「大本神諭」に見る世の終りのシナリオーその②
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出口王仁三郎の「霊界からの警告」
以下は「2012年のカルマの法則」より 第1章でご紹介した「大本神諭」は、いま話題の「日月神示」と同じ霊系統から降ろされた神示だと思われますが、その中には「世の終わりのシナリオ」が、人民に対する警告として繰り返し、繰り返し述べられています。「艮(うしとら)の金神」から神示を受け取る霊媒役に選ばれた出口ナオは、大本という名の宗教団体を興し、その開祖となります。その後、ナオの後継者となった出口王仁三郎という霊能力豊かな人物の手によって、大本は一大宗教団体へと成長していくのです。 ここでは、明治以降のわが国の心霊研究に多大の影響を及ぼした大本についても触れておきたいと思います。以下は、出口ナオや出口王仁三郎の予言の内容を精力的に分析した『出口王仁三郎の霊界からの警告』(武田崇元・著/光文社文庫)からの引用です。 大予言者・出口王仁三郎は、明治のはじめ霧深い丹波の国(現在の京都府亀岡市)に生まれおちた。彼は、日露戦争にはじまり、第一次世界大戦、関東大震災、満州事変、太平洋戦争、原子爆弾の投下から敗戦にいたる近代日本の運命を的確に予言し、そのすべてを百パーセント的中させたうえ、今日の高度情報化社会すらを的確に予告し、さらに人類の終末と再生に対する謎めいた黙示を投げかけて、敗戦後まもなくその数奇な生涯を終えた――。 出口ナオ――彼女は天保7(1837)年12月16日、丹波国福知山紺屋町(現京都府福知山市)の大工、桐村五郎佐三郎の長女として生まれた。ナオが生まれるころは貧困のどん底にあった。おまけに天保の飢饉である。 彼女の苦しい人生ははじまった。酒乱の父に簀巻きにされて雪の中にほうりだされたり、10歳からの住み込み奉公‥‥。 17歳のとき、ナオは綾部の叔母出口ユリの養女となり、19歳で婿をとる。結婚してもナオの不幸はつづく。夫政五郎は、人のよい腕利きの大工であったが、むら気なうえに大酒飲みの浪費家で、幕末、出口家はつぎつぎに田畑、家屋敷を手ばなし、没落の一途をたどった。 おまけに、夫はアル中の中風になって回復の見込みもなく、そのうえ大工の見習い中であった長男の竹蔵は、ノミで喉を突いて自殺未遂をはかったあげく行方不明になる。悲惨な重病人をかかえ、3人の幼児を育てるため、ナオはぼろ買い、紙屑拾いにまでなった。 このようなナオの周辺に、ある予兆がさしたのは明治23年のことである。この年の9月、人力車夫、福島虎之助のもとに嫁いでいた三女のヒサは、産後の肥立ちが悪く、逆上してあばれだし、座敷牢に入れられ、神の幻影を見る。つづいて翌年の旧12月、こんどはばくち打ちの大槻鹿蔵に嫁いでいた長女ヨネが発狂する。ヨネの狂乱はとくにはげしく、大槻家の前には見物人が集まるほどであった。 ■三千世界の立て替え立て直し 明けて明治25(1892)年の元旦の夜、ナオはあばら屋の壁ぎわにすわって、発狂した長女のことや行方不明の長男のことを思い浮かべ、これまでの辛い人生をふりかえっていた。夢かうつつか、からだがふんわりと軽くなり、天に昇るような気分になってきた。気がつくと白い衣を着た仙人のような人が眼前に立っていた。 そのような体験がしばらくつづいたある夜、ナオは腹の中にずしんと大きな力が宿るのを感じた。しかも、その力は腹の底からぐんぐんと上がってきて、声になって出ようとする。ナオは歯を食いしばって声を出すまいとするが、声はそれをこじあけて出ようとする。ついに耐えきれなくなって口をあけると、ナオは自分でも驚くほどの大音声を張り上げていた。 