最近の記事

カテゴリー

  • スポーツ
  • ニュース
  • パソコン・インターネット
  • マスコミ
  • 健康
  • 医学
  • 地球大異変
  • 地球自然科学
  • 天文学
  • 学問・資格
  • 宇宙文明
  • 宇宙自然科学
  • 宇宙開発
  • 平成の「船中八策」
  • 心と体
  • 思想・哲学_
  • 放射能
  • 放射能汚染対策
  • 文化・芸術
  • 旅行・地域
  • 日記・コラム・つぶやき
  • 映画・テレビ
  • 書籍・雑誌
  • 歴史
  • 物理学_
  • 環境問題
  • 生物学
  • 科学技術
  • 経済・政治・国際
  • 考古学
  • 自然災害
  • 趣味

最近のトラックバック

« 放射線管理区域の東京でオリンピックなど正気の沙汰ではない/原発は未来犯罪 | トップページ | 関東は放射能複合汚染、人は生息できるか »

2013年9月21日 (土)

縄文・弥生の歴史の常識の嘘 7・・・倭国解明2・・倭人と加耶と新羅

日本人の起源(縄文・弥生・大和)
277801 倭国解明2~倭人と伽耶と新羅~
 
彗星 ( 中年 ) 13/06/18 AM00 【印刷用へ

『古代天皇家と日本正史(著:中丸薫)』の「第6章 ついに倭国の謎を解明する時が来た!」よりご紹介します。
著者より「「倭人」とは本来、朝鮮半島南部の住民であるが、同族の日本列島の住民とも混同され、さらには半島から列島に移住した「ワイ」とも混同された。その後、3~5世紀の「倭国」とは九州王朝ことで、ここはまた伽耶の分国でもあった。「倭」が列島の総称となったのは、その後のことでなのである。」という。当時は、半島と列島の倭人勢力をワイと呼んだとのこと。このワイ人は、江南系住民に半島土着民と混融した民族で、南方系・海洋系の性質をもった人々であったと思われます。
-------------------------------1より
■新羅と謎の倭人
 『漢書(かんじょ)』に「楽浪海中に倭人がいて、別れて百余国になった。この時以来、朝貢に来る」という内容の記述がある。この記述が明らかにするのは、倭人の中国への朝貢は、2世紀の卑弥呼の時代に始まったのでほなく、紀元前の弥生時代からだったいうことである。
 しかしこの「倭人」が確実に日本列島の住民であるとは断言できない。「楽浪海中に倭人あり」というくだりは、なんの抵抗もなく日本列島にいた倭人とされているが、問題は「楽浪海中」の意味である。
 済州島(さいしゅうとう・ちぇじゅとう)を始めとして、朝鮮半島の南西部には島が多い。だが、古代の記録に「島」とあっても、必ずしも海中の島を示すとは限らず、半島をも意味するのである。事実、三島とは御島とも書かれ、古い朝鮮の名で、「韓の三島」という表現もある。
 さらに『後漢書』では、馬韓は「北は楽浪、南は倭と接す」、そして弁韓は「倭と界(さかい)を接す」あり、これは.「倭」が朝鮮半島の難無にあったことを意味する。
 「倭人」が半島に存在したことを示す記述は、後漢時代のほかの記録にもある。当時絶頂期にあった遊牧民・鮮卑は、内陸の湖で魚を捕らせるために、朝鮮半島から倭人を連れて来させたという。このように、「倭人」は半島の南部とその周辺の島にもいたのである。
 倭に関する記述の多い『新羅本紀』には、書紀新羅にとって、脅威は同族の伽耶ではなく、絶えず侵攻してくる半島南部の先住民・倭人だったとある。紀元前50年頃、倭人が軍隊を連ねて国境を侵そうとしたが、新羅の始祖(赫居世・西干かくきょせい・せいかん)には神徳があると聞いて、引き返したという。
 魏への遣使より70年ほど前の173年、倭の女王・卑弥平が使者を遣わした。そして193年には、1000余人の飢えた倭人が新羅に来て食を求めたという記述もある。卑弥呼の倭が列島であっても、後者の飢えた「倭人」は、その人数からして、新羅と陸続きの半島南部の住民である。
 また同書には、209年、「浦上八国が共謀して加羅(伽耶)に侵入した。加罪の王子は新羅に来て、救いを求めた」とある。
 4世紀後半から5世紀にかけての新羅と倭の関係は、やや複雑なものであった。
 444年、倭兵が新羅の首都・慶州(けいしゅう)を包囲したが、食糧が尽きて帰った。新羅王は臣下の忠告を開かずに数千騎で追撃。合戦の結果、新羅王は敗れ、霧に紛れてやっと都に生還したという。
 新羅の数千騎に対抗できる倭の侵入者が列島から船で来たのならば、その大船団について何らかの記述があるはずだが、船については何も書かれていない。海岸から近距離にある慶州には、海からの奇襲が効果的である。しかし船について何も言及されていないということは、この侵入軍は陸続きのところから来たことになる。つまりこの場合の倭人は半島にいて、そこから新羅に進攻したということだ。
『三国史記』には、倭が慶州に攻め込んだ記述があり、広開士王(こうかいどおう)(好大王(こうたいおう)))碑によると、高句麗は5万の兵を送って新羅を支援し、倭を追い払ったという。ただし「倭国」とは書かれていないので、列島の倭人なのか、半島南部の倭人なのか不明である。あるいは半島の倭人と、伽耶と同盟関係にある列島の倭人が、傭兵として派兵された可能性も否定できない。
 時代は下るが、唐留学中の新羅の慈蔵法師が神人に対して、新羅は「北は靺鞨(まつかつ)に連なり、南は倭人と接す(北連靺鞨南接倭人)」と答えたという記述が『三国遺事』にある。これは、『後漢書』を踏まえたものだが、この場合も新羅の地続きの南方に倭人がいたことを示している。
『後漢書』と『三国史』によると、半島には「倭」と「ワイ」と「韓」ていたとある。そしで『後漢書』、『魏志』では三韓と倭は同格に扱われ、韓は三韓をあわせて78国、倭は100余国だという。また、『魏志東夷伝』によって、朝鮮半島の南端には倭人がいたことも分かっている。
 結論を言えば、「倭人」とは本来、朝鮮半島南部の住民であるが、同族の日本列島の住民とも混同され、さらには半島から列島に移住した「ワイ」とも混同された。その後、3~5世紀の「倭国」とは九州王朝ことで、ここはまた伽耶の分国でもあった。「倭」が列島の総称となったのは、その後のことでなのである。
-------------------------------3に続く

以上は「るいネット」より

« 放射線管理区域の東京でオリンピックなど正気の沙汰ではない/原発は未来犯罪 | トップページ | 関東は放射能複合汚染、人は生息できるか »

歴史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

« 放射線管理区域の東京でオリンピックなど正気の沙汰ではない/原発は未来犯罪 | トップページ | 関東は放射能複合汚染、人は生息できるか »

2020年8月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

-天気予報コム-

ウェブページ

無料ブログはココログ