私の悪夢の原点「赤いクメール」今、タイで増加している「赤い村」
2011年10月15日
私の悪夢の原点「赤いクメール」: そして今、タイで増加している「赤い村」
風邪「みたいなもの」が何だか全然よくならないのですが、熱でボーッとしている時に最近のタイの事情と絡めて、私の「悪夢の原点」を少し思い出したので、書いています。
タイは先日、
・「バンコクを死守せよ」: 全土の3分の1が災害地域となったタイで首都に迫る未曾有の大洪水
という記事で書きました通り、洪水被害が大変なんですが、それはそれとして、あまり西洋のメディアでは語られない「ちょっとした異変」が進行しています。
それは、「赤い村が増殖している」ということなんです。
どういうことかというと、タイの日本語ニュース newsclip.be から抜粋します。
昨年のタイの運動が「赤シャツ」と結びついていたこともあり、普通に読めば、そんなに違和感のない記事だと思うんですが、この世でもっとも反応する単語が「ポル・ポト」である私は、この「赤いものが増殖中」というフレーズには曖昧なショックを受けました。
今ではポル・ポトもその政権もわりと一般の世間からは忘れられていますし、忘れてしまうならそれでいいことでもあるのですが、簡単にいうと、その 1970年代に数百万人ともいわれる人々を虐殺した政治で知られるポルポト政権の名前こそが「クメール・ルージュ(赤いクメール)」なのです。
クメールというのは、アンコールワットなどを作ったクメール文明と、そのクメール人たちのことを差し、ルージュは「赤」です。
1970年代に「赤いクメール」がカンボジアの首都プノンペンを占領する時の写真や、あるいは映像や映画。
そこには、赤い旗と、首に赤いバンダナを巻いた多くの兵士たちが数多く集まり、現地で見ていれば、多分「街が赤くなった」かのように思えたのではないでしょうか。

▲ カラー写真がないですが、赤いクメールがプノンペンを占領した日。1975年。旗は赤。兵士は首に赤と白のチェックのバンダナを巻いています。
もちろん、今回のタイの「赤い村の増殖」とは何の関係もないことですが、「東南アジアと赤の増殖」というキーワードだけで反応してしまうほど赤いクメールの虐殺の日々はショックなものでした。
そのショックの源泉は数百万という数ではありません。
あるいは、方法や思想ともあまり関係ないです。
数百万の命の消失なんて歴史上ではそれほど異常なことではないです。
それ以上に、赤いクメールには、その前にも後にも人類の歴史上では見られなかった「特異性」があったと思っています。
それは「子どもが大人を管理する(殺すことも含む)」という方法です。
「教育」で生まれ変わった子どもたちのしたこと
ポルポト政権下でのいわゆる「虐殺の丘」というような比喩でも言われる大量殺戮は、今でも人数は確定的ではないですが、数万人~300万人くらいまでの非常に大ざっぱな数字が出されています。つまり、全然確定していません。
いくら戸籍制度などが確立されておらず、あるいは後処理も大ざっぱだったとはいえ、たかだか数年間での死者の数がどうしてこんなに把握されていないのか。
それはひとつには、Wikipedia にあるように、
「カンボジアでは1962年を最後に国勢調査が行われておらず、内戦時代には大量の死者および国内難民が発生しており1975年までの正確な人口動態がつかめていないため」
であることは事実でしょうが、実はもっと重要な点が、
・地方地方で、各自勝手に殺戮が行われていたため
ということが大きいように思います。
そして、もうひとつ、
・小さな子どもたちが大きく関与していたため
というようなこともありそうな気がします。
このあたり、1984年のアメリカ映画「キリング・フィールド」というカンボジア内戦を描いた映画があるのですが、私は、東京に出てきた頃に見て、かなりショックを受けて、つまり、私は学生時代に歴史の勉強などしたことがなかったし、雑誌や週刊誌やテレビニュースも全く見ることもなかったので、「ボル・ボトという人を知らなかった」のです。名前も知らない。何をやっている人かも知らない。
まして、クメール・ルージュなど聞いたこともない単語でした。
この映画を見た日以来、私はこの「ポルポト」という人物こそが私の人生の中で最初に目の前に現れた「巨大な何か」でした。
巨大な「悪」とかそういう単純な括りでは語れない宿痾。
しかしまあ、私的なことはともかく、その「キリング・フィールド」で描かれるポル・ポト政権の「虐殺」というのは、当時の私の考え方をはるかに越えたものだったのです。それはあたかも「虐殺だけが独立していった」というような異常な怖さでした。
キリングフィールドはあくまで米国の娯楽映画で、その内容が正しいとか正しくないとかは別にしても、実際に映画に出演しているカンボジア人の人(助演ですが、主演みたいなもの)が、ポル・ポト政権下の強制労働現場にいたということは大変に重要なことです。
Wikipedia はにはこのようにあります。
なので、映画全体はともかく、とりあえずは、強制労働の現場はある程度事実だというように考えてもいい部分があるのです。
では、この映画の描写がある程度本当に近いものだとして、上に書いた「異常な怖さ」というものが何かというと、それは「子どもたちへの教育の影響はこんなに大きい」ということを知ることでした。
まず、ポルポト政権下では国民はすべて農村で共同生活をするのですが、政権政党である赤いクメールもまた、現在の様々な政党と同じように、地方ごとに組織をもっています。下部組織は数十人~数百人程度の小さなものだと思います。それを数人から数十人で管理する。
それはいいのですが、「基本的に子どもも管理に加わる」というシステムを構築していきます。というより、
「(余計な固定観念がない)子どもこそが革命の担い手である」
というようにしていったようなのです。
子どもたちは5、6歳頃になると徹底した教育を受けます。
こういう教育です。
・親と子どもの関係はくだらないので、親は信用するな
(信用できない場合は親を殺せ)
・他人はすべて信用できない
(疑わしい者は殺せ)
というのが教育の柱となっていて、子どもたちは、この「教育」を見につけていったようです。
下は映画「キリング・フィールド」の教育のシーンです。
下のふたつは赤いクメール政権下では、「どちらも正しい解答」となります。