「われは、艮(うしとら)の金神である。今の世は、金輪際の悪人の世。世を立て替え、善の世に直すぞよ‥‥」 自分の口から出る声は、力強く、まるで男のような声であり、すでに55歳のナオにとっては、耐え難い苦しみだった。 「やめてくだされ。そんな偉い神サマが、なんでわしのような屑拾いなどにお憑かりなさるのか‥‥」 すると神はこういう。 「この世の代わり目にお役に立てる身魂であるから、わざと根底に落として苦労ばかりさせてあろうがな」 さらにナオが、何のために降臨したのか再び問うと、 「三千世界一度にひらく梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。この神でなければ、世の立て替えはでけぬ。三千世界の大掃除大洗濯をいたすのじゃ。三千世界ひとつに丸めて万劫末代つづく神国の世にいたすぞよ」 とこたえた。 こうしてナオの神憑かりははじまった。そのうち、この「艮の金神」と名のる神は、ナオの口をかりて、予言や警告めいたことを口走るようになる。 ■日清戦争を完全に予言 明治26(1893)年夏のことである。 「来年春から、唐(から)と日本の戦いがあるぞよ。この戦は勝ち戦。神が陰から経綸いたしてあるぞよ。神が表にあらわれて手柄立てさすぞよ。露国からはじまりて、もうひと戦あるぞよ。あとは世界のおお戦で、これからだんだんわかりてくるぞよ」 文字も読めず、まして政治や世界情勢のことなどとは全く無縁の彼女が、どうしてこんなことを言うのか、だれにも理解できなかった。 (中略) 戦争が終わると、神はナオに次のように告げた。 「この戦いがおさまりたのではない。この戦いをひきつづけにいたしたら、日本の国はつぶれてしまうから、ちょっと休みにいたしたのでありたぞよ。こんどは露国からはじまりて、おお戦があると申してありたが、出口の口と手で知らしてあること、みな出てくるぞよ」 実際、軍事的にはさらに兵を進め、北京を攻略することもできたかもしれない。しかし、そうなると講和の相手をなくし、戦争は無制限デスマッチの泥沼になる。さらに、中国にさまざまな利権をもつ列強が乗り出してきて、収拾のつかない事態になり、まだ産業基盤もない日本は、早くも亡国の危機に立たされたであろう。 民間では、福沢諭吉のような人物でさえ、「まだ講和の時期ではない。北京を占領して城下の誓いをさせるまで戦いをやめるな」と無責任なことを言っていた。 これに比べて、文字の読めない丹波の老婆に憑かった神は、正しく情勢を把握していたし、さらに日清戦争の始まる前から、それが終わると、いずれロシアと一戦を交えねばならないことを予言し、警告を繰り返すのであった。 そして、ちょうどこの日清戦争と日露戦争のはざまで、王仁三郎はナオに出会ったのである。 ■日露戦争の大予言 「大本」入りの翌明治34年の春、王仁三郎は大本の信者数名を連れて、静岡の長沢雄楯(かつたて)のもとを訪れた。長沢は王仁三郎を神主にして、神おろしを行ない、日露関係の将来に関する神意をうかがうことにした。 すでに、次の戦争はロシアからであることは、ナオの「お筆先」に出ていたが、そのはっきりとした時期は不明だった。 2人は手を洗い、口をすすいで、月見里神社の社前で対座した。王仁三郎の前には、天上からつるした鎮魂石がある。厳粛の気がみなぎるうちに、長沢の吹く石笛の音。王仁三郎のからだがぴーんと反り返る。 まったくの神憑かり状態になった王仁三郎と、審査者(さにわ)長沢の問答が始まった。 「日露の戦いはございますか」 「あるぞよ」 「今年でございましょうか」 「今年の8月‥‥それがのびたら明治37年の2月になる。