5感の共有が可能になるネットワーク
今回の記事
今回は前々回の続きである。脳を相互に結合し、脳の信号を相手に送る技術が開発されている。これを紹介し、このテクノロジーがこれから人間をどう変えるのか見て見る。
五感の共有が可能になるネットワーク
前々回の記事では、これから個人の体験をネットワークで直接共有することができる時代がすぐそこまで来ていることを紹介した。
そうした変化を主導するのは、グーグル・グラスやテレパシー・ワンなどのウエラブルな次世代型スマホの登場である。このテクノロジーはさらに発展し、すでに再現されている視覚と聴覚だけではなく、触覚、味覚、臭覚などの包括的な感覚がデジタル技術で再現され、ネットワークを通して共有されるところまで行くことは確実だ。すでにそうしたテクノロジーは開発されており、来年からさまざまなデバイスとして市場に登場するはずである。
このようなテクノロジーを通して、個人が体験している主観的な世界がネットワークで共有され、追体験できる時代に入った。来年からは、この方向を目指して驀進して行くことだろう。
脳の結合と感情の共有、すでに成功している実験
このような、五感の全面的な共有を可能にするテクノロジーが到達する地点は、脳をネットワークにつなげ、脳の信号そのものを共有することだろう。これが可能になると、五感の共有を越えて感情や気持ちの共有も可能になるはずだ。
前々回の記事の名無しさんからの投稿にもあったように、ネズミの脳を互いにネットワークで結合する実験にはすでに成功している。これは、一方のネズミが学習した内容をもう一方のネズミに送信する実験だ。
下の動画がそうだ。左が学習内容の送信側で、右が受信側のネズミだ。それぞれのネズミはブラジルとアメリカの数千キロ離れた研究所におり、インターネットにつながっている。
まず左のネズミは、レバーを引くと水が出て来ることを学習する。脳が結合しているので、学習内容は右のネズミに送信される。すると、信号を受信した右のネズミはすぐにレバーを引き、同じように報酬としての水を得る。これは、左のネズミが学習した内容が、そのまま右のネズミに送信されたことを示している。
人間でも成功
さらにこれと類似した実験は人間でも成功している。以下は今年の9月に成功したワシントン州、シアトルにあるワシントン大学の実験だ。
実験は、2人の被験者に脳の信号を検出するヘッドギアを装着させることで行われる。一方の被験者の脳の信号は、別の場所にいる被験者の脳へとインターネットを通して直接送られる。
まず一方の被験者Aには、ゲームが映っているスクリーンを見てもらう。これはシューティングゲームだが、Aにはゲームのターゲットを撃ち落とすときに使うキーボードは与えらていない。Aはゲームのターゲットに大砲を撃ちたいとき、心のなかで「撃て!」と言うだけである。
遠くの場所でインターネットにつながれたもう一方の被験者Bには、キーボードが与えられているが、画面は見ていない。
ところが、心のなかで「撃て!」と言ったAの信号を受信するとすぐにBは反応し、キーボードをたたいてターゲットを撃ち落とした。これは、脳の信号を直接送信するコミュニケーションが将来可能になることを示している。
個人の概念の変化
このように、現在早期的な実験に成功しているということは、これからこの分野のテクノロジーが急速に発展し、五感のみならず、将来は感情と気持ちをも含めた我々の体験内容のすべてが全面的に共有されることを示している。つまり、五感の共有から感情の共有への発展だろう。
これが実現すると、個人でそれぞれ質的に異なる体験が、それがあたかも自分の体験であるかのような状態で共有されてしまう。それだけに、共有された体験はあまりにリアルで、どこまでが自分の体験でどこまでが他者の体験なのか、区別がほとんどつかない状況になるはずだ。
これは個人と個人の境界が不鮮明になる体験になるはずだ。すると、こうした体験を通して「個人」という概念の徹底した組み替えが行われるに違いない。
これまで我々は、それぞれの個人の主観的な体験は独自であり、感情や気持ちを細部まで共有することは絶対に不可能なことであった。この体験の共有不可能性こそ、個の固有性の感覚の源泉である。