▲ 夫婦関係に「×」を描く子ども。「必要がない」のではなく、「あってはいけない」関係です。

▲ 親子と子どもの間でつながれている「手」を消す子ども。これもこの教育では「あってはいけない」関係です。私はこの「親子間の絆を、目に見える方法で消す(チョークの跡を消す)方法」で教育を行ったポルポト派の凄みを感じます。
そして、この後、この解答に盛大な拍手を送る他の生徒たちの姿が映ります。年齢としては、どう見ても幼稚園児~小学校低学年程度のクラス。ちなみに、「子ども」であることが重要で、役割に性差はありません。男の子も女の子も同じです。
もちろん、これは映画のシーンですが、大体このような教育が全土でが実際に行われていたと思われます。
5、6歳からこの教育が始まれば、確かにすぐに子どもは「変わっていく」でしょう。
「なかなか変わることのできない大人」を尻目に「子どもが親の世代を乗り越えた革命戦士」となっていく。
この子たちは、もはや親でも友達でもすぐに殺せるようになっていきます。
殺すというと、何だか銃とかナイフとか物々しい感じがしますが、そういう高価な武器より、当時のカンボジアでもっとも一般的だったのが、
・頭にビニールをかぶせて田んぼに蹴っ飛ばして落とす(窒息)
・座らせて、首の後ろを鉄の棒で殴り倒す(頸椎損傷)
というものが行われていて、「子どもたちが、中年の男を殺す」というような光景がどこでも見られていたようです。
「小学生くらいの子どもに大人の男性を殺すことができるのか」というと、これはマニュアルの問題で、数人の子どもたちのうちのひとりでも銃を構えていれば、大人でも抵抗できません。なので、銃はそれを殺人の道具にするのではなく、大人に命令するために持っていたようです。
子どもに銃を自由持たせるとどういうことになるかということは、1990年代にアフリカのシエオラレオネという国で起きていた内戦の時の様子を当時のテレビなどで見ていて、つくづく感じました。実は「子どもが殺戮の筆頭に立つ」ことは特に内戦などではそれほど珍しいことではないです。

