3.11の喪失(7/9)
生島ヒロシが胸の奥にしまった「あの日の慟哭」
最後まで家族を思い、何も求めずに旅立った妹よ
――フリーアナウンサー・生島ヒロシ氏のケース
これは、防災学者や地震学者らが指摘してきたことでもある。被災地の消防に取材で確認をすると、「震災当日の住民の避難意識に問題があった」と答えることもある。特に、最前線にいた消防団員からよく聞く。
この「避難意識」は、今後の危機管理を考える上で外せない。ところが、メディアでは「被災者や遺族がかわいそう」というトーンの報道が多かった。「避難意識」に踏み込むと、死者にムチを打つことにつながりかねないと警戒したのだろう。
亡くなった人を悼むことは大切である。だが、2万人の死を無駄にしないためには、実態を押さえ、真相を明らかにすることが必要ではないか。そのプロセスでは、死者や被災者の問題を指摘することもあるかもしれない。それでも踏み込むべきと私は思う。建前や表層的なことだけを言っていても、同じことを繰り返すだけだ。
2.人は、「考えたこと」の中でしか行動できない
生島さんは「日頃から避難訓練はきちんとしないと、地震のとき、パニックになる」と述べる。これもまた、大切な指摘である。
震災直後から、「三陸地域は津波常襲地帯であり、防災訓練も頻繁に行なわれ、避難意識は高かった」と語る識者がメディアに現れた。これは感覚的な捉え方だと私は思う。
1990年代後半からこの地域に取材で何度も訪れたが、1960年のチリ地震の津波のことでさえ、住民の意識からは消えていた。「60年の地震のときは……」と投げかけると、当時40~50代の人(現在50~70代)の半数以上は、かすかな記憶として語るぐらいだった。1960年よりも前の地震のことを具体的に語る人は、私は見たことがない。
避難訓練で言えば、防災学者が震災以前から指摘していたように、住民の参加率は概して低かった。このあたりは、『津波災害――減災社会を築く』(河田恵昭著、岩波書店)を参照されたい。なお、この本が発売されたのは震災前である。河田氏は関西大学社会安全学部教授であり、政府の東日本大震災復興構想会議委員を務めた。
避難訓練に参加する人が少ないことは、震災後、私が被災地に行くと、消防団員や市役所の防災課、危機管理課の職員から頻繁に聞かされたことである。様々な理由があり、避難訓練に参加することができなかったのだろうが、今後はその参加率を高める仕掛けをつくることが必要になる。これから月日が経つと、記憶の風化は避けられない。だが、早く避難するという行動は文化として定着させたい。
以上は「DIAMOND ONLINE」より
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