「平成の船中八策」を実現する市民の会、その295[欧州連合における(言語問題31)」
簡単な歴史
エスペラント語の創始者、ルドヴィコ・ザメンホフは、1859年、ロシア
帝政下にあったポーランドのビャウィストクという町で生まれました。
彼は特に語学の才能に優れており、ポーランド語、ロシア語、ドイツ語、
フランス語、英語、ラテン語、ギリシャ語を話すことができました。
その頃ビャウィストクという町には、ポーランド人、ロシア人、ドイツ人、
ユダヤ人というように、4つの異なる民族が住んでおり、それぞれ別の
言葉を話していました。相手の話していることが分からないために、
誤解や争いが絶えませんでした。このような環境で育ったザメンホフは、
早くから共通の言葉について考え始めました。1887年、ザメンホフは
『国際語』(“Lingvo Internacia”)という本を出版し、この国際語は後に
「エスペラント」と呼ばれることになりました。やがて、エスペラント語は
熱狂的な支持を得て、ほかの国々にもどんどん広がっていきました。
ザメンホフは、様々な言語の文法を参考にして文法を組み立て、さらに、
ラテン語やロマンス語などの言語をもとに単語をつくりました。
エスペラント語の大部分は、国際的な言語構造からなると言えるでしょう。
こうして彼は、その後もエスペラント語が発達し続けられるような土台を
築いたのです。エスペラント語を勉強した人は、すぐに、エスペラント語
が本物の言語であることを実感するでしょう。また、エスペラント語の
簡単な文法は、学習者の自信へとつながるでしょう。
みんなのもの
ザメンホフは、最初から、そして永久に、エスペラント語に関する個人の
権利をすべて放棄しました。そのため、エスペラント語はだれのものでも
なく、みんなのものなのです。
通訳が要らない
最初のエスペラント協会は1888年ニュルンベルグで設立されました。
英語で書かれた最初の教科書が、1889年、第1回月刊誌
“La Esperatisto”という名前で出版されました。それから何年もしない
うちに、ヨーロッパ、アジア、南アメリカの国々でも、次々とエスペラントの
協会が設立されました。1905年、フランスのブーローニュ・シュル・メール
で開かれた、第一回世界エスペラント大会には、世界20か国から700人
が参加しました。この大会では通訳は一切必要ではありませんでした。
この事実が、世界で大きな注目を集めました。
1906年を皮切りに、日本やアメリカなどでもたくさん、新しく協会が設立
されました。
その296に続く 以上
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