▲ 1990年代中頃のシエオラレオネの首都フリータウン。自動小銃を撃ちまくる子ども。
これは人間性の善悪ではなく、「そうなる」ことと「そうならないこと」の間にあることが「教育にある」ということが比較的容易にわかることのようにも思います。

▲ これも映画「キリング・フィールド」の1シーンですが、労働チェックを行っているのは基本的に子どもたちで、これは、小学生くらいの女の子からチェックを受けている男性。この後、この男性は、この女の子と数人の子どもたちから顔にビニールをかぶせて殺されます。
ここに至って、当時のカンボジアには実際には中央集権的な機能があまり存在していなかったように感じます。あるいは、「自主的に虐殺だけが独立していった」という構図のようにさえ見えます。
この「自主的に虐殺が独立していく」という様子は、後のルワンダの虐殺などでも見られることで、どうしてそんなことになってしまうのかということを考えることは多かったです。
当時まだ20代のはじめだった私は軽いめまいを感じて、この頃から「人間ってなんなんだ?」と思うようになっていったといういきさつがあります。そういう意味では、「ポル・ポト」という名前は私にとっては、一種特別な響きがあり、ひどい悪夢でありながら、これを知らなければ、今に至ることも多分なかっただろうというものでもあります。
まあ、このことを書き出すと、キリがないのでやめますが、微熱の中、あのささやかな悪夢がまた蘇って、そして、それでも、自分はポルポトの悪夢に育てられてきたことを思い出すのです。
以上は「IN DEEP」よりタイは先日、
・「バンコクを死守せよ」: 全土の3分の1が災害地域となったタイで首都に迫る未曾有の大洪水
という記事で書きました通り、洪水被害が大変なんですが、それはそれとして、あまり西洋のメディアでは語られない「ちょっとした異変」が進行しています。
それは、「赤い村が増殖している」ということなんです。
どういうことかというと、タイの日本語ニュース newsclip.be から抜粋します。
「赤い村」 タイ東北で増殖中

タイ東北部でタクシン元首相支持と民主主義を掲げる「赤服の村」が増殖中だ。
タクシン派団体「反独裁民主戦線 UDD(通称「赤服」)」のバンコクでの大規模デモが武力鎮圧されてから約7カ月後の2010年12月15日、東北部ウドンタニ県で最初の「赤服の村」が誕生。
これまでに4000以上の村が「赤服の村」を宣言した。10月9日にはウドンタニ県で初の「赤服の郡」の設立式典が行われ、UDD幹部のジャトゥポン下院議員らがバンコクから駆けつけた。


タイ東北部でタクシン元首相支持と民主主義を掲げる「赤服の村」が増殖中だ。
タクシン派団体「反独裁民主戦線 UDD(通称「赤服」)」のバンコクでの大規模デモが武力鎮圧されてから約7カ月後の2010年12月15日、東北部ウドンタニ県で最初の「赤服の村」が誕生。
これまでに4000以上の村が「赤服の村」を宣言した。10月9日にはウドンタニ県で初の「赤服の郡」の設立式典が行われ、UDD幹部のジャトゥポン下院議員らがバンコクから駆けつけた。

昨年のタイの運動が「赤シャツ」と結びついていたこともあり、普通に読めば、そんなに違和感のない記事だと思うんですが、この世でもっとも反応する単語が「ポル・ポト」である私は、この「赤いものが増殖中」というフレーズには曖昧なショックを受けました。
今ではポル・ポトもその政権もわりと一般の世間からは忘れられていますし、忘れてしまうならそれでいいことでもあるのですが、簡単にいうと、その 1970年代に数百万人ともいわれる人々を虐殺した政治で知られるポルポト政権の名前こそが「クメール・ルージュ(赤いクメール)」なのです。
クメールというのは、アンコールワットなどを作ったクメール文明と、そのクメール人たちのことを差し、ルージュは「赤」です。
1970年代に「赤いクメール」がカンボジアの首都プノンペンを占領する時の写真や、あるいは映像や映画。
そこには、赤い旗と、首に赤いバンダナを巻いた多くの兵士たちが数多く集まり、現地で見ていれば、多分「街が赤くなった」かのように思えたのではないでしょうか。

