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2012年7月11日 (水)

ナチス・ドイツの「優生政策」の実態ー5/9

■■■第5章:ナチスの医学者たちの戦後

■■多くの者たちが罪を問われることもなく「社会復帰」を果たした

戦後、裁判の場に引き出された当時の医者たちは口をそろえて、「我々は医学の進歩に貢献しただけだ」と主張し、反省の色も見せなかった。

そして、更に多くの医学者たちが罪を問われることもなく、東西ドイツの医療や教職や研究の第一線の場で活動し続けたのである。

●医師である小俣和一郎氏は、著書『精神医学とナチズム』(講談社)の中で、次のように述べている。


「T4作戦に直接関与した大学教授の大多数が、戦後何らの裁きを受けることもなく『社会復帰』を果たしている。」

「ナチ国家における『最初の安楽死』となったクナウアー事件で犠牲者の主治医を務め、障害児安楽死機関『帝国委員会』のメンバーの一人であったT4鑑定医拳ライプツィヒ大学小児科教授のヴェルナー・カーテル博士は、戦後いちはやく西側占領地域へ脱出した。1947年、彼は中部ドイツ・タウヌス山中にあるマモルスハイン州立障害児療養所で院長の地位を獲得した。1954年、カーテル博士はついにキール大学小児科教授に就任する。彼に対する起訴状は、1964年に至って最終的に取り下げられた。彼はそのまま平穏な老後生活を楽しみ、1980年、86歳の長寿を全うして他界している。

カーテル博士と同じく、障害児安楽死計画に参加し、鑑定医を務めたベルリン大学小児科教授のハンス・ハインツェ博士も戦後西側に脱出し、1954年、かつて入院患者の多くがさかんに移送されていたヴンストルフ州立精神病院で児童精神科の医長の座におさまった。彼に対する起訴状も、1966年に至って最終的に取り下げられた。ハインツェ博士は1983年、87歳でこの世を去っている。」

「T4作戦を自らの研究活動にも利用していたボン大学精神科教授兼T4鑑定医クルト・ポーリッシュ博士は、1948年に無罪判決を受け、1952年、再びボン大学教授に返り咲いた。1955年、彼は教授の地位についたまま世を去っている。

T4鑑定医兼ケーニヒスベルク大学教授のフリードリヒ・マウツ博士は、1953年から15年間の長きにわたってミュンスター大学精神科教授の地位にあった。彼はガウプ、クレッチュマーらと並んで、いわゆるテュービンゲン学派を代表する精神病理学者として広くその名を知られている。

同じくT4鑑定医兼ブレスラウ大学精神科教授のヴェルナー・ヴィリンガー博士も、1946年から13年間にわたってマールブルク大学で精神科教授を務めた。彼はその間に精神薄弱児の、ある全国的な支援団体の発起人の一人に名を連ねている。」

「T4作戦で、臨床上興味ある患者を安楽死施設に移送して、その脳を解剖していたユリウス・ドイセン博士は、戦後再建された西ドイツ連邦軍の顧問精神科医となり、戦争心理学の教科書を執筆している。

同様に、犠牲者の内分泌臓器を専門に取り出して研究していた当時の助手カール=フリードリヒ・ヴェントは、戦後もハイデルベルクにとどまり、ついに教授称号を獲得するまでに至った。

同じく助手だったフリードリヒ・シュミーダーも1980年、教授称号を授与されている。戦後シュミーダーは頭部外傷患者専門の私立病院を開いたが、この病院はのちにその分野で西ドイツ最大の医療機関に成長した。1973年には、彼に対して『連邦功労十字章』が贈られている。」

 

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『精神医学とナチズム』
小俣和一郎著(講談社)

「ホロコースト」の歴史の陰に隠れて
ほとんど知られることのなかったナチズム期の
種々の“犯罪”に対して歴史の照明が当てられ始めたのは、
戦後30年以上が経過した1980年代以降のことである。

この書が取り扱う主題は、精神医学史の中に、今も
根深い影を落としているナチズムと「精神医学」との
関わりの歴史である。このテーマに興味の
ある方は一読をオススメします。

 

●1987年に『灰色のバスがやってきた』(草思社)を書いたジャーナリスト、フランツ・ルツィウスも、次のように述べている。

「戦争の後、身体および精神障害者の安楽死にたずさわっていたおよそ350人の医師のうち、自らの関与を認めた者は皆無である。司法の手で責任を追及された者の数もごくわずかでしかない。

その極端な例が『ハイデ事件』である。大量殺人の罪で公開指名手配されていた、かつての『療養・養護施設帝国委員』ヴェルナー・ハイデ博士は、1945年以降、『ゾーヴァーダー博士』と名を変えて、1960年代にいたるまで、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の州保健会社の委託司法医として働いていた。相当数の教授仲間や高位の裁判官もそれを承知していた。」

 

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ヴェルナー・ハイデ博士

T4機関の医療部門責任者であり、
上級鑑定医兼ヴュルツブルク大学の
精神科教授(最終階級は親衛隊大佐)。

戦後、アメリカ軍の手に引き渡されたが、
逃走し、偽名を使いドイツ国内で精神科医
としての活動を続けた。戦時中、彼と顔なじみ
であった教授仲間たちは誰一人として彼の
潜伏を公にすることはなかった。

 


■■ヴィクトア・フォン・ワイツゼッカー博士の弁明

●ナチ時代、「T4作戦」に加担していたヴィクトア・フォン・ワイツゼッカー博士は、戦後(1947年)に著わした書物の中で、「全体のためには個人を犠牲にすべき」だと主張し、

安楽死も人体実験も、それが全体の利益にかなう限り認められるべきもの、と弁明していた。

参考までに、彼は悪びれる様子もなく、こう述べている。

「生命全体を救済するために、ヤケドを負った下肢だけを切断する場合があるのと同様に、民族全体を救うためには、一部の病んだ人間を抹殺することが必要な場合もある。どちらの場合も犠牲は正当であり、医療行為として必要性と意味を持つものといえるだろう。

このような考え方に賛成のできない者は、〈中略〉 人間性や人権にとらわれるあまり、医師の責務を〈個人〉の治療だけに限定して〈集団〉の治療をおろそかにする可能性すらある。」

 

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ヴィクトア・フォン・ワイツゼッカー博士

ドイツの神経内科医。独自の「哲学的」心身一元論
(医学的人間学)を提唱した学者として、戦後のドイツ
精神医学界で広くその名を知られ、その著作の一部は
日本でも紹介されている。1957年に死去した(71歳)。

「終戦40年記念演説」で有名な、第6代西独大統領の
リヒャルト・フォン・ワイツゼッカーは、彼の甥(おい)
であり、ワイツゼッカー家はドイツの名門だった。

以上は「amazon co.jp」より

 

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