2009年5月7日 ● 責める人々
ヤフー知恵袋に、恐ろしい相談を見つけた。 「言うことを聞かない子供は殴った方がいいか?」という質問で、対して、ベストアンサーは「棒で殴るのがいい」というものだった。 驚いて、似たような質問や回答を調べてみると、信じられないような体罰肯定論が多いので呆れてしまった。これでは子供虐待殺人が激増するわけだ。世の中、いったいどうなってしまったんだ?
筆者の子供時代を振り返ってみると、父親は徴兵され生還率1割にも満たない大隊に放り込まれて命からがら帰還した人間で、軍隊時代、さんざん殴られていたせいか、どちらかといえば読書好きなインテリなのだが、子供の躾は口よりも手が早いのが普通だった。子供に対して何か気にくわないことがあると、まず怒鳴り、脅して、最期に殴って仕上げというものだった。
もう半世紀近い前のことだが、当時は父親だけでなく、とにかく人に対して不満があると、すぐに手を出す人が多かった。今のように理屈をこねる人間は嫌われていたから、殴ることの方が人間関係の自然な姿として受け入れられていたかもしれない。 家で父親から殴られ、学校で教師から殴られ、ヤクザの多い地域だったから同級生のいじめっ子からもさんざん殴られ、とにかく殴られて、いつも顔を腫らして、卑屈で悔しい思いばかりしていた記憶が残っている。 当時の体罰・懲罰教育が、自分の人生に役立ったか? といえば、そんなことは、まったくない。残っているのは不快な記憶、いじけた卑屈な思い、恐怖と憎しみの記憶だけなのだ。願わくば、来世は、もっと心温かい環境に生まれ直したい。
体罰によって、人はそれをどう受け止めるのか? 怖い不快な思い、恐怖体験だけは残る。しかし、体罰の理由となった行為の意味を考えさせ、人生や社会全体に有意義な効果をもたらすものでは決してなかった。それは、結果として、与える側の思い通りにいかない感情を、短絡的行動に結びつけただけの浅はかな行為にすぎぎないし、受け取る側も、「なんて理不尽な・・・」という悲痛、不快な思いしか残らない。
体罰・懲罰は、恐怖心によって人の意識、行動を一時的に縛る効果はあるかもしれないが、受けた側が、その恐怖心、卑屈なトラウマを克服しようとするならば、結果として逆効果しかもたらさない。 被害感情を克服しようとするならば、再び同じことを繰り返し、「今度は怖くないぞ、ざまー見ろ」と勝ち誇ってみたい気持ちになるわけだ。
殴られて無理強いされたことに対して、それを生涯遵守しようなどと思う人がいるか考えていただきたい。それは「やられて悔しい、辛い、怖い」という感情しか残さなないではないか? 「いつか仕返しをしてやる」という報復感情を芽生えさせることの方が多いのではないか? 世には、子供の頃、親から理不尽に殴られた思いが、親の老後の介護に、虐待をもたらすケースだって決して少なくない。親が「子のためを思って叱った」と言ったならば、長じて、子も「親のためを思って虐待した」という理屈になるわけだ。
誰か、「受けた体罰が人生に有益な結果をもたらしてくれた」などという人が一人でもいたなら教えてもらいたい。それは、与える側が感情をぶつけて自己満足するだけの愚かな行為であり、教育とは無縁の愚かな感情的暴走でしかない。 体罰を肯定する人たちは、客観的に見ているわけではなく、自分の愚かな行為を反省せずに正当化したいだけなのだ。
子供が過ちを犯したとき、親を困らせる行為をしたとき、それを体罰・懲罰で無理矢理抑えつけても、それは子供の心に恐怖心のトラウマとして刻みつけられ、一時的に同じことを繰り返さない効果がもたらされるかもしれない。 しかし結局、与罰者に対する不信感と憎しみが蓄積されるだけであり、人生を暗く辛いものに陥れ、生涯、心のわだかまりとなって残り、許すことなどできないのだ。
