英国のストーンヘンジは古代の遺跡ではない?
2013年12月21日
英国のストーンヘンジは古代の遺跡ではない? : 現在の場所にあるものは 1950年代に「ある目的のため」に建立されたと主張する記事を読み


▲ Fishki.net より。修復作業の光景と見るのが一般的だと思いますが、このロシアのサイト作者はそう見ません。
なんとなく直感的に気に入ったお話でしたので
今回の話は、「いわゆる陰謀論」に近い話で、私自身は陰謀論という概念自体が好きではないので、あまり取り上げることはなかったのですが、しかし、これは確かに面白い上に、このページの作者の大変な執念に感銘したということもあり、ご紹介したいと思います。
ストーンヘンジはご存じの方が多いでしょうが、一般的な解説を Wikipedia より抜粋しておきます。
ストーンヘンジ
ストーンヘンジは、ロンドンから西に約200kmのイギリス南部・ソールズベリーから北西に13km程に位置する環状列石(ストーンサークル)のこと。現在のイギリス人、アングロ・サクソン人がブリテン島に移住した時にはすでに存在していた。
世界で最も有名な先史時代の遺跡である。考古学者はこの直立巨石が紀元前2500年から紀元前2000年の間に立てられたと考えている。
というものです。
しかし、この Wikipedia を読むと、意外とこのストーンヘンジの発見やその歴史というものは「曖昧な空気に包まれている」ということがわかります。
たとえば、時代の特定に関しての下りは、
ストーンヘンジで行われた活動の各段階の時代や内容を特定するのは、単純ではない。初期の発掘記録はほとんど残っておらず、正確な科学的時代計測は驚くほど少ないうえ、天然チョークの氷河周縁作用や動物の巣穴形成で妨げられ、複雑になっているのだ。
というように記されていて、正確な年代はわからないということの上に、「最初の発見」のくだりを読みますと、ウィリアム・カニントンという人と、リチャード・コルト・ホアという人が、1798年に「穴」を調査したのが最初だそうで、そして、
> 1810年、倒れたスローターストーンの下を掘り、それがかつては立っていたと結論付けた。
と記されているのです。
「それがかつては立っていたと結論付けた」ということは、発見された時は「立っていなかった」ということなのでしょうかね。
この理解でOKなのかどうかわからないのですが、その後、
ストーンヘンジの最大の発掘は、この遺跡が国家の管理下に入ったあと、ウィリアム・ホーリー中佐によって行われた。1919年に作業が始まり1926年まで続き、予算は労務省から出た。
と続きます。
注目したいのは、発掘をおこなったのが「中佐」となっていて、これは軍人であることを意味すると思います。探検などで軍人がリーダーになるのは珍しいことではないかもしれないですが、遺跡の発掘の場合はどうなんですかね。あまり詳しくないですので、そういうものなのかもしれないですけれど。
さて、今回の記事は、写真を含めて長いですので、そろそろ記事に入ろうと思います。
ただ、ロシア語の翻訳では間違いが多くあるはずですので、「全体の意味としては大体合っている」程度に思っていただければ幸いです。
ちなみに、そのロシア語のページの人の主張は、どうも難しいのですが、
「ストーンヘンジはその地が古代ケルト人(?)の「古代文明の中心」であり、偉大な祖先の遺産とされるために、意図的に建設されたものである」
というようなことを言いたいのだと思います。
なお、ストーンヘンジの古い写真自体は数は下のようなものが少ないながらも残っていて、(仮に捏造されたとした場合、いつ立てられたのかはわからないにしても) 1950年代以前より、そこにあったことは事実だと思います。

▲ 1885年のストーンヘンジの写真。写っているのは農民ですが、今回の記事によりますと、戦時中、この土地からは農民たちは追い出されたようです。現在、この地域には一切農地はないそうです。写真は英語版 Wikipedia より。

▲ 1927年のストーンヘンジの写真。当時はストーンヘンジの近くに鉄道や飛行場があったそうですが、すべて閉鎖されたそう。写真は Stonehenge News and Information より。
ですので、 1950年代に初めて建てられたという可能性はありませんが、作者の訴えたいことは、「ここが人類文明の中心」というような意味を持つような文化遺産とするためにおこなったストーンヘンジ建造活動についてなのだと思います。
いずれにしても、写真にしても内容にしてもなかなか興味深いです。
それでは、ここからです。
なお、作者は「 108枚の写真」を1枚のページにすべて掲載していて、そのあたりにも執念を感じますが、さすがに 108枚すべてを載せるのは厳しいですので、適度に選んでいます。

Fishki 2012.10.12
ストーンヘンジの建設(108枚の写真と共に)
これらの写真は、ストーンヘンジの構築するプロセスを記録するために 1954年から 1958年にかけて撮影されたと思われる。
写真に何が写っているのかを見てみると、すべてのプロセスに英国政府と外部の者たちががそのねつ造に関係していることがわかる。
この写真を見て、多くの読者の方々が思うことは、「修復している」 あるいは、 「交換している」、「これはもともとは古代の巨石である」などのキーワードではないかと思われる。
しかし、そうではないことは明確だ。
作業初期の最初の頃の写真では、白い円が将来の巨石が立てられていスペースより高くなっている。



これらの方法は、建設業者がおこなう一般的な仕事の範囲だ。「顧客」から要望でのレイアウトが作られている。自然のままの青い芝生に石灰の穴が開けられている。
また、ニンジンのようなマークが残されているが、ストーンヘンジの「巨石」には、このような手順は残されていない。


