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2013年9月15日 (日)

縄文・弥生の歴史の常識の嘘、1、国際的であった日本列島

日本人の起源(縄文・弥生・大和)
275614 縄文・弥生の歴史の常識の嘘1~国際的であった日本列島~
 
彗星 ( 中年 ) 13/05/01 AM01 【印刷用へ

『古代天皇家と日本正史(著:中丸薫)』の「第5章 縄文・弥生の常識は完全にくつがえされている」よりご紹介します。縄文・弥生時代には、かなりのネットワークが発達していたようで特に海洋ネットワークは、日本に渡った海人族により構築されていったようです。かなり国際的だったようで、大陸や半島の文化が列島に持ち込まれていたようです。
-------------------------------転載
■対馬は日本の縮図でもある
 対馬は九州から見る限り、100キロ以上も離れた絶海の孤島である。対馬からは距離的には朝鮮半島の方がはるかに近く、釜山(ふざん)や巨折島(きょさいとう)まで40キロ程度しかない。遺跡は縄文の早期から晩期に及び、早い時期から大陸とは人的、物的な交流があり、赤米が栽培された。そして甲骨(こうこつ)占いも行なわれるなど、大陸文化と縄文、弥生、青銅の文化が混在し、ある意味で日本の縮図でもある。
 生物学的に興味深い対馬ヤマネコは、対馬だけに生息する。この野生動物は、脚が短く、非常に胴長で、丸い耳の形などに特徴があり、本来、東アジアに広範囲に生息していた。間氷期の温暖化によって大陸棚が水没して対馬が孤島になった後、この島に生息していたもの以外は絶滅した。最近は、自動車に轢かれる、飼い犬に襲われる、飼い猫から伝染病や寄生虫をうつされるなどして、数が激減し、国に保護されているものの、自然界では絶滅に向かいつつある。
 動物にせよ、人間の言語にせよ、島に古いものが残される例は少なくない。
 漢字では対馬と寒くが、「つLま」は音読でも、訓読でもない。この読み方は日本語ではなく、「2つの島」を意味する古代朝鮮語である。実際、釜山あたりから見ると、対馬は2つの島に見える。対馬の北端からはこの韓国第2の都市の街並みが望め、天気の良い日には、巨済島の農家の庭先の鶏まで見えるという。
 だが、この島を訪ずれると、韓国にいるかのような錯覚を受けるのは、韓国への地理的な距離だけが理由ではないらしい。
 対馬は朝鮮半島から列島への渡航、侵攻を容易にした。「倭人は帯方(たいほう)の東南大海(とうなんたいかい)の中に在り……」で有名な『三国志』(魏志東夷伝)の一節には、狗邪韓国(くやかんこく)から海を渡ると対馬に至ると記されている。ここは絶海の孤島で、山が険しい云々とある通り、対馬には高い山があるため、水源には恵まれているが、平野がなく、多くの人々の暮らしを支えることはできない。しかし対馬の住民は、古代から船で自由自在に南北に航海していた。
 13世紀の蓑古襲来の際、鎌倉幕府の侍たちが玉砕した後、対馬の住民は深山に隠れた。当時の侍の戦法は一騎打ちだったのに対し、蒙古軍は集団戦を用い、ドラや火薬で威嚇したり、デマを飛ばすなどの心理作戦も展開した。確かに戦争にテロと宜伝(プロパガンダ)はつきもので、だから今日でもテロと戦争、事実と宣伝は明確に区分けできないのだろう。
 この蒙古襲来にも誤解されている点が多い。蒙古軍は食料生産能力のない対馬を占領する意思など最初からなく、数日で撤退している。なぜなら、蒙古軍の実体は移民軍だったからである。多くの江南兵(こうなんへい)(中国の南宋人の兵)は、農具と穀物の種を携えていた。つまり、自ら移民先を探すペく、ていよく追放されたのである。
 元朝(げんちょう)は明らかに中国の過剰人口対策と旧南宋の余剰兵力の削減を実行していた。そう言い切れるのは、マルコポーロと交友があり、地理学や天文学に興味を持ち、非常に国際的だった元朝の皇帝が、極東の台風を知らなかったはずはなく、わざわざその時期を選んだところに、その意図が見えるからである。
 さらに高麗王とも良好な関係にあった元朝皇帝は、高麗からの出兵を要求したが、これは高麗の諸侯軍閥の力を弱め、高麗王の地位を相対的も高めることになった。要するに最初から日本侵攻は、数ある元朝の海外戦略の一つにすぎず、成功しようが失敗しようが、どちらでも良かったのである。当時の日本の画家が九州での戦闘をかなり正確に描いた絵巻から見る限り、蒙古軍には江南兵に加え、インド系、酉アジア系の傭兵がいた。

■国際的だった古代の日本列島
 改めて肝に銘じていただきたいのは、旧石器時代から現代にいたるまで、日本列島が単一文化だったことなど一度たりともなかった、という厳然たる事実である。ここは、何度強調してもしすぎるということはない。石器時代においては、中部地方から北には北シベリア系の石器、南には南方系の石器が存在したことが分かっている。このことが意味するのは、石器時代の日本列島には複数の文化圏の影響があったということにはかならない。 古来、多くの民族が大陸から列島に渡ったが、これは対馬だけを足がかりにした渡来ではない。水が高い所から低い所に流れるよう漢民族は人口密度と人口圧力の高い地域から低い地域に移動する。縄文時代の列島の総人口は、多い時で10数万、少ない時には10万以下だったと推定され、大陸と比べて非常に少なかった。
 遺跡や化石が発見されていない地域もあるが、それをもってして、その地が無人だったとは言えない。たとえば、日本の古墳時代には数千年以前の縄文遺跡の石が掘り起こされて再利用されていた。さらに今日、日本各地にある多くの古墳は、よほど大きなものでなければ、なんの記録もとられないままに破壊され、住宅地になりつつある。このように後世に遺跡が破壊されたことも考慮しなくてはならない。
 昨今、DNAでなんでも解明できるかのような風潮がみられるが、たとえシベリアのブリヤート族と縄文人のDNAが同一だと言われても、一概に受け入れるわけにはいかない。だが少なくとも縄文人と縄文文化が大陸と関連していたことだけは確実だと言えよう。
 ともあれ、組文人と縄文文化の起源は単一ではなく、複雑な組み合わせがあった。そして縄文人は何千年も日本列島で大陸から孤立して独自の世界を築いていたわけではなく、広範囲なルートを通して大陸と交渉していたのである。
 温暖な縄文時代には、日本最北の地にある北海道礼文島も、手芸品の生産工場であると同時に、列島と大陸を結ぶ重要な交易センターとして機能していたことが判明している。礼文島の遺跡は、縄文人と縄文文化のルーツが複雑で、けっして単一ではない事実を証明するもののひとつとして非常に興味深い。
 その礼文島では、アスファルト、南方の貝、さらには北海道には生息しないイノシシの牙の破片、新潟県糸魚川周辺産のヒスイなど、3500年以上も前の縄文墓地から、数十体の縄文人の骨、そして本州から持ち込まれた物資多数が発見されている。このことは、日本海の海岸線に沿って本州から樺太、そして大陸に至る広範囲な交易網が存在し、人の移動があったことを物語っている。
-------------------------------2につづく

以上は「るいネット」より

歴史は作られたものと言われますが時代と共にその内容は修正されています。常に時の権力者が自分の都合良い内容にして歴史を作っていますので真の歴史は仲々わからないものです。        以上

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