院審議においては、そのすべてに臨御し、また国会開設前後の立憲政治未成熟期に首相が頻繁に辞任・交代した際も、政局の調停者として重要な役割りを担った。

身分制度については、江戸幕府下の「士農工商」の別を廃止し旧武士階級を士族それ以外を平民とし、「四民平等」を謳う一方、旧公家・大名や一部僧侶などを新たに華族として特権的階級とすると同時に、宮内省の支配の下に置くことになった。

また、維新政府は西洋の諸制度を研究するため岩倉具視を正使、大久保利通・木戸孝允・伊藤博文らを副使とする岩倉使節団を欧米へ派遣するが、「留守政府」と呼ばれた日本残留組の西郷隆盛・井上馨・大隈重信・板垣退助・江藤新平・大木喬任らの手によって、次々と改革は進んでいった。

主な改革としては、学制改革、地租改正、徴兵令、グレゴリオ暦の採用、司法制度の整備、断髪令などがある。ただし、これらの改革は急激に行なわれたため矛盾も少なくなく、士族や農民の不満を招いたため、後の征韓論に繋がったとも言われる

欧米使節から帰国した岩倉や大久保が征韓論を退け、さらに大久保の下に内務省が設立されたことで諸改革の整理が行なわれることになる。また、これと同時期に民間でも行なわれた文明開化の動き、肉食の普及や鉄道の開通などとも相まって新時代「明治」の雰囲気が醸成されていった。

経済産業分野では、富国強兵・殖産興業のスローガンの下、富岡製糸工場を初めとする官営工場が作られるなど、政府主導の産業育成が始まり西洋式工業技術が導入された。また金融制度でも旧幕府時代の貨幣制度を改めて、通貨単位として「円」を導入(明治4年(1871年)、新貨条例)、また国立銀行条例による国立銀行(ナショナルバンク)を経て、通貨発行権を独占する中央銀行としての日本銀行設立(明治15年、1882年)など、資本主義的金融制度の整備も行なわれた。また流通分野では、郵便制度・電信網の整備、鉄道および船舶運輸(民間の郵便汽船三菱会社と国策会社の共同運輸会社の競合を経て日本郵船会社)などの整備が行なわれた。これらの資本活動には、職を失った代わりに秩禄を得た華族の資産による投資活動も背景にあった。

このような改革には積極的に西洋文明の先進制度が取り入れられ、その過程で、「お雇い外国人」と呼ばれる外国人が、技術指導、教育分野、官制・軍制整備など様々な分野で雇用され、近代国家建設を助けた。

(サイト検索)=http://ja.wikipedia.org/で検索<新貨条例><大日本帝国憲法><岩倉使節団>

       <征韓論>=http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog212.html

                                http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/syougai11.htm

                 その二十五に続く            以上

2010年4月 4日 (日)

今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その二十三(維新改革・地方行政)

「維新改革」(地方行政)

明治政府の地方行政としては、徳川家を駿府藩に移封し京都・長崎・函館を政府直轄の「府」とした以外は、原則として以前の藩体制が維持されていた。しかし、富国強兵を目的とする近代国家建設を推進するためには、中央集権化による政府の地方支配強化は是非とも必要なことであった。

まず、明治2年の「版籍奉還」で旧藩主が自発的に版(土地)・籍(人民)天皇に返上し、改めて知藩事に任命されることで、藩地と領主の分離が図られ、重要地や旧幕府直轄地に置かれた府・県とともに「府藩県体制」となる。しかし、中央集権化を進め、改革を全国的に網羅する必要があることから、藩の存在は邪魔となり、また藩側でも財政の逼迫が続いたことから自発的に廃藩を申し出る藩が相次いだ。

明治4年旧7月14日(1871年8月29日)に、薩摩・長州藩出身の指導者により「廃藩置県」が実施され、府県制度が設置され(当初は3府302県、直後に整理され3府72県)、中央政府から知事を派遣する制度が実施された。これにおいては、令制国の地名を用いなかったために、都市名が府県名となった所も少なくない。

薩摩藩の島津久光が不満を述べた以外は目立った反撥はなく(すでに中央軍制が整い、個別の藩が抵抗しにくくなっていたこと、藩財政が危機的状況に陥り、知藩事の手に負えなくなったこと、旧藩主が華族として身分・財産が保証されること、などが理由とされる)、国家の支配体制がこのように電撃的、かつ画期的に改変されたのは明治維新における奇跡とも言える。

