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2014年5月 2日 (金)

理研は改革の時期にあり

大河内正敏所長は「人を見る眼が特に秀でて、偽物は直ちに見破られ真面目な研究者をよく保護育成」した

2014年04月20日 05時24分31秒 | 政治
◆理化学研究所の3代目の大河内正敏所長は、「名所長」と言われた。研究員だった佐藤俊一という人が「大河内先生の憶い出」と題する一文のなかで、「先生の研究室は多士済々ヵで、また先生を心から尊敬していない者は一人もなかつた。従って研究室の空気は極めて健全明朗で、皆愉快に先生を中心として研究に没頭することができた」と述懐している。
 STAP細胞の研究論文をめぐって世間を騒がせている独立行政法人「理化学研究所」野依良治理事長、本部・埼玉県和光市、組織人員約3000人)が4月19日、本部を一般公開した。最先端の研究にじかに触れられる年に1度の公開であった。
 しかし、元文部官僚の寺脇研・京都造形大学教授(元文部省大臣官房審議官、広報調整官など歴任、東大法学部卒)が「野依良治理事長の長としての見識と能力を疑う」(夕刊フジ4月19日付け紙面=3面)で痛烈に批判するなど、「理事長辞任」を求める公然発言が各方面から噴出し始めている。たとえノーベル化学賞受賞者であっても、理研という大組織のトップとしての「指揮統率能力、管理監督能力、指導能力」が、欠如しているのではないかという厳しい意見だ。
◆理化学研究所は現在、国家予算に依存する独立行政法人になっている。だが、そのせいか、組織全体が、官庁化、官僚化して、しかも、各研究部門が「セクト」化していて、相互の信頼関係が希薄になっており、かつての「自由闊達な気風」が失われているのではないかという指摘がある。
 そうしたなかで、今回の「STAP細胞」論文騒動が起きたのではないかと疑問が持たれている。つまり、「研究室の空気は極めて健全明朗で、皆愉快に先生を中心として研究に没頭することができた」というような空気はなさそうである。理化学研究所設立の趣旨に反する組織に陥っているのではないかということだ。
◆そこで、今回の騒動をキッカケに、理化学研究所設立の原点に戻って、検討してみるのも、無駄ではない。
 理研は大正2年(1913)6月、タカヂアスターゼ、アドレナリンの発明で有名な高峰譲吉(嘉永7年11月3日=1854年12月22日富山県高岡市生まれ、大正11年=1922=7月22日死去、工学博士、薬学博士)らが「国民科学研究所」構想を提唱して、実現に向けて動き出した。
 渋沢栄一(男爵)ほか一一人が連署して、大正5年(1916)1月21日、「理化学研究所設立ニ関スル建議」を内閣総理大臣、大蔵大臣、農商務大臣に提出した。この冒頭、こう書かれていた。
 「世界ノ文運ニ貢献シ以テ益々国威ヲ宣揚スルト共ニ、百般工業ノ根本ヲ啓沃シ、以テ国富ノ増進ヲ期センニハ、理化学ニ関スル独創的研究ヲ旺盛ナラシメザルベカラズ。而カモ今次ノ欧州戦乱ハ今後益々軍事材料ノ独立、工業物資ノ自給ヲ企画スル緊要ナルコトヲ教ヘ、吾人ヲシテ理化学研究ノ必要ヲ愈々痛切ニ覚知セシメタリ」
 理研創設に当たり、渋沢栄一(男爵)が大正6年(1917)に設立者総代として皇室からの御下賜金、政府からの補助金、民間からの寄付金を受けた。これを基に財団法人理化学研究所として本郷と小石川両区の最北部の境界にまたがる元巣鴨病院跡地(敷地一万二千坪)、つまり東京都文京区駒込に建設することが決まり、伏見宮貞愛親王を総裁に奉戴した。 初代所長は菊池大麓。
 理研の建築、設備については、物理学部を長岡半太郎、大河内正敏が、化学部を池田菊苗、井上仁吉がそれぞれ委嘱され、大正7年度に着工、大正14年度に一応予定の建設を完了した。
 理化学研究所で「名所長」と呼ばれた3代目の大河内正敏所長は、ピストンリング(レシプロエンジンや圧縮機、油圧機器等のピストン外周の溝にはめられる円環状の部品、シリンダ内壁に対して、ピストンの側面全体ではなく円周という線による接触にするための、一種のすべり軸受)の発明者であり、「理研産業団」を創設したことで有名だ。身長は180センチと長身だった。孫に女優の河内桃子がいた。また無名時代の田中角栄(首相)を引き立てたことでも知られている。
 明治11年(1878)12月6日、東京府浜松町(現在の東京都港区浜松町)で子爵・大河内正質の長男として生まれた。大河内正質は、江戸時代、いまの千葉県夷隅郡大多喜町に存在した上総大多喜藩の藩主だった。いわゆる「殿様」の家系だ。幼少のころは、明治天皇のビザの上で遊び、かわいがられたという。学習院初等科時代は、大正天皇の御学友であった。
