3.11の喪失(4/9)
生島ヒロシが胸の奥にしまった「あの日の慟哭」
最後まで家族を思い、何も求めずに旅立った妹よ
――フリーアナウンサー・生島ヒロシ氏のケース
「不思議な思いになった。義理の姉は、『きっと、喜代美ちゃんが呼んでくれたのよ。みんなに会いたかったのだと思う』と言っていましたね」
私は聞きにくいものがあったが、遺体について尋ねた。生島さんの声がやや低くなる。
「そりゃあ、ショックですよね……。なかなか、あれが妹だとはわからなかった。だけど、親子ですね。姪っ子は、歯並びを見て『お母さんに間違いない』と言っていた……」
本当に欲がない子でしたよ
人として、女性としても素晴らしかった
喜代美さんの人柄などを聞くと、顔の表情がやや明るくなったように思えた。
「本当に欲がない人だったね……。控え目で、出しゃばらない。芯が強い。心が優しい。余計なことを言わない。兄の私が言うのもおかしいけれど、彼女は人間的にも、女性としても素晴らしい人でした」
「妹さんは生島さんをどう見ていたのか」と尋ねると、表情が崩れた。
「お兄ちゃんはめちゃくちゃだから……とよく言っていたな」
喜代美さんは、夫と母親と3人で気仙沼市に住んでいた。母は体の具合が悪いときは上京し、生島さんの自宅の近所で生活をしていた。だが、「東京に住むことは合わない」と気仙沼市の実家に戻った。
喜代美さんは、生島さんの妻(義理の姉)には、「母と一緒に生きることが私の運命」と話していたという。そんな喜代美さんを「あらゆることを受け入れてくれた人」と生島さんは語る。
「夫に連れ添い、子どもをきちんと育てて、自立をさせた。そして、母の面倒を最後までみた。愚痴をこぼすことなく、不満も言わない。NHKドラマの『おしん』みたいな人だった。本当に頭が下がりますよ」
母親が昨年2月に亡くなった後、生島さんは妹夫婦にハワイ旅行をプレゼントしようとした。母の面倒を長年に渡りみてくれたことへの感謝の思いがあった。だが、喜代美さんはそれを断った。
以上は「DIAMOND ONLINE」より
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