▲ カラー写真がないですが、赤いクメールがプノンペンを占領した日。1975年。旗は赤。兵士は首に赤と白のチェックのバンダナを巻いています。
もちろん、今回のタイの「赤い村の増殖」とは何の関係もないことですが、「東南アジアと赤の増殖」というキーワードだけで反応してしまうほど赤いクメールの虐殺の日々はショックなものでした。
そのショックの源泉は数百万という数ではありません。
あるいは、方法や思想ともあまり関係ないです。
数百万の命の消失なんて歴史上ではそれほど異常なことではないです。
それ以上に、赤いクメールには、その前にも後にも人類の歴史上では見られなかった「特異性」があったと思っています。
それは「子どもが大人を管理する(殺すことも含む)」という方法です。
「教育」で生まれ変わった子どもたちのしたこと
ポルポト政権下でのいわゆる「虐殺の丘」というような比喩でも言われる大量殺戮は、今でも人数は確定的ではないですが、数万人~300万人くらいまでの非常に大ざっぱな数字が出されています。つまり、全然確定していません。
いくら戸籍制度などが確立されておらず、あるいは後処理も大ざっぱだったとはいえ、たかだか数年間での死者の数がどうしてこんなに把握されていないのか。
それはひとつには、Wikipedia にあるように、
「カンボジアでは1962年を最後に国勢調査が行われておらず、内戦時代には大量の死者および国内難民が発生しており1975年までの正確な人口動態がつかめていないため」
であることは事実でしょうが、実はもっと重要な点が、
・地方地方で、各自勝手に殺戮が行われていたため
ということが大きいように思います。
そして、もうひとつ、
・小さな子どもたちが大きく関与していたため
というようなこともありそうな気がします。
このあたり、1984年のアメリカ映画「キリング・フィールド」というカンボジア内戦を描いた映画があるのですが、私は、東京に出てきた頃に見て、かなりショックを受けて、つまり、私は学生時代に歴史の勉強などしたことがなかったし、雑誌や週刊誌やテレビニュースも全く見ることもなかったので、「ボル・ボトという人を知らなかった」のです。名前も知らない。何をやっている人かも知らない。
まして、クメール・ルージュなど聞いたこともない単語でした。
この映画を見た日以来、私はこの「ポルポト」という人物こそが私の人生の中で最初に目の前に現れた「巨大な何か」でした。
巨大な「悪」とかそういう単純な括りでは語れない宿痾。
しかしまあ、私的なことはともかく、その「キリング・フィールド」で描かれるポル・ポト政権の「虐殺」というのは、当時の私の考え方をはるかに越えたものだったのです。それはあたかも「虐殺だけが独立していった」というような異常な怖さでした。
キリングフィールドはあくまで米国の娯楽映画で、その内容が正しいとか正しくないとかは別にしても、実際に映画に出演しているカンボジア人の人(助演ですが、主演みたいなもの)が、ポル・ポト政権下の強制労働現場にいたということは大変に重要なことです。
Wikipedia はにはこのようにあります。
プランを演じたハイン・S・ニョールはカンボジア出身の医師で、実際に4年の間、クメール・ルージュの元で強制労働に就かされた経験を持つ
なので、映画全体はともかく、とりあえずは、強制労働の現場はある程度事実だというように考えてもいい部分があるのです。
では、この映画の描写がある程度本当に近いものだとして、上に書いた「異常な怖さ」というものが何かというと、それは「子どもたちへの教育の影響はこんなに大きい」ということを知ることでした。
まず、ポルポト政権下では国民はすべて農村で共同生活をするのですが、政権政党である赤いクメールもまた、現在の様々な政党と同じように、地方ごとに組織をもっています。下部組織は数十人~数百人程度の小さなものだと思います。それを数人から数十人で管理する。
それはいいのですが、「基本的に子どもも管理に加わる」というシステムを構築していきます。というより、
「(余計な固定観念がない)子どもこそが革命の担い手である」
というようにしていったようなのです。
子どもたちは5、6歳頃になると徹底した教育を受けます。
こういう教育です。
・親と子どもの関係はくだらないので、親は信用するな
(信用できない場合は親を殺せ)
・他人はすべて信用できない
(疑わしい者は殺せ)
というのが教育の柱となっていて、子どもたちは、この「教育」を見につけていったようです。
下は映画「キリング・フィールド」の教育のシーンです。
下のふたつは赤いクメール政権下では、「どちらも正しい解答」となります。