マルチトラックシステムとしての脳
一方自我の意識は固有なものではなく、変更することが可能なことはよく知られている。
すでに1960年代の終わりには、大脳科学は脳の内部に、自我の存在の明確な根拠となる物理的な場所がないことを発見していた。我々は主観的に、自我が脳の中心であるように感じている。だが実は脳は、中心のないシステムであることが明らかになった。
脳の大部分の活動は、内蔵運動のような意識の介入をまったく必要としない無意識のプロセスが占めている。こうしたプロセスは脳の該当する領域が担うので、その領域だけで完結している。そのため、脳の異なった領域の間でネットワークを形成する必要性がない場合も多い。
脳とは、1千万台の独立したコンピュータが、それぞれ勝手に担当するプロセスを実行しているシステムだ。そのため脳は、脳全体に指令を出す意識や自我のような中心はそもそも必要としないと考えられている。中心となる司令塔を必要としないこうした脳のシステムは、マルチトラックシステムと呼ばれている。
バーチャルリアリティーとしての自我
このようなマルチトラックシステムとしての脳には、自我のような中心となる司令塔は存在しない。
自我とは「私」の意識のことである。では、我々にはなぜ自我があるのだろうか?大脳科学はこの納得行く説明ができるさまざまなモデルを提出してきた。
そうした長い間の議論もやっと決着がつきつつある。大脳哲学者のダニエル・デネットが「解明される意識」のような本で提示したモデルがもっとも有効ではないかと見られている。
このモデルは、自我は、言語を使う必然性から脳が作り出したバーチャルリアリティーではないかと断言する。そのモデルはこうだ。
確かに脳はマルチトラックシステムで、自我という司令塔となる中心はもともと必要としていない。だが、他者とコミュニケーションをしなければならない状況では、自分を他者に対してひとつの存在としてまとめる必要性が出て来る。
なぜならそもそもコミュニケーションとは、メッセージの送り手である「私」が、受け手である「あなた」にメッセージを送る過程なので、それぞれの脳は「私」ないし「あなた」というひとつの存在としてまとまっていなければならないからだ。自分が分裂して「私」や「あなた」が存在しないような状況では、そもそもコミュニケーションは成立しようがない。
自我とは、脳がこのような必要から、自分をひとつの存在として表象するために作り出したバーチャルリアリティーなのではないかというのだ。つまり、脳にインストールされたソフトウエアーのようなものが、「私」の意識としての自我である。
「解明される意識」の著者のダニエル・デネットは、自我の意識とは「重心」のようなものだと書いている。「重心」は重さのあるどんな存在にもかならず「ある」が、それは物理的な存在として「ある」わけではない。例えるなら、自我の意識も、どの脳にもあるものの物理的には存在しない「重心」のようなものではないかとしている。
ハイアーセルフとバーチャルリアリティー
もちろん、自我の意識がバーチャルリアリティーだとするこうした考えには、強い抵抗を感じることだろう。すでに一般的になっている前世療法やトランスパーソナル心理学などの心理療法では、一貫した前世の記憶が治療の過程で出現することはまれではない。こうした事例は、死後も継続するなんらかの主体が存在していることを強く暗示している。それは、ユングの「自己」や「ハイアーセルフ」と呼ばれるような存在かもしれない。
そうだとすると、自我の意識が脳が作り出したバーチャルリアリティーだという現代の大脳科学のモデルとは真っ向からぶつかることになる。それぞれに十分に信頼できる証拠とデータがある2つの考え方が、一方が他方を相互に否定するというのは、居心地がかなり悪い。十分に納得が行くものではない。
ただ、自我の意識が脳が作り出したバーチャルリアリティーだという見方は、前世からの一環した存在という魂次元の話とは、根本的に異なるのではないだろうか?「自己」や「ハイアーセルフ」のような一貫した存在があったとしても、そうした存在は脳が作り出したものではまったくないことは間違いない。それらは脳とはかかわりなく存在している。