周囲にいる体罰・懲罰肯定論者を見てごらん。みんな暗く冷たい、いじけた顔をしているだろう。子供たちに好かれる顔がいるかい? 優しい温かい人相があるかい? 人の心は、優しく、温かい嬉しい気持ちの元では、解放されて素直に伸び伸びと育つものだ。そんな人は、普段から、とても嬉しそうな、楽しそうな顔をしているだろう。人は明るく温かい人間が好きなんだ。 体罰・懲罰が好きな人たちは、みんな冷たい苛酷な気持ちの持ち主ばかりだ。人相を見れば一目で分かる。それは、人が幸せになることを自分の喜びとすることができない人たちなのだ。仕事をしていても金儲けばかりに夢中になって、みんなで一緒に生きていることの意味、幸せを分かち合って生きていることの意味が理解できない人たちなのだ。
彼らは人を追いつめ、自分の利益に利用しようとすることしか考えない。だから、人の幸せには何の興味ももたず、体罰・懲罰を利用して、自分の利益だけを追求しようとする。 こんな人が上司、教師、親だったなら、どんなに叱られても、縮こまってやり過ごそうとするばかりで、本当の心はそれを拒絶しているわけだから、人生にいい結果など生むはずがない。 結局のところ、与罰者のその場の感情、憤懣を、弱い立場の被罰者にぶつける一方的なケンカでしかなく、決して問題を解決しようとする姿勢ではない。 それは人間の愚かさを代表する行為であって、理性を貶める結果だけをもたらすのであり、人は、その無意味さを理解できなければ人間的成長がありえないことを知るべきである。イソップ寓話「北風と太陽」のなかに、その本質が余すことなく伝えられているので、どうしても理解できない人は、もう一度読み返してみればよい。
船井幸雄は「長所進展法」のなかで、社員を人間的に成長させ、会社を発展させる一番の基本は、「人の短所を責めるのではなく長所を誉めて伸ばすことだ」と書いている。 人は誉められて、嬉しい気持ちにならなければ心を開かず、成長もしないと指摘している。長所進展法の逆は短所是正法だが、人の欠点を指摘して改善させようとする行為は、決して実を結ばない。それは心を閉ざさせることにしか役立たない。
温かい気持ちで相手の幸せと成長を願う気持ちが伝わるからこそ、相手の心が開いて、間違いを理解できるのだ。冷たい気持ちでの短所の指摘は、絶望感、閉塞感しか生まない。誰だって、そんな気持ちになりたくない。温かい気持ちを伝えれば、嬉しくなって心を開き、自分から短所を改善しようと思うようになる。それで相手に喜んでもらえると思うからだ。 人は自分を誉められることで心を開くのであり、嬉しくなるのだ。嬉しさのなかで自然に短所が是正されてゆくものだ。どうして懲罰を与えてまで無理矢理、是正させなければならないのか? 怒り、憤懣をぶつけるような無理な是正法は、心を閉ざさせ、小さくなってその場をやり過ごそうとはしても、断じて問題が解決することはない。それは、その場を凌ぐために仕方なしに迎合するものでしかなく、不快、不満を蓄積するものであり、やがて不信と否定、破壊しかもたらさないのである。
ひるがえって、こうした体罰・懲罰主義、短所是正法が、人間社会にどのような悪影響を与えているか、もう一度見直してみよう。これほどまでに、体罰・懲罰を支持する人が多い理由は何なのか? それは、日本社会そのものが根底に、体罰・懲罰で人を無理強いする誤った社会構造を持っているからである。
人は不完全で愚かなものであり、必ず失敗するものである。当然だ、人の知性などたかが知れている。人の肉体など、野生動物に比べれば脆弱なものだ。猿でさえ木から落ちることもあるのだ。毎日、これほどのストレスに虐げられて生きていれば、どんな強靱な人だって必ず過ちを犯し、失敗を重ねるものだ。 人間は、地位や権力を求める人たちに追いつめられて無辜でいられるほど強靱にできていない。誰だって、自分の生きている理由が分からなくなれば暴走してしまうものだ。
