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2012年12月 8日 (土)

平家滅亡の経済学、清盛は謎の旅に出る(4/5)

 平家が九州を地盤とするうえで、どうしてもこの一大勢力・宇佐神宮と親交を保つ必要がありました。そこで清盛は、1166年に宇佐大宮司・宇佐公通(きんみち)に「大宰権少弐」という役職を与えています。

 そして、治承・寿永の内乱が勃発した1180年9月には、宇佐公通をさらに高い役職である「豊前守」に任命しています。あまりにいいポストを与えすぎて周囲からは「希代の例だ」と言われるほど、異例の人事でした。

 ---これで、だんだんと謎の答えが見えてきたでしょうか。

『経営者・平清盛の失敗 会計士が書いた歴史と経済の教科書』
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 清盛が宇佐神宮に参詣したのが、1180年の8月・10月です。ちょうどこの任命の時期と一致します。

 つまり、この長旅の意図は「宇佐公通とのつながりを強力にすること」であったのです。

 なお、清盛の死後、宇佐公通は都落ちした平家を助け、安徳天皇を匿うなどします。(*4)

平家の窮地を救った、清盛の"トップ営業"

 しかし、いくら宇佐神宮が重要であったとはいえ、各地で反乱が起きている最中に、平家のトップである清盛が本拠地・福原京を離れる必要があったのでしょうか?

 やはり、源頼朝ら関東の反乱軍を見くびっていたのでしょうか・・・?

 ここでカギとなるのは、宇佐を訪れた「陰暦の8月・10月」という時期です。

 以前にも触れましたが、1180年は地球規模の寒冷化の影響により、西日本では夏に干ばつ、秋に大凶作による飢饉がおきた年でした。(2011年11月25日の記事、5ページ参照)

 つまり、反乱が起きた各地に兵を送りたくても、兵糧に事欠く状況だったのです。富士川の戦いで大敗北した理由もそこにありました。(2011年12月2日の記事、2ページ参照)

(*4)宇佐公通は、平家滅亡後、領地を減らされたものの、地元のライバルであった緒方惟栄が源義経の側についたことで、源頼朝から宇佐神宮での地位を安堵され、宇佐大宮司のまま天寿を全うすることになります。
以上は「現代ビジネス」より

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