「両班」と「ビンタ」、南北を分けたもの!、:「朝鮮戦争」の光と陰
「両班」と「ビンタ」、南北を分けたもの!?:「朝鮮戦争」の光と陰
風雲急を告げてしまった、この日本。この世界。中でもますます緊張が高まるアジア世界にあっては、なおさらである。
最近、私がつくづく思うのは、アジアの平和と安定のためには、「朝鮮研究」がどうやら一番の決めてとなりそうだ、ということである。
「いったい朝鮮人とは何ものか?」、
「朝鮮の歴史とはどのようなものだったのか?」、
「韓国と北朝鮮の人間はどこから来たのか?」、
「朝鮮人とはどんな人種だったのか?」、
「はたして朝鮮戦争とはどんなものだったのか?」
こうしたことを理解しない限り、朝鮮半島の安全と平和、当然、多くの在日を抱える日本の平和と安全もあり得ないからである。
日本政府は、「朝鮮研究」の場を作り、本格的に「朝鮮人問題」を研究してもっと踏み込むべきだろうと思うのである。
そんな折、実に興味深い記事を見つけたので、ここにメモしておこう。”個人的に”「朝鮮研究」を重ねている、「ねずきち」氏のブログの「朝鮮戦争」である。実にすばらしい記事である。これを読めば、「朝鮮戦争とは何だったのか?」というものが、実によく理解できるだろう。記事はかなり長いので、ほんの一部だけここにメモし、あとはリンクのみにしておこう。
実はこの否認にはこれにはもうひとつの理由があります。
それが、後に韓国の初代大統領となる李承晩(イ・スンマン)です。李承晩は明治8(1875)年生まれの朝鮮の独立運動家です。
生家は、李氏朝鮮の初代王である太宗の長男で世宗の兄である譲寧大君の末裔とされていますから、要するに両班(りゃんばん、朝鮮の貴族)の家にあたります。李氏朝鮮の時代というのは、人口でいったらほんの一握りしかいない朝鮮貴族の両班が、民衆に対して絶対的権勢を振るった時代ですから、彼らにしてみれば日本によって民衆に力を与えられるのは憎くて仕方がない。
日韓併合によって朝鮮半島が日本統治になると、李承晩は上海に渡り、そこで「大韓民国臨時政府」を樹立して、勝手に初代大統領を名乗っています。
これが大正8(1919)年のことです。さすがにことのときは、日本も怒り、憲兵隊が李承晩を逮捕した。
日本はアジアの独立、アジアの欧米による植民地支配からの脱却、そして人種平等を目指して戦っていたのです。
人種の平等というのは、人間の平等の精神でもあります。
どんな人でも、努力をすれば、相応の地位も名誉も与えられる。
単に権威の上にあぐらをかくような存在は、否定される精神でもあります。これに対し、李承晩が抱いていた思想は、あくまで朝鮮半島は両班のものであるという思想です。
朝鮮半島の人も富も、すべては朝鮮人の両班のものでなければならない。これは、日本の大東亜共栄の思想とは全く異なるものです。
日本の憲兵は、李承晩に対し、理を諭し、情をもって接するのだけれど、李承晩は火病を起こして翻意しない。
あまりのことに腹を立てた憲兵が、その李承晩に平手打ちをしたのだそうです。
このたった一回の平手打ちが、実はその後の韓国と日本の関係を決定づけた。李承晩は、実は太宗の長男の系譜とはいっても、16代目にすぎません。
家は簡単に言ったら、没落貴族でしかない。
けれど彼にとっての誇りというのは、自分が両班である、というその一点に集約されている。
だから、人から平手打ちなんてもらったことのない李承晩は、生涯にわたって、その平手打ちを逆恨みし続けたのです。当時は、日本人の間では、平手打ちなんてのはあたりまえの習慣です。
平手で相手のホッペタを、ピシャリと叩くのだけれど、平手打ちというのは、打たれた側は痛みはあっても怪我はしません。そして打った側も、手のひらが痛い。
打つ側の手の平の痛みは、打つ人の心の痛みでもあります。
その心を素直に感じることで、打たれた側も反省をする。
日本ではあたりまえの、そうした習慣が、朝鮮人の李承晩にはまったく通じなかったどころか、彼は生涯それを個人的怨恨として逆恨みし続けたのです。
なるほど李氏朝鮮の時代、朝鮮貴族の両班たちにとっては、まさに半島は天国だったかもしれません。なにせ一般国民には私有財産すら認めず、女性には名も与えず、両方の乳をすぐに露出させれる服を着ることを強制し、女は犯し放題、財産やカネも奪い放題の特権階級を作っていたのですから。
の朝鮮貴族のことである。その末裔であるということだけを誇りにして、「目先の損得にこだわり、将来の大損をこく」ということをしでかしたのが、李承晩(イ・スンマン)であった。
この記事によれば、南の李承晩(イ・スンマン)と北の金日成(キム・イルヨン)の非常に似た気質の2人が現われたことが、韓国と北朝鮮に分断する歴史の直接の不幸な原因であったことが分かる。日韓併合が日本の敗戦で終わっても、曲がりなりにも、まだ「統一朝鮮」がそこに残ったのだが、それがこの2人の支配欲と猜疑心や小心のために、祖国統一は叶わぬ夢物語へと変化してしまったわけである。
しかしながら、その一番のきっかけ、決めてのとなったものが、日本軍の兵士から食らった、たった一発の「ビンタ(平手打ち)」だったとすれば、これこそまさに「文化の差」、あるいは「文化摩擦」というものだろう。
一説では、日本陸軍に「ビンタ」が伝来したのは、「坂の上の雲」で描かれている、秋山好古の時代にフランス陸軍が、植民地支配の際に現地人の兵隊を支配するために「ビンタ」を食らわしていたのを日本陸軍が真似て(パクって)日本へ伝来したというらしい。しかしむち打ちや「グー」のパンチよりはけがもなく、教訓的である。
その「フランス陸軍」の習慣が、戦後の日韓関係の原因になったかもしれないのである。実に興味深い歴史である。同時に、ローカルな文化というものの恐ろしさというものをかいま見ることが出来る。今現在の、朝鮮人の日本人蔑視や「反日」教育の一端が、この「ビンタ」から来たかもしれないからである。なにせ、初代韓国大統領になってしまったのである。
一方、日本陸軍では、「ビンタ」など「愛の鞭」でしかなかった(日本人はとても素敵だった)。ビンタを食らったら、「ありがとうございました」と逆にお礼までいうという文化である。この名残が、アントニオ猪木の「ビンタ」である。アントニオ猪木が一般人のほっぺたを「だー」といってビンタすると、その人は「ありがとうございました」と言って大喜びするのである。「喝〜〜!」の一種に過ぎないのである。
ところが、朝鮮でわがままし放題の独裁的文化で育った「両班」貴族は、他人様から殴られるどころか、ビンタされたこともなく、過保護に育てられたわけである。そういう人物が上につくとどうなるか? 日本でもまさに万葉時代のお公家さんとはまさにそのような連中だった。これが日本を大混乱に陥らせたのがまさに日本史だった。これとまったく同じことが世界史でも起きたということである。それが「朝鮮戦争」であったのである。
なぜ「朝鮮研究」が大事か? という意味がここから少し彷彿されるだろう。
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