カルマの清算はどうすればできるのかーその④
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以下は「2012年のカルマの法則」より 自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい終末における生き方の処方箋とも言える新約聖書の中で、イエス・キリストが最も重要な戒め commandment としているのは「心 heart を尽くし、精神 soul を尽くし、思い mind を尽くして、あなたの神である主 the Lord を愛しなさい」ということでした。続いて、イエス・キリストがこれと同じくらい重要な戒めとして示したのが次の言葉です。 「第2もこれと同様です。『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛しなさい』。律法全体と預言者の教えとがこの2つの戒めに基づいて(depend on)います」(マタイによる福音書) キリスト教関係者の間で大変よく知られているこの戒律は、新約聖書の中では「主を愛せよ」と並んで最も重要な戒律とされているのです。 そこで問題となるのが、「では、隣人とはどんな人たちのことを指しているのか」ということになります。自分の家族や親、兄弟姉妹などであれば、自分を愛するように愛することもそれほど難しいことではないでしょう。 しかしながら、新約聖書の中の次の一文を読みますと、イエスの言う「隣人」とは、必ずしもそういう身近な人たちのことではないことがわかります。 敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためです。天の父は、悪い人の上にも良い人の上にも太陽をのぼらせ、正しい人にも正しくない人にも、雨を降らして下さるからです。あなたがたは自分を愛する人を愛したからとて、なんの報いがあるでしょうか。(中略)あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な人となりなさい。(マタイによる福音書) なんと「自分を愛するように愛しなさい」という「隣人」の中には「敵や迫害する者」も含まれているのです。多くの人はこの表現でイエスの教えにつまづくのではないでしょうか。なぜ自分を迫害するもののために祈らなければならないのか――。 実際にイエスは自らを十字架にかけようとする人たちのために、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカによる福音書)と神に祈りを捧げています。 イエスが人々にそのような心の持ち方を求める理由は、今日的表現をするなら「神様(天の父)と同じ波長になりなさい」ということです。「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な人となりなさい(そのように努力しなさい)」という表現がそれを表しています。 自分を迫害する者、あるいは自分の大切な存在(家族など)を迫害する者を憎みますと、そのことによって、自らも「憎む」という心の波長が身についてしまうことになります。つまり、「憎む」という種を蒔いてしまうことになるのです。 その種は「神の国」で何十倍にも何百倍にも大きく育ち、負のカルマとなってこの世界に還ってくることになります。そして、この世界で消化しきれなかったカルマが、世の終わりの時にまとめて清算させられることになるわけです。 憎しみや恨みの念は、神様とは正反対のサタンの波長です。そのような粗い波長を持つと、ますますそのような憎むべき(恨みに思う)出来事を身のまわりに引き寄せてくる、というのがカルマの法則でした。イエスはそのような神の国の法則がわかっているので、「敵」や「迫害する者」という極端な表現をつかって、人々にその重要な法則を守らせようとしたのでしょう。 神の国は、「与えた物が何倍にも拡大されて戻ってくる」という法則に支配されています。「愛」には「愛」が、「憎悪」には「憎悪」が、強調された形で戻ってくるということです。ですから、心の使い方が大変重要になるのです。 ということで、私が新約聖書の中からピックアップした「カルマの清算法」の要諦は「自分がしてほしくないことは他人にもしてはいけない」ということに尽きます。このことは、律法全体と預言者の教えのすべてがその法則に基づいているというほど重要なことなのです。そういう視点に沿って新約聖書を読んでいきますと、イエス・キリストの述べている内容が大変よくわかります。たとえば、次の言葉も同じ視点から述べられたものです。 もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるでしょう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないでしょう。(マタイによる福音書) ここでは、「他人の過ちを許さない人は、自分の過ちも許してもらえない」ということが、カルマの法則の一例として述べられています。以下、カルマの法則に則ったイエスの教えが続きます。 そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言いません。七たびを七十倍するまでしなさい。(マタイによる福音書) 自分に対して好ましくないことをした相手であっても、いかに徹底的に許してしまわなければいけないかということを、イエスは「7度を70倍するまで許しなさい」という表現で強調しています。要するに、この世で「許せない!」という対象をつくってはいけないということです。そのような心の癖は、神の国の入口の扉を閉ざし、結局は自らの不幸を招くことになるからです。 悪人に手向かってはいけません。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする人には、上着も与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。求めようとする人には与え、借りようとする人を断らないようにしなさい。(マタイの福音書) たいへん有名な「右の頬を打たれたら、左の頬をも打たせなさい」という言葉の意味は、これでご理解いただけたでしょうか。とにかく「人を恨むようなマイナスの念を持ってはいけない」ということを、イエスはさまざまな譬えを使って教えているのです。 神は人の髪の毛の1本まで数えている ここで「御国」「天」「地」という言葉の概念をもう一度整理しておきます。「御国」とは「神の国 the Kingdom of God」ということで、2012年に私たち人類が地球といっしょに次元上昇して行くことになっている世界のことです。