しかし、この社会は人の失敗を許さない。同じ弱い人間同士、支え合っていきていることが分かるなら、人を懲罰で追いつめる必要などない。人間の体や心の限界と可能性を知り、失敗の原因を突き止め、それを繰り返さないように失敗のメカニズムを教え、優しく見守ればよいだけのことだ。 長所進展法にあっては、人の長所を褒めて快適な気分にさせていれば、短所は自分で気づいて自然に是正されると指摘している。
しかし、現実の日本社会はそうではない。人の些細な過ちまで短所是正法を適用し、体罰・懲罰で人を追いつめて、制裁によって無理矢理矯正しようとするのが普通である。 例えば、学校や会社に遅刻すれば、懲罰が待っている。戒告、減給、そして解雇、退学だ。これは何のために行われるのか? 学校の秩序を乱さないためであり、会社の利益を損なわないためである。 だが、よく考えてみよう。人に対する温かい気持ちがあり、その人の誤りを正し、人生を楽しくさせる目的であれば、そんな懲罰など必要ないのだ。懲罰の真の目的は、過ちを犯した人を教育し、その人生に寄与するためでは決してない。それは学校や会社の権威、金儲けシステムを守るためなのである。
この社会における、あらゆる体罰・懲罰は、決して人を育てるためにあるのではなく、社会機能を維持するためにあるのであって、逆にいえば、この社会は体罰・懲罰の強制によって無理矢理守られている人間性を見失ったシステムで支えられているのである。
今や、日本国民の人生は、生まれ落ちて死ぬまで、他人の金儲けと国家によって利用されるだけの家畜なみの人生になってしまった。 働き過ぎて疲れても、体さえ休ませてもらえない。まして心は疲労で何がなんだか分からない状態だ。弱音を吐けば追いつめられ、追い出されるだけだ。病気になれば死ねといわれる。社会に反発すれば懲罰を受ける。 実は、このことこそが、冒頭に挙げたような、体罰肯定論者を多数産み出す原因になっている。こうした懲罰主義が子育てにまで浸透し、我が子を体罰で虐待する親が激増しているのが実情なのだ。我々の子供時代も体罰のひどい時代だった。それは父親たちが徴兵軍隊で体に染みこまされた関係だったからだ。しかし、当時は、軍隊以外で人の過ちを苛酷に追求し、懲罰で統制しようとする社会ではなかった。
それは、地方の村落が江戸時代以来の伝統的な共同体社会であり、老人たちの経験による知恵が生きていたからだ。みんな地域の老人を敬い、老人は若者たちに寛容の意味を教えた。 人は必ず過ちを犯す弱い存在であること。それを懲罰で制裁しても何の意味もなく、逆効果しかもたらさないこと。人を許し、寛容な社会にすることこそ、地域社会が温かい助け合いの人情社会になることを、身をもって教えてくれた人が生きていた。だが、今ではどうだろう? 家族は最小単位の核家族になった。そこには、みんなで知恵を分かち合い、苦労を分かち合い、助け合って支えってきた地域共同体は、もう存在しない。そこには孤独な夫婦がいるだけだ。彼らに人生の知恵を授けてくれる老人もいない。こうなれば、若者たちは、子供の躾をするにしても、対応できないでイライラした感情を子供にぶつけることしかできなくなる。 これでは、子供たちの気持ちを踏みにじる愚かな体罰・懲罰が蔓延するわけだ。 社会がうまく機能するためには、十分な経験を積んだ老人たちの助言や指導が不可欠なのである。社会は寛容さを取り戻さなければいけない。
以上は「東海アマのブログ」より
長所伸展法と短所是正法は上手く使い分ける必要がありそうです。良い事と悪い事を区別することです。先ず大人がこれを実践することが大事です。 以上 |
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