すると、大脳科学が語るバーチャルリアリティーとしての自我の意識とは、脳が自分自身を表象する方法なのであって、「自己」や「ハイアーセルフ」のような超越的な存在とは基本的に関係がないのかもしれない。それは、コミュニケーションの必要から、脳が自分を映すために作りだした鏡だということだ。ただ、おそらくこの「鏡」は、本来の「自己」や「ハイアーセルフ」の存在の一端を反映している可能性は大きいかもしれないが。
この問題については、いずれ記事を改めて書くことにする。
変更可能な「私」の意識
いずれにせよ、もし自我の「私」の意識が脳が作り出したバーチャルリアリティーであるとするなら、それは絶対的なものではまったくなく、異なる条件では変更可能な存在であることになる。
例えば、不自由を感じないほど外国語をマスターすると、自分の自己イメージが変化することはよく知られている。これは、外国語のコミュニケーションが要求する「私」のあり方と、日本語のそれが大きく異なっていることが原因だとされている。
英語圏では、自分の思っていることを抑圧せずに自由に表現することが要求される「私」だが、日本語では他者の感情に気を使い、本音の表現をはばかる「私」ができあがる。両者の「私」では内容も実感もかなり異なることだろう。
このように、言語が異なるだけで「私」の実感が大きく変わるのであれば、「私」の内容はそれ以外のさまざまな方法で変更できることを強く示唆している。
デジタル的に体験できるワンネス?
では、脳を相互に直接つなげ、五感の体験のみならず感情や気持ちをネットワークで共有できるようになると、「私」はどのように変化するのだろうか?言語で「私」が変化してしまうのだから、感情や気持ちの共有による変化はすさまじいものになるに違いない。
先にも書いたように、脳のネットワークによる結合では、どこまでが自分の体験で、どこまでが他者の体験なのかはっきりとした区別がつかなくなる。他者の体験が自分の体験に侵入し、混然一体と化してしまうことも起こりえる。
おそらくこれは、個人と個人との境界が不鮮明になり、あらゆる個人の体験が凝縮したプールのような状況にほうり込まれることを意味している。そうした状況では、固有の自我によって分断された個人の概念など成り立たなくなるかもしれない。どんな体験や感情もネットワークにつながった脳を通して瞬時に共有されるので、そこで出現するのは、巨大なひとつの「我々の意識」なのかもしれない。
もしかしたらこれは、デジタル的に実現されたワンネスなのではないだろうか?
テクノロジーの進歩の速度から見て、我々はこれが実現する時期はかなり近いのではないだろうか?きっと2014年の後半あたりから、脳の信号を相互に送るヘッドギアが製品化される可能性もあるだろう。
世界の新しい体験様式
前にも書いたように、世界の様式が突然と変化することは歴史的に何度も起こっている。その意味では、自立した「自我」として個人を体験する様式そのものが近代以降に成立した新しい体験様式である。
いま我々は、体験の相互浸透を通してデジタル的に実現されたワンネスが出現する一歩手前の状況にいるのかもしれない。
これこそ、まったく新しい世界の体験様式であろう。だが、もちろんそこには、個々人の内面に抑圧されているとてつもない否定性が勢いよく噴出してくるという状況もかならず随伴するのだが。
これは記事を改めて書く。
続く
「奇跡の脳」脳卒中体験を語る / ジル・ボルティ・テーラー
実際に起こっていることを確認する
これは非常に興味深いテーマだと思う。これから、実際に世界の体験様式の変化がどのように進んでいるのか、実例をたくさん集めてみたいと思う。
ところで、「ウエイクアップ(覚醒)」は実に興味深い映画だ。いずれ日本語の字幕をつけて、どっかで上映会でもできればと思っている。
続く
« ネオコンは今もジョン・ケリーの国務省で益々健在 | トップページ | 規制委:首都圏地震の原発対策ゼロ! »
コメント