さらに、写真をよく見てほしい。
そこに軍人の姿と有刺鉄線や他の様々を見ることができるだろう。



将来的なある時点で、「これは古代ドルイドや、阿修羅や、シリヤントたちが遺した古代の巨石建造物だ」とするために、アーリア人たちはこの場所を保護してきた。(訳者注)「シリヤント」が何なのかはついにわかりませんでした。
白い服は古代ドルイド(ケルト人社会における祭司)の衣装だ。



写真には「顧客担当者」以外に、建築者と労働者、そして周囲の住民たちの姿が写っている。



ストーンヘンジは、これまで数多くの秘伝やイニシエーションに関しての伝えとされるものが存在しており、「宇宙への扉」、「黙示録」、「エネルギーの結晶」などのキーワードと共に終末論的なプレゼンテーションの中で重要な役割を果たしてきた存在だ。
それは、「建設の命令」と「生物学的、精神的な汚染」が同時に起きる時まで。
既知のことがらではあるが、参考までにいくつかの事実を記しておく。
1. 最初にストーンヘンジの近くで軍事演習がおこなわれたのは 1898年。
2. その軍事演習の時から第二次世界大戦まで、国防省はその区域の広大な土地を購入した。
3. 現在、(英国)国防省は、ストーンヘンジの付近に 390平方キロメートルという驚くほど広大な土地を所有している。そのうちのいくつかのエリアへのアクセスは永久に閉ざされていて、入ることは厳しく制限されている。 (ウィキマピアによれば、軍事基地と軍用滑走路は、ストーンヘンジから南東に5キロ) 。
4. 過去に、ストーンヘンジ近くに鉄道の支線と空港が設営されたが、両方とも、後に撤去された。(この場所が軍用飛行場と 1.6キロの距離しかなく、近かったことが理由)
5. 1943年に、ストーンヘンジから 15キロの場所にあるインベル地区にあるパーヒントン村の住人たちは村を追い出された。インベルの資料によると、現在、村は、軍の管理下にある。
6. ストーンヘンジの北2キロの場所には、王立砲兵学校( Royal School of Artillery )がある。ここでは、なんと年間 340日の実弾射撃訓練を行っている。
7. ストーンヘンジの南東9キロには、防衛科学技術研究所( Defence Science and Technology Laboratory )がある。ここでの研究は国家機密情報扱いとなっている。
8. ストーンヘンジの西 17キロにも軍事基地があり、ここには戦闘用ヘリコプター「アパッチ」の発着場がある。
9 。ストーンヘンジの地域では農業活動は行われていない。それは、100年以上に渡っての不発弾が蓄積しているからである。このため、ストーンヘンジの周囲の牧草地は科学的に価値のある場所として保存される「特別科学的関心区域」( SSSI / Site of Special Scientific Interest )と指定された。この指定をされた場所には一般人の立ち入りは制限されるか、あるいは立ち入りできない。
2. その軍事演習の時から第二次世界大戦まで、国防省はその区域の広大な土地を購入した。
3. 現在、(英国)国防省は、ストーンヘンジの付近に 390平方キロメートルという驚くほど広大な土地を所有している。そのうちのいくつかのエリアへのアクセスは永久に閉ざされていて、入ることは厳しく制限されている。 (ウィキマピアによれば、軍事基地と軍用滑走路は、ストーンヘンジから南東に5キロ) 。
4. 過去に、ストーンヘンジ近くに鉄道の支線と空港が設営されたが、両方とも、後に撤去された。(この場所が軍用飛行場と 1.6キロの距離しかなく、近かったことが理由)
5. 1943年に、ストーンヘンジから 15キロの場所にあるインベル地区にあるパーヒントン村の住人たちは村を追い出された。インベルの資料によると、現在、村は、軍の管理下にある。
6. ストーンヘンジの北2キロの場所には、王立砲兵学校( Royal School of Artillery )がある。ここでは、なんと年間 340日の実弾射撃訓練を行っている。
7. ストーンヘンジの南東9キロには、防衛科学技術研究所( Defence Science and Technology Laboratory )がある。ここでの研究は国家機密情報扱いとなっている。
8. ストーンヘンジの西 17キロにも軍事基地があり、ここには戦闘用ヘリコプター「アパッチ」の発着場がある。
9 。ストーンヘンジの地域では農業活動は行われていない。それは、100年以上に渡っての不発弾が蓄積しているからである。このため、ストーンヘンジの周囲の牧草地は科学的に価値のある場所として保存される「特別科学的関心区域」( SSSI / Site of Special Scientific Interest )と指定された。この指定をされた場所には一般人の立ち入りは制限されるか、あるいは立ち入りできない。
要約すると、
- ストーンヘンジの周囲は 100年以上に渡って、軍用機やヘリコプターでのパトロールで守られており、そしてその地域は封鎖されていた。
- 地元住民は第二次世界大戦中に、軍事作戦の名目によって村から追い出され、その状況は現在まで続いている。
- かつてはこの地に空港や鉄道などのインフラが存在していたが、撤去された。これは、ストーンヘンジを建設するための場所を他に見つけることができなかったためと思われる。
これらは、言い換えれば、英国陸軍省によりこの地域を保護し、そして、「古代文明の中心」、「偉大な祖先の遺産」、 「人間性の碑」として、意識的かつ意図的にストーンヘンジは建設されたということが明確であると思われる。
そして、ストーンヘンジは、少なくとも意図的に「宗教」としての霊的な場所の中心地となった。
ほとんどの「人類の遺産」と「精神性」は、間違いなく、「文化遺産」と「科学」のための手段の重要な属性であることに疑いの余地はない。
以上は「IN DEEP」より
大きな石をどうやって建築したのかと思っていましたが、現代的な機械を使い建てたことが分かり理解しました。 以上
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