3.11の喪失(2/9)
生島ヒロシが胸の奥にしまった「あの日の慟哭」
最後まで家族を思い、何も求めずに旅立った妹よ
――フリーアナウンサー・生島ヒロシ氏のケース
時折、考え込むような表情を見せる。
「身内では、亡くなったおふくろが1人では寂しいから、そばにいたかったのかなと、冗談交じりで話すこともありましたね」
私は、喜代美さんと連絡が取れなくなった直後のことを聞いた。当時、いくつかの新聞で生島さんは、「(生きていることを)信じている」と答えていた。
「私は、ポジティブ・シンカーですから……。携帯電話がつながらないところで、きっと生きていると思っていた。ただ、10日ほど経っても連絡が取れないと、もしや……厳しいのかなと考えるようになった」
その頃、旧知の間柄であるタレントの和田アキ子さんから電話があった。新聞報道などで喜代美さんのことを知り、心配したのだという。生島さんは、「あの電話で、妹の死を考え始めた」と低く、通る声で話す。その後、2人は震災孤児をはじめとした被災者を支援し始めた。
みんな、いいな……。
なぜうちにはいい知らせがこないの
「なんとか、妹も……発見されますように」
生島さんは、「あの頃は新聞などを読むと、焦る日々だった」と話を続けた。
「歌手の千昌夫さんの母(岩手県陸前高田市在住)が無事であったことや、手品師のマギー審司さん(気仙沼市出身)が、音信不通となっていた兄夫婦と連絡がとれたと報じられた。そのとき、『ああ、よかったな』と思った。その一方で、喜代美はどうなっているのか……と焦っていた」
3月下旬、石巻市(宮城県)で80歳の女性と16歳の孫が奇跡的に発見された。そのニュースを知ったとき、生島さんは「なんとか、妹も……発見されますように」と願った。
「みんな、いいな……。なぜ、うちにはいい知らせが来ないの、なぜ……と考え込みましたよ」
私には、生島さんはかつてのヒット番組『ザ・ベストテン』(TBS系)で司会を務めていたときの印象が強い。まだ小学生の頃だったが、ブラウン管のその姿からはテレビ全盛時代の華やかさを感じた。
以上は「DIAMOND ONLINE」より
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