36年の7月ごろから戦の機運が濃くなるが、開戦は37年の2月じゃ」 「日本はこの戦いに勝てましょうか」 「勝つ。勝つが、多くのつわものの命が失われる」 「平和はいつきましょうや」 「2年目の9月までにはくる」 「戦に勝って得られますものは?」 「シナの海岸のごく一部、朝鮮の全部、樺太の南半分を日本が受ける」 長沢雄楯の回想によれば、この問答は約2時間におよび、ロシアの作戦計画から外交談判にいたるまで、微にいり細にわたっていたという。 ■「世界に騒がしきことがはじまるぞよ」 「いますぐヨーロッパで大戦争が起こる」 大正3(1914)年5月、王仁三郎は、信者たちのいる公開の席上で、静かにこう予言した。 6月29日、オーストリアの皇太子夫妻が、ボスニアの首都サラエボで、セルビアの一青年に暗殺された。 暗殺事件から1カ月後の8月には、第1次世界大戦が勃発。不幸にして王仁三郎の予言は、またしても的中することになるのである。 「艮の金神が現れると、世界に騒がしきことが始まるぞよ」(お筆先) 日本は日清戦争を体験し、そのわずか10年後に日露戦争を体験した。そして、すべてが予言どおり展開してきた。だが王仁三郎は、そのさきもまたそのさきも知っていたのである。 つまり、日清戦争も日露戦争も、「水晶の世にいたすまでに、日本にも外国にも、はげしき事件わいてきて、いったんは、世界中の学者も守護神も手のつけようがなきような事態が出来(しゅったい)いたす」(お筆先)、そのほんの初発の事件にすぎなかったのである。 ―― 『出口王仁三郎の霊界からの警告』(武田崇元・著/光文社文庫) 「大本が潰れれば日本も潰れる」 次にご紹介しますのは、大本が2回にわたって弾圧されることになった経過を述べた文章です。どちらも時の政府が警察を使ってやったことですが、特に2度目の弾圧の凄まじさには目を見張るものがあります。次の2点に留意しながら読んでいただきたいと思います。 (1) 大本の開祖ナオに降ろされた予言には、「大本で起こった出来事はやがて日本で 起こり、それがまた世界に移写される」と宣言されています。つまり、この終末に世 界で(地球で)起こることの雛型が、まず大本で起こっているということです。 ですから、「大本で起こったことに注目すれば、これから日本や世界で起こることが わかる」と言えます。 (2) 出口王仁三郎は、官憲による弾圧を受けて慌てたり、恐れおおのいたりした気配 は全く見られません。それどころか、2度目の弾圧はむしろ王仁三郎が、ある種の 「型」を演じるために誘導した形跡が見られるのです。 それでは、官憲による2度におよぶ大本弾圧の様子を見ていきたいと思います。まさに異常としか言いようのない内容となっています。 ■「〈大本〉にはオニのような妖術使いがいるそうだ」 『伊都能売神諭』にある“ドエライ悪魔”は間もなくやってきた。大正10年2月12日、京都府下の各署から選抜された約130名の特別武装精鋭警官隊が、まったく行く先も目的さえも告げられずに、午前1時という深夜にかり集められた。 「どうやら大本の巣窟に行くらしい」 「大本にはすごい妖術使いがいるそうだ」 「いや、そればかりではなく、信者と称する武装部隊が、竹槍10万本と手榴弾をそなえて蜂起の合図を待っているそうだ」 彼らの顔面は緊張のあまりこわばり、武器を持つ手に力が入っていた。 なにしろ、大本教の出口王仁三郎とは、その名のごとく「オニ」のような人物であり、奇怪な術を弄して人々の心まで変え、天皇の統治権を侵害し、日本の支配者たらんとしている逆賊の親玉、と聞かされていたからだ。 午前8時、綾部に着いた警官隊は、地元部隊と合流、大本本部を包囲するとともに、町内の幹部宅を襲い、町の要所要所を完全封鎖した。