 第1等中学校を経て、明治36年(1903)、東京帝国大学工学部造兵学科に入学。東京帝大を首席で卒業、講師となる。後に旧三河吉田藩(現在の愛知県豊橋市今橋町を領した藩)の子爵・大河内家(江戸時代前期に活躍し、「知恵伊豆」と呼ばれた老中松平伊豆守信綱の子孫の家系で、大多喜藩主家の遠縁)の養子となり、最後の藩主・大河内信古の娘を妻に迎えている。
 その後、私費でヨーロッパに留学。明治44年(1911)帰国して、東京帝大教授に就任。このころ、寺田寅彦と共同で飛行弾丸の流体的な実験を行う。
 大正3年(1914)工学博士となる。大正4年(1915)2月27日、貴族院子爵議員補欠選挙で初当選し、任期は大正4年(1915)2月27日~昭和5年(1930)7月19日と、昭和13年(1938)2月10日 -昭和21年(1946)年4月7日の2期務めている。この間、予算委員会に所属した)、大正7年(1918)、 原内閣の海軍省政務次官に就任している。
 大正10年(1921)9月30日、東大の 山川健太郎総長の推薦により、理化学研究所の3代目所長に登用される。43歳のときだった。
 大正11年(1922年)、主任研究員に自由をもたせる研究室制度を導入し、主任研究員に大幅な自由裁量が与えた。主任研究員は各帝国大学の教員と兼務でもよく、研究室を理化学研究所でなく各帝国大学に置くことも自由になった。主任研究員が予算、人事権を握り、研究テーマも自主的に決める研究室制度は、理化学研究所を活性化したが、湯水のように研究費が投入された結果財政難に陥った。
 大河内正敏は大正14年(1925)、東大教授の職を辞し理研の所長職に専念することに決めた。同年6月15日、正3位となる。
 さらに、大河内正敏は研究成果の事業化を進め、理研を国際的な研究機関にまで育て上げようとした。こうした商品の収益が「科学者たちの楽園」を支えた。この年、鈴木梅太郎研究室の高橋克己が長岡半太郎や寺田寅彦の助力を得て魚のタラの肝油から世界で初めてビタミンAの分離・抽出に成功した。試作品として売り出したところ、肺結核の特効薬との噂が広まり患者の家族らが殺到する事態となった。
大河内所長はその様子を見てこれを工業化することを決断し、鈴木梅太郎研究室をせきたてて4ヶ月で工業化にこぎつけた。既存の医薬品企業と提携せずに理化学研究所の自主生産で「理研ヴィタミン」を販売し、財政難を乗り切った。
 大正13年(1924)には理化学研究所の作業収入の八割をビタミンAが稼ぎ出した。ビタミンAの1カプセルあたりの製造原価は1,2銭だったが、理化学研究所はこれを10銭で直接販売したため利益幅は大きかった。
 昭和2年(1927)理化学研究所の発明を製品化する事業体として理化学興業株式会社(後のリケン)を創設し、大河内正敏が会長に就任した。神奈川県藤沢市の大日本醸造株式会社内に大和醸造試験所を設立し、合成酒の製造研究を開始した。
 その後も理化学興業と理化学研究所は工作機械、マグネシウム、ゴム、飛行機用部品、合成酒などの発明品を基に76におよぶ生産会社を擁する「理研グループ(理研産業団)」を興し、理研産業団は、「理研コンツェルン」と呼ばれて、新興財閥の一角を占めるまでに成長していく。最盛期には会社数63、工場数121の大コンツェルンとなった。
 昭和14年(1939)の理化学研究所の収入370万5000円のうち、特許料や配当などの形で理研産業団各社が納めた額は303万3000円を占めた。その年の理研の研究費は231万1000円だったので、理化学研究所は資金潤沢で何の束縛もない「科学者たちの楽園」だった。後に理研コンツェルンの事業を継承した会社にはリコーなど理研グループと呼ばれる企業群が形成された。
 仁科芳雄研究室が昭和12年(1937)には、日本で最初のサイクロトロンを完成する。昭和16年(1941)、陸軍の要請を受け、仁科芳雄が中心となって原子爆弾開発の極秘研究(ニ号研究)を開始。昭和18年(1943年)には、大型サイクロトロンを完成させている。
 ところで大河内正敏は昭和9年(1934)4月2日、東京物理学校(東京理科大学の前身)第四代校長に就任していた。昭和11年(1936)5月、東京物理学校理事長を兼務。昭和12年(1937)9月、東京物理学校理事長を辞する。昭和18年(1943)、 内閣顧問に就任していた。
 昭和20年(1945)12月6日、軍需産業、内閣顧問、原爆製造計画の責任により、戦争犯罪人としてA級戦犯に指名される。昭和20年(1945)12月13日、巣鴨拘置所に収監される。同月25日、東京物理学校校長を辞した。昭和21年(1946)4月、釈放。4月7日、貴族院議員を辞職。10月、理化学研究所所長を辞任した。