新約聖書に限らず、「日月神示(ひふみ神示)」などのわが国の神示においても、この三次元の物質世界(=地)がスタートしたときから、次元上昇の時がくることは決まっていたと述べられています。 これに対して「天 heaven」とは一般的な言葉で言えば「霊界」のことを言っています。次元でいえば四次元ということです。霊界通信などを通じて、人は四次元の霊界(天)と三次元の物質世界(地 earth)を行ったり来たり(輪廻転生)しながら魂を磨いてきた、ということが判っています。その魂を磨く上でもっと大切な法則がカルマの法則なのです。私たちの日頃の心の持ち方、行ない、発する言葉(=身・口・意)は私たち自身の心の波長に影響を及ぼし、その波長に応じた境遇を、この現実世界(実は「うつし世」といって心の世界が反映された世界)においても霊界においても体験することになります。 心が地獄のような想念に満たされていれば、あの世(霊界)でもこの世でも地獄のような生活を体験することになるということです。 そのような私たちの「心の状態」がもれなく記録されていると言われているのが「神の国(御国)」です。「大本神諭」や「日月神示」では、その時代の人たちに理解できる言葉で「すべて帳面につけてある」という表現が使われています。新約聖書では、「(あなたがたの父は)あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」というイエスの言葉が同じことを述べているのです。 世の初めから決まっている終末の大峠を越えると、この「天(四次元)」と「地(三次元)」がまとめて「神の国」へと移行(次元上昇)することになります。ですから、もし「神の国」を次元で表現すれば「五次元以上の世界」ということになります。 それは一般的に考えられている「天国」とは違うのです。天国は四次元の世界における波長の繊細な高い階層ということです。その反対に波長の粗いのが地獄的世界で、これは四次元の低い階層ということになります。 これから迎える次元上昇のときには、この低い階層の住人は神の国の波長とは合わないため地獄的世界に取り残されることになるのです。聖書的表現をしますと、「地獄の釜のふた」が閉じられて、神の国へと移行した人間に干渉することができなくなるということです。新約聖書のヨハネの黙示録によれば、そのような状態が約1000年続くようで、その期間にちなんで「千年王国」と呼ばれています。 この千年王国は、「日月神示」の中で述べられている「半霊半物質の世界」のことだと思われます。次元上昇してから1000年後に、もう一度人類はふるいにかけられて、その後に真正の神の国(神界)に変わると言われています。 この地球ごと次元上昇したあとに現れる神の国は、文字どおり神様の住む世界ということで、次元上昇した人たちは「神様にも匹敵するような存在」になるわけです。そのことが「日月神示」では「新しい世界では人が神となる」と表現されています。 神の国は、「与えたものと同じものがすぐに返ってくる」というカルマの法則に支配された世界ですから、その世界に住むことができる住人は、この世にいるときから心のコントロール法を身につけておく必要があるということです。たとえば他人を憎むような気持ちを持つと、その憎しみの念はこの物質世界よりもはるかに強烈なパワーを持って憎しみの対象となる人を傷つけ、同時に自分をも傷つけることになるからです。 この三次元の世界で「子の刻参り」として知られる「わら人形に呪いの釘を打つ」のと同じレベルのことが、普通の状態ですぐに実現してしまうことになるということです。そのような憎悪の念が飛び交う世界はとても神の国と呼べるものではありません。 この終末期に次元上昇して「神の国」の住人になれるのは、この物質世界において必要な身魂磨きを済ませ、心の浄化を成し遂げた人に限定されると言われているのはそのためでしょう。 人はこうしてふるいにかけられる さて、この項の最後に、神の国に行ける人と行けない人は何によって分けられるのかということがよくわかる新約聖書の中の一文をご紹介しておきます。この文章を読んでいただくと、「隣人」とは「弱い立場の人」を総称していることが分かります。 終末の土壇場では、そういう弱い立場の人に慈悲の心を表すことができたかどうかを基準にして、人がふるいにかけられるということです。要するに、「髪の毛一本」の譬えのとおり、私たちの日頃の言動は一つ残らず神さまによって把握されているということでしょう。それがキリスト教の人たちの間で語られている「最期の審判」といわれるものなのです。 人の子が栄光の中にすべての御使いたちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくでしょう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼いが羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左におくでしょう。 そのとき、王は右にいる人々に言うでしょう。「わたしの父に祝福された人たちよ。さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに訪ねてきてくれたからです」。 そのとき、正しい者たちは答えて言うでしょう。「主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか」。 すると、王は答えて言うでしょう。「あなたがたによく言っておきます。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい人のひとりにしたことは、すなわち、わたしにしたことになるのです」。 それから、左にいる人々にも言うでしょう。「のろわれた人たちよ。わたしを離れて、悪魔とその使いたちのために用意されている永遠の火にはいってしまいなさい。あなたがたは、私が空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを訪ねてくれなかったからです」。 そのとき、かれらもまた答えて言うでしょう。「主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、私たちはお世話をしませんでしたか」。 そのとき、彼は答えて言うでしょう。「あなたがたによく言っておきます。これらの最も小さい人のひとりにしなかったことは、すなわち、わたしにしなかったことになるのです」。 そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい人は永遠の生命に入るでしょう。 (マタイによる福音書) |
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