実質的には戒厳令なみの厳重警戒下で、警官隊は本部になだれ込んだ。 当日、王仁三郎は不在で、役職員も少数が出勤しているだけだった。妻スミを筆頭に役員・信徒たちは、わけもわからないままに、一部屋に集められ、不敬罪などの容疑により捜索する旨を告げられた。 そして、王仁三郎は同日朝、大阪梅田の「大正日々新聞社」で仕事中のところを、捜査隊の藤原刑事に拘引され、京都に護送され、京都未決監獄に収容された。 いわゆる第一次大本事件の勃発であった。 ■「瑞能神歌」の神秘的予言 検挙から3カ月後の5月になると、取り調べは一段落した。そして、差し止めになっていた大本事件関係の記事が掲載禁止解除になった。 全国の新聞は罵詈雑言を書き連ねた。 いくらなんでも法治国家である以上、潜在的な恐怖を理由に処断することはできない。そこで、「お筆先」のなかに不敬な文句があることや、『瑞能神歌』のなかの日米戦争や日本の滅亡などの予言の言葉が、社会の安寧秩序を乱す、ということを理由に検挙に踏み切ることになった。 当局としては、武器でも大量に発見できれば、内乱罪にもちこんで一挙にけりをつけたいところであったが、何も出てこなかった。 これでは検挙のときのものものしさがあまりにも大げさであり、当局としては恰好がつかない。そこで、ジャーナリズムを操作して無責任な記事を書かせた。これで王仁三郎と大本の評判を落とせば、とにかく一定の目的を果たすことはできるという読みである。 そもそも当時のジャーナリズムは、王仁三郎が「大正日々新聞」を買収したこと自体、気に入らなかったので、ここぞとばかり中傷しまくった。 大正10年6月17日、仮釈放の処置により、王仁三郎は126日の監獄生活に別れを告げて、綾部に戻った。第一審では、王仁三郎は不敬罪で懲役5年という判決であった。 もちろん、王仁三郎は直ちに控訴する。結局、裁判は大審院までいくが、大正天皇の崩御による大赦令で免訴となり、一件落着となる。 しかし、これは一時休戦にすぎなかった。 ■疑似軍隊――昭和神聖会の設立 昭和7(1932)年、王仁三郎は「昭和神聖会」という組織をつくりあげた。そして、青年信者たちにカーキ色の制服、制帽を着せて、さらに団体行動の訓練まで行なう。明らかに疑似軍隊に見えた。 王仁三郎は大正8年に、故郷の亀岡城跡を買収し、徐々にその整備を進めていたが、そこを天恩郷と命名し、活動の本拠地とした。こうして、このころには大本は綾部、亀岡に広大な聖地をかまえ、さらに全国に20数カ所の別院と30数カ所の分院を有し、関連団体として、人類愛善会、大日本武道宣揚会、エスペラント普及会などの、活発な実践団体を擁する大勢力となり、また金沢の「北国新聞」をはじめ、舞鶴の「丹州時報」、東京の「東京毎夕新聞」などの一般紙も経営していた。 さらに、青年部のなかにシンフォニー・オーケストラ部、ブラスバンド部、声楽部などを設立、「昭和青年行進歌」など軍歌そっくりなものをつぎつぎに作詞作曲した。これらはすべてレコード化され、全国にばらまかれた。 人々は、軍服まがいの制服を着て、サーベルを下げ、団員を閲兵する王仁三郎を見て、ムッソリーニのローマ進軍さえ連想した。 ■政府による二度目の錯乱した大弾圧 政府首脳は王仁三郎の行動に頭を痛めていた。不気味な予言、右翼急進主義者との合体、一部の急進化した軍人にまでおよぶ巧みな人脈配置、と同時に圧倒的な大衆動員による示威行動‥‥これらを背景に、いったい彼は何を要求しようというのだろう。 こうして、政府はふたたびこの予言者の弾圧を決意した。約1年におよぶ秘密の準備をへて、第二次弾圧の鉄槌が下された。 この弾圧は、大正10年の弾圧をはるかに上回る壮絶なものだった。