なお、旧幕府時代、名目上は独立国でありながら実質上薩摩藩の支配下にあった琉球王国に関しては、廃藩置県の際に「琉球藩」が設置されて日本国家内に取り込まれることとなり、明治12年(1879年)に沖縄県として正式に県に編入された(この間の経緯は一般に琉球処分と称される。旧琉球国王の尚氏も旧藩主と同様、華族となった)

(サイト検索)

「版籍奉還」=http://ja.wikipedia.org/の中で、<版籍奉還>を検索して下さい。

「廃藩置県総覧」=http://www.bakusin.com/eiketu/haihan.html

「47都道府県への道」=http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/6478/HAIHAN/kenmei.html

「琉球処分」=http://ja.wikipedia.org/の中で、<琉球処分>を検索

「琉球王朝通史」=http://page.freett.com/haniwa828/ryukyu/tushi/index.htm

「薩摩の琉球支配から400年・日本国の琉球処分130年を問う会」=http://www.ntt-i.net/ryukyu/index.html

           その二十四に続く             以上

2010年4月 3日 (土)

今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その二十二(維新改革・中央行政)

「維新改革の内容」((中央行政)

 形式的には、明治維新は律令制の復活劇でもあった。幕藩体制の崩壊に伴い、中央集権国家の確立を急ぐ必要があった新政府は、律令制を範とした名称を復活させた(例:太政官、大蔵省など。ただし、当然のことながら実態は律令制のそれとはかなり異なる)。

王政復古の大号令において、幕府や摂政・関白の廃止と天皇親政が定められ天皇の下に総裁・議定・参与の三職からなる管制が施行されたが、明治天皇はまだ年少であるため(実際天皇親政は建前であった)、それを補佐する体制がすぐに必要となった。

そこで、明治元年閏4月21日、政体書が公布され(政体書体制)、さらに翌年、律令制の二官八省を模した二官六省制が発足する。具体的な行政機構としては、太政官と神祇官を置き、太政官の下に各省を置く律令制が模写されたものの、その後も民部省から工部省が分離したり、刑部省から司法省への改組など幾多の改変を必要とし、安定しなかった。

また立法府である左院(のち元老院)・右院や地方官会議なども設置・廃止が繰り返された。明治中央官制の改革は明治17年(1885年)の内閣制度発足をもってようやく安定する。

また、立法府に関しては木戸孝允らが明治初年から議会開設を唱えていたが、議会制度を発足させるためには、官制改革・民度・国民教育などが未成熟であり、時期尚早であったため、大久保利通を中心に「有司専制」と呼ばれる薩長藩閥による官僚を中心とした改革体制が維持された。

しかし、自由民権運動の高まりや、諸制度の整備による改革の成熟などもあり、明治14年(1881年)に「国会開設の詔」が出され、同時に議会制度の前提として伊藤博文らによる憲法制定の動きが本格化し、憲法審議のため枢密院が設置された。

明治22年(1889年)に大日本帝国憲法が公布、翌年帝国議会が発足しアジアでは初の本格的な立憲君主制・議会制民主主義国家が完成した(正確にはオスマン帝国のタンジマート改革における1876年ミドハト憲法公布がアジア初の立憲制ではあるが、同国は直後に君主専制に回帰している)。

また、首都については、当初京都では旧弊が多いとして、大阪遷都論が大久保利通を中心として唱えられた。しかし、大阪遷都論には反対があ多く、江戸城の開城もあり、江戸を東京とすることで落着いた。明治天皇の2度の東京行幸により太政官も東京に移され、東京が事実上の首都と看做されるようになった。

            その二十三に続く           以上

2010年4月 2日 (金)

今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その二十一(その後の御誓文)

「勅語」

  (現代表記)  我が国未曾有の変革を為んとし、朕、躬を以って衆に先んじ天地神明に誓い、大にこの国是を定め、万民保全の道を立んとす。衆またこの趣旨に基き協心努力せよ。 年号月日  御諱

  (意味)  我が国は未曾有の変革を為そうとし、わたくし天皇が自ら皆に率先して天地神明に誓い、大いにこの国是を定め、万民を保全する道を立てようとする。皆もまたこの趣旨に基づき心を合わせて努力せよ。  年号 月 日   実名(睦仁)

この勅語は、明治天皇が神前で五箇条を誓った後、群臣に向けて下した言葉である。なお、明治天皇の言葉といっても、天皇自身が声に出した言葉ではなく、実際には三条実美が読み上げている。

勅語中「年号月日」とある箇所は、実際の日付が記されている。「御諱」とは実名のことであり、ここには明治天皇の実名が「睦仁」と記されている。

「奉答書」 

 (現代表記)勅意宏遠、誠に以って感銘に堪えず。今日の急務、永世の基礎、この他に出べからず。臣等謹んで叡旨を奉戴し死を誓い、黽勉従事、冀くは以って宸襟を安じ奉らん。慶応四年戊辰三月 総裁名印 公卿諸侯各名印