 しかし、大河内正敏は、理化学研究所所長を辞任するまで、理研グループ企業の特許使用料で広い分野の研究者たちの自由な研究を支えた。所長辞任後、公職を追放され、代わって仁科芳雄が第4代所長に就任した。
 理化学研究所時代の大河内正敏の活動ぶりについて、「大河内正敏、その事業」(大河内記念会、日刊工業新聞社刊)のなかで、身近にいた人たちが、それぞれエピソードを述べている。その一人である佐藤俊一が「大河内先生の憶い出」と題する一文で、こう述懐している。
 「私が大河内先生の御指導と御教示の栄に浴したのは先生の研究室の研究員であった時代から始まり、昭和21年先生が御引退になり私共の四研究窒が生れた後もなお引続いて、昭和27年先生が亡くなられるまで凡そ20年の長きに渡つたのであつた。その内でも私が先生の研究室で研究に従事した十余年間は私の過去における最も愉快な時代であつて、ただ感謝と喜びの憶い出以外には何物もないのである。
 先生は常に理研の仕事は基礎科学の研究が主であつて発明は副であるといわれ、科学の指示するところには何等凝義を差し挾まない固い信念を御持ちになつておられた。この信念をもつ技術者と事務家とが一体となれば、世界産業戦の常勝者にたり得ると信じておられた。先生がかかる御考えを御持ちになつた理由は、発明は昔なら天才ばかりでできたが、科学が進歩するにつれて今日では科学の素養が八分で天才が二分となって来たからであり、産業革命を捲き起すような大発明は一寸した思いつきとか、科学を知らない天才には決してできないからである。このように先生が基礎研究に重きをおかれたので、先生の研究で直接世の中に役に立たない熱化学に関する研究や、窒素化合物の基礎的研究を思うように行うことができたのである。これは私にとり寔に感激の極みであつた。
 先生は研究や発明をする技能と、その研究発明を実際の生産に移す技能とは全く別種のものであることを早くから主張され、発明と発明の工業化とは全く別で、発明家が自分の発明を工業化しようとして失敗したこと、例えばヂーゼルエンジンの発明家ヂーゼルが投身自殺したことや、人造ソーダを発明したルブランが貧民窟で窮死したこなどを御話しになって私達に大き感銘を与えられた。この御趣旨により、先生御自身工業に対する御仕事の陣頭に立たれた理研コンツェルンを起されたのである。理研コンツェルンは他のコンツェルンとちがい、どこまでも理研における純正科学の研究資金を得ることが主眼であったので、私共は全く安心して研究に精進することができた。
 一方先生の工業化に対する御努力も次第に実を結び、ピストンリング、工具、マグネシウム等が着々と成功し、それが更に農村工業にまで進展して行つたことは大河内研究室の私共として快哉を叫ばざるを得なかつた。
 先生は人を見る眼が特に秀でておられ、偽物は直ちに見破られ真面目な研究者をよく保護育成された。この為に先生の研究室は多士済々ヵで、また先生を心から尊敬していない者は一人もなかつた。従つて研究室の空気は極めて健全明朗で、皆愉快に先生を中心として研究に没頭することができた。
 日本の世相は終戦以来戦時中とは別の意味で悪くなり、正直者が損をして横着者が得をする傾向がますます露骨となつて来た。このような悪世相を是正し、真の意味での国力を充実せしめる為には学識人格共に優れておられた先生のような指導者を必要とすることはいうまでもない。しかし今は先生の声咳に接することを得ず、うたた心の淋しさを覚えるのである。先生の偉大さを追憶しあらためて窒に掲げてある先生の御写真の前に立ち、先生の御冥福を祈ると共に、微力ながら先生御生前の御期待に背かざらんことを誓う次第でおる」
 昭和21年(1946)、太平洋戦争終結とともに連合国軍司令部の指命により理化学研究所、理研工業(理化学興業の後身)、理研産業団は解体され、仁科研究室のサイクロトロンも海中に投棄された。
 昭和23年(1948年)、「株式会社科学研究所」(初代社長仁科芳雄)が発足。これに伴い財団法人理化学研究所は正式に解散している。なお、昭和27年(1952)には株式会社科学研究所(新社)が設立され、旧社は科研化学株式会社に改称し、純民間企業となった。現在の科研製薬株式会社である。昭和26年(1951)8月6日、公職追放を解かれた。
 大河内正敏は昭和27年(1952)8月29日、脳梗塞で死去、享年73。勲二等に叙され、旭日重光章を追贈されている。墓所は、埼玉県新座市の平林寺(松平信綱以来の菩提寺)
参考:「創業者のサクセスストーリー」(『法人うらわ』浦和法人会刊)より

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