今度こそは徹底的にやって、王仁三郎を死刑か無期懲役に追い込むつもりだった。 昭和10年12月8日午前零時、非常呼集を受けた完全武装警官隊500名が、京都御所ほか市内20余カ所に集結。大型バス18台および乗用車4台に分乗を命ぜられた。バスは窓の幌をおろし、闇夜の山陰街道をまっしぐらに走った。 午前4時、亀岡の天恩郷を完全包囲。総本部のある綾部の町もすでにあらゆる道は遮断され、電話線も切断。ふたたび戒厳令さながらの警戒態勢下に置かれた。 こうして、「地上から大本の痕跡を抹殺せよ」という大号令のもとに、時の岡田内閣は、ついに大本大弾圧を決行した。 王仁三郎は、この朝を松江の島根別院で迎えた。午前4時、島根県下の警官総数700名の半分近い280名の武装警官隊が、別院を包囲。王仁三郎ひとりを拘引した。そして、第一次弾圧のときと同じように、新聞に、大本が不敬な団体で、表では皇室中心主義をとなえ、裏に不敬の謀略をたくらむ国賊であった、などとあることないことをとりまぜて宣伝させた。 昭和11年3月13日、王仁三郎以下教団幹部61名が、治安維持法と不敬罪で起訴された。同時に内務省は治安警察法にもとづき、本部、昭和神聖会を含む大本関連8団体に結社禁止命令を出し、全施設の徹底的破壊を強行した。 広大な神苑は坪わずか20銭で強制売却。一切の神殿が破壊された。『霊界物語』を含むあらゆる経典類、王仁三郎の使用物や創作物の一切、書画、蔵書8万4千冊のすべてが焼却され、その火は1カ月の間くすぶり続けた。 この弾圧で、王仁三郎をはじめ大本関係者の検挙者は3千余名にものぼり、拘留中の拷問による死者数名が出た――。 王仁三郎みずからが設計した月宮殿は、大理石などの石材と鉄筋コンクリートで固めた要塞のような神殿であった。これを当局は3週間もかけてダイナマイト1500本を使い、ようやく爆破。全国に43もある王仁三郎の歌碑も逐一調査して爆破。出口家の墓碑や信者の納骨堂も破壊した。さらに当局は信徒の家族写真までチェックし、大本の神床・掛け軸、額などが写っている部分を切り取っている。破壊に次ぐ破壊。王仁三郎に関する一切合切のものを抹消せんがための常軌を逸した執念は凄まじいというほかない。 また、開祖ナオの墓を暴き、近くの共同墓地に移し、木の墓標を柩の腹部あたりに立てている。ここまでくると死者を冒涜するというより、まったくの子供じみた行為というほかはない。 ■「大本が潰れれば日本も潰れる」 王仁三郎は牢獄につながれた。王仁三郎にとって永い暗黒の時代が始まった。拷問で信者たちのなかに殉教者も出た。しかし、日本にとってもまた、長い暗い時代の始まりであった。 「大本は潰され、日本が潰れる」 この不気味な予言を、王仁三郎がつぶやくのを人々は聞いた。弾圧を強行した人々には負け犬の遠吠えにしか聞こえなかったが、昭和11年をターニング・ポイントとして、日本は破局への道をころがり始めたのである。 昭和12年、日華事変が勃発。中国との戦争は抜き差しならぬ泥沼へとはまりこむ。それでもまだ収拾の策はないではなかったが、愚かな選択をつぎつぎ繰り返す。遠大な太平洋戦略を引いて待ちかまえていたアメリカは、日本が泥沼の戦いに入ると見ると、さまざまな手段で資源ルートの破壊工作を始める。 そして、まもなく日本は資源問題で退路を断たれたあげく、日本海軍の暗号を解読済みのルーズベルトの陰謀にはめられ、真珠湾艦隊のなかへ“奇襲”をかけるハメとなるのである。 ―― 『出口王仁三郎の霊界からの警告』(武田崇元・著/光文社文庫) |
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