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2012年12月 2日 (日)

平家滅亡の経済学、「平信長」は清盛の後継者?(3/5)

さらに越前には、他の国と決定的に異なる点がありました。

 それは、敦賀港という国際貿易港を有していたことです。

 当時、宋船や高麗船は博多港ではなく、敦賀港に着くこともありました。朝鮮半島南部から対馬海流の流れに乗れば、すぐに敦賀まで行くことができたからです。

 朝廷は、京の都に近い敦賀に外国船が来ることを嫌がっていましたが、都は日本の最大消費地でもありましたから、外国商人にとっては魅力的な港だったのです。
(2011年9月8日の記事、3ページ参照)

 そして、平家がその勢力をさらに拡大して瀬戸内海沿岸の各国を押さえた後も、清盛は変わらず越前の支配を重視していました。「平家の掲げる重商主義政策を進めるために、すべての貿易港を掌握する」という強い意思があったのでしょう。(*2)

 このように豊かな越前を故郷とする織田信長にとって、過去にこの地を統治していた平家はなじみの深い存在だったのではないでしょうか。

「平信長」を名乗り始めたタイミングは?

 しかし、それだけでは、信長が「平氏」を名乗る決定的な理由にはなりません。

 信長がそれまでの「藤原信長」ではなく、「平信長」と名乗り始めたタイミングから考えてみましょう。

 「平信長」の名前が初めて登場するのは、1571年(元亀2年)です(『越前大野郡石徹白村観音堂鰐口』)。

 このとき信長はすでに征夷大将軍・足利義昭を伴って上洛しており、近畿を中心に勢力を伸ばしているところでした。

 その前年の1570年には、近江の浅井家、越前の朝倉家による連合軍を「姉川の戦い」で破っています。

 そして、天下統一のために足利義昭と決別しようとし、朝倉家を倒す準備をしていたのが、まさに1571年という年です。

 時代背景から考えると、このタイミングで「平氏」を名乗った信長には、「源氏」である将軍家との決別が念頭にあったはずです。

 さらに、故郷・越前を朝倉家から取り戻す大義名分として、「平氏の子孫」であることを主張し始めたのではないでしょうか。

(*2)のちに越前が争乱の火種となります。発端は、越前の知行国主・平重盛が1179年に亡くなったことでした。豊かな越前の地を狙っていた後白河法皇は、重盛の嫡男・維盛に引き継がれたはずの領地を没収してしまいます。これに怒った清盛が軍事クーデターを決行して後白河法皇を幽閉(治承三年のクーデター)。さらに、これに反発して起きた「以仁王の乱」が全国の武士らの蜂起を呼び、ついに日本史上最初の全国規模の内乱「源平合戦(治承・寿永の内乱)」へと突入していくのです。
(2011年10月21日の記事、3ページ参照)
以上は「現代ビジネス」より

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