霧のなかの巨塔、第18回、落陽
長編小説 霧のなかの巨塔 第18回
第一章 奈 落
■落 陽
きょうも、月曜日という、人によっては短くも、また長くもある一日が流れ過ぎようとしていた。さきほどまでの激しい雷雨も去り、大都会の空には雲間から赤みを帯びた円に近い月がのぞいている。月は見えるものの、いつものことだが、都会の灯りとチリによって星は見えない。
ここ東京新宿の東洋自動車本社ビルでは夜の9時近くになった今でも幾つかの階の窓からは室内の明かりが見えている。8階の販売拡張課では、課長席のあたりだけ蛍光灯がつけられ、その下ではハイバックのイスに頭を預け、課長の逸平がぼんやりと窓の外を見ていた。
きょうの逸平の目に映る鮮やかなネオンは、ただ虚ろにみえるだけ……きょう、その月曜日は逸平にとって悪夢と思いたい反面、心のシコリが幾分か軽く、また小さくなっているような気持ちも感じていた。イスを回転させ広い販売促進部の室内を見回す逸平。もう直ぐこの職場を去らねばならなくなったことに、自業自得のこととはいえ、強い寂寞感にひたっていた。
きょうの午後2時過ぎ、逸平の机上の内線電話が鳴ったときに運命の分岐点が現れたのだ……
「はい、姿です……」
……山本だ。ちょっと常務室まで来てくれんかな。今直ぐに。いいか?……
「はい、わかりました、只いますぐに」気軽に応える逸平だ。
「三浦君、ちょっと筆頭常務室へ行って来る」
「どうぞ……」係長の三浦は書類から目を離すことなく、そっけない返事をする。三浦をはじめ課内の人たちの逸平に対する態度が異常にといえるほど、ぎくしゃくしていることに逸平は気づいていた。その原因はあの土曜日、妻の恵美がここへ電話をしたこと……そのとき誰がどんな応え方をしたのか三浦に尋ねることはできなかった。うしろめたかったからである。
筆頭常務室は20階にある。このフロアは会長、社長、副社長のほか、各重役の個室が並んでいる。この階に上がるとき、今でも気持ちが引き締められる思いになる逸平だった。
10名いる常務取締役の筆頭である山本の部屋はエレベーターホールからいちばん遠い役員専用エレベーターの近くにある。部屋のドア右脇には「販売促進本部長 筆頭常務取締役 山本俊幸」という白地に濃紺文字のプレートがかかっていた。
逸平はドアの前に立つと服装の乱れの有無を確認するとドア横にあるインターホンのボタンを押す。……はいどちらさまでいらっしゃいますか?…… 秘書の声が伝わってきた。
「販売拡張課の姿です。いま、常務からお電話を頂いて……」
……はい、常務がお待ちでいらっしゃいます、どうぞ…… カチッというドアの電気ロックが解除される音がした。
ドアを開けるとそこは秘書室になっている。右側には秘書の机があり、そこにはカスミソウとピンクのバラが生けられた花瓶があった。床はエンジ色の厚いカーペットが敷かれている。
「ご苦労さまです。常務がお待ちでいらっしゃいます。どうぞ……」秘書が執務室のドアを指し示した。「ありがとう」というとドアノブに手をかける。常務室は二重のドアになっていて、ドアのすぐ内側は狭い一室になっていて何もない。次のドアの前には名の知れない熱帯産らしい葉が大きい樹の鉢が置かれていた。ドアをノックするとすぐ山本の声が聞えた。
「はい、どうぞ……」
「失礼します、姿です」とドアを開けながらいう。ドアの目前は不透明な仕切りがあり、左右のどちらかにまわると常務の執務机が目に入る。
「や、ご苦労さま。呼びたててすまなかったな……」山本はイスから立ち上がると笑顔でいう。下ろされたブラインドの隙間から漏れる午後の日差しが、エンジ色のカーペットに縞模様を形づくっていた。
「ちょっと君に尋ねたいことや、指示することがあったものだからな。ま、そこに……」山本は執務机の前にある応接セットを手で示す。筆頭常務の執務室だけあって、豪華な総革張りのソフア、テーブルも大木の一枚板で見事な彫刻がなされた芸術品ともいえる逸品である。
「はい、失礼します」逸平は山本が座るのを待って左側のソフアに座る。
「時間があまりないので、直ぐ要件に入るんだが……」山本はスーツの内ポケットから手帖を出すとページをめくる。
「先月、6月28日、土曜日……君の課の休日出勤要請書を君自身が提出していた日だが、君は出勤せず何処へ行っていた?」山本から先月、6月28日という言葉を聞いた瞬間、逸平は目前を閃光が走ったような感覚を受けた。全身から汗が噴き出す。答えようとするのだが、口の筋肉が硬直していて動かない……
「……」逸平は下を向いたまま。体がわずかに震えていた。
「いえないかね……じゃ、わたしからいおう。君は正午前、熱海駅のタクシー乗り場にいた。それも君ひとりではない。計算センターの三品千鶴君と一緒だった……」
「……」
「わたしが得ている情報は間違っているかね? 姿君……」山本は自分が目撃していたことは伏せていた。自分が目撃していたにしては、日が経ち