▲ 夫婦関係に「×」を描く子ども。「必要がない」のではなく、「あってはいけない」関係です。

▲ 親子と子どもの間でつながれている「手」を消す子ども。これもこの教育では「あってはいけない」関係です。私はこの「親子間の絆を、目に見える方法で消す(チョークの跡を消す)方法」で教育を行ったポルポト派の凄みを感じます。
そして、この後、この解答に盛大な拍手を送る他の生徒たちの姿が映ります。年齢としては、どう見ても幼稚園児~小学校低学年程度のクラス。ちなみに、「子ども」であることが重要で、役割に性差はありません。男の子も女の子も同じです。
もちろん、これは映画のシーンですが、大体このような教育が全土でが実際に行われていたと思われます。
5、6歳からこの教育が始まれば、確かにすぐに子どもは「変わっていく」でしょう。
「なかなか変わることのできない大人」を尻目に「子どもが親の世代を乗り越えた革命戦士」となっていく。
この子たちは、もはや親でも友達でもすぐに殺せるようになっていきます。
殺すというと、何だか銃とかナイフとか物々しい感じがしますが、そういう高価な武器より、当時のカンボジアでもっとも一般的だったのが、
・頭にビニールをかぶせて田んぼに蹴っ飛ばして落とす(窒息)
・座らせて、首の後ろを鉄の棒で殴り倒す(頸椎損傷)
というものが行われていて、「子どもたちが、中年の男を殺す」というような光景がどこでも見られていたようです。
「小学生くらいの子どもに大人の男性を殺すことができるのか」というと、これはマニュアルの問題で、数人の子どもたちのうちのひとりでも銃を構えていれば、大人でも抵抗できません。なので、銃はそれを殺人の道具にするのではなく、大人に命令するために持っていたようです。
子どもに銃を自由持たせるとどういうことになるかということは、1990年代にアフリカのシエオラレオネという国で起きていた内戦の時の様子を当時のテレビなどで見ていて、つくづく感じました。実は「子どもが殺戮の筆頭に立つ」ことは特に内戦などではそれほど珍しいことではないです。

▲ 1990年代中頃のシエオラレオネの首都フリータウン。自動小銃を撃ちまくる子ども。
これは人間性の善悪ではなく、「そうなる」ことと「そうならないこと」の間にあることが「教育にある」ということが比較的容易にわかることのようにも思います。

▲ これも映画「キリング・フィールド」の1シーンですが、労働チェックを行っているのは基本的に子どもたちで、これは、小学生くらいの女の子からチェックを受けている男性。この後、この男性は、この女の子と数人の子どもたちから顔にビニールをかぶせて殺されます。
ここに至って、当時のカンボジアには実際には中央集権的な機能があまり存在していなかったように感じます。あるいは、「自主的に虐殺だけが独立していった」という構図のようにさえ見えます。
この「自主的に虐殺が独立していく」という様子は、後のルワンダの虐殺などでも見られることで、どうしてそんなことになってしまうのかということを考えることは多かったです。
当時まだ20代のはじめだった私は軽いめまいを感じて、この頃から「人間ってなんなんだ?」と思うようになっていったといういきさつがあります。そういう意味では、「ポル・ポト」という名前は私にとっては、一種特別な響きがあり、ひどい悪夢でありながら、これを知らなければ、今に至ることも多分なかっただろうというものでもあります。
まあ、このことを書き出すと、キリがないのでやめますが、微熱の中、あのささやかな悪夢がまた蘇って、そして、それでも、自分はポルポトの悪夢に育てられてきたことを思い出すのです。
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