3.11の喪失(6/9)
このことを堀川氏に尋ねると、こう答えた。
「確かに胸部圧迫もあれば、窒息や脳挫傷もあった。凍死と思われるものはなかった。あのときは解剖する施設もなく、我々は、それらのいずれかに該当しているのかを詳細に特定することはできなかった。そこで死因を“溺死”と書いていた」
私が遺体について再度尋ねると、こう答えた。
「一見、苦しそうな表情だったが、比較的穏やかなお顔が多かったのが印象に残っている。あの津波の水圧などで瞬間的に亡くなられて、苦しむ時間がなかったのかもしれない。苦痛に歪んでいるお顔もあったが、医師が少し整えていた」
その後、4人は横浜市に戻った。堀川氏が、往復1600キロの道のりを1人で運転した。最後に、わずかにうつむいて答えた。
「大きな貢献はできなかったと思うが、この年になって初めて人様のお役に立てた仕事ができたような気がする……」
娘の遺体に「初めての化粧」を
日常会話のように話しかけて――。
その日の晩、堀川氏からこのようなメールが送られてきた。原文のままとする。
当時の事を思い出すと、涙が出てきますので、メールでお答えします。涙がボロボロ出て止まらなかったのは、私の娘と同じ年齢である14歳の女子中学生。ご遺体の上の紙には、年齢、性別、発見場所などが書かれてありました。
そして、警官が書いた『3月15日、ご両親により身元確認。ご両親により衣服が着せられています』というメモがありました。(袋に入っている他のご遺体は、すべて全裸の状態です)
しばらくしたら、その子のご両親がみえました。その時の会話が耳に残っています。家は津波にさらわれているらしく、どこからか、娘さんのために衣服を調達したと思われます。ご遺族の言葉は訛りがあったりして、多少、違うかもしれません。ご承知おき下さい。
お母様がお父様に話しかけます。『お父さん、もらってきたのはいいけど、これは夏服でしょう。この子、寒がりだから……』。そして、『ちょっと化粧してあげるね』と言っていました。娘さんのご遺体に口紅か何か付けてあげたのでしょうか。
以上は「DIAMOND ONLINE」より
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