 (意味)  天皇のご意思は遠大であり、誠に感銘に堪えません。今日の急務と永世の基礎は、これに他なりません。我ら臣下は謹んで天皇のご意向を承り、死を誓い、勤勉に従事し、願わくは天皇をご安心申し上げます。

奉答書は、群臣が天皇の意思に従うことを表明した文書であり総裁以下の群臣の署名がある。3月14日当日には411名の公卿と諸侯が署名し、残りの者は後日署名した。署名者には公卿と諸侯のほか、同年5月に天皇に直属する朝臣となった旧幕府旗本のうち千石以上の領地を持つ者も加わった。最終的には公卿と諸侯は総計544名、その他288名が署名した。なお、木戸孝允ら藩士出身の新政府実力者たちの署名はない。

奉答書の日付が「慶応四年」となっているが、後の明治改元により慶応四年は1月1日に遡って「明治元年」に読み替えるのが正式である。

(備考)天神地祇御誓祭で三条実美が御誓文を読み上げる光景を日本画家の乾南陽が描き、昭和3年に旧土佐藩主の山内家が明治神宮に奉納した。「五箇條御誓文」と題して明治神宮外苑聖徳記念絵画館で展示されている。教科書や歴史書にもよく載っている

小泉純一郎は首相在任当時、御誓文を元にした決まり文句「万機公論に決すべし」をよく使っていた。平成13年に小泉首相の所信表明演説が書籍として出版された際のタイトルは「万機公論に決すべし」であった。

平成17年7月7日、由利公正が作成し福岡孝弟の加筆訂正のある草稿が競売にかけられる旨の報道があり、5日後に福井県が2388万8000円で落札したと発表した。福井県立図書館(福井市)・福井県立若狭図書学習センター(小浜市)で公開された。

          その二十二に続く                   以上

2010年4月 1日 (木)

今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その二十(その後の御誓文)

ー、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ

  (現代表記)旧来の陋習(ろうしゅう)を破り、天地の公道に基くべし。

     (木戸当初案)旧来の陋習を破り宇内の通義に従うへし

この条文は由利案や福岡案では存在せず、木戸の修正により登場した。木戸当初案の「宇内(うだい)」は「天下」「世界」の別表現である。「通義(つうぎ)」は「広く一般に通用する道理」という意味である。(いずれも三省堂「大辞林」第三版

この条文を、戦前の研究者尾佐竹猛は、「旧来の陋習」は鎖国攘夷を指し、「天地の公道」は万国公法すなわち国際法の意味であり、この条文は開国の方針を規定したものとして狭く解釈していた。

しかし、これに対し、稲田正次・松尾正人・佐々木克たちは、「天地の公道」は開国の方針や国際法を示すことだけではなかったと明確に説明している。その理由として、御誓文と同時に出された宸翰に出てくる「旧来の陋習」の語がそもそも鎖国攘夷の意味に限定されていないこと、また木戸孝允自身が「打破すべき封建制」「打破すべき閉鎖性」の意味で「旧習」「旧来の陋習」「陋習」という言葉を広く使用していること、また、大久保利通でさえ木戸の「旧来の陋習」と同じ意味のことを「因循の腐臭」とより痛烈に批判していること、つまり、薩長いずれも密留学をさせ討幕に立ち上がった開明的雄藩であったにもかかわらず長州の木戸より薩摩の大久保のほうが藩主父子・出身藩の内部事情などのためにより批判的にならざるを得ない危険な封建性・閉鎖性をより自覚していたということ(寺田屋事件~西南戦争)、更に、岩倉具視も他の文書で「天地の公道」という全く同じ言葉を万国公法とはおよそ次元の異なる「天然自然の条理というような意味」で用いていることなどが挙げられている。

総じて、「天地の公道」(木戸当初案では「宇内の通義」)とは、普遍的な宇宙の摂理に基づく人の道を指しているものと解される。

ー、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

   (現代表記)智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。

      (由利案第三条)智識を世界に求め広く皇基を振起すへシ

      (福岡案第四条)智識を世界に求め大いに皇基を振起すべし

前段の「智識を世界に求め」については、前述の横井小楠「国是三論」に「智識を世界万国に取て」とありここから採られたものとみられる。後段の「皇基」とは「天皇が国を治める基礎」というような意味である。

福岡はこの条文を「従来の鎖国的陋習を打破して広く世界の長を採り之を集めて大成するの趣旨である」と回顧している。

    その二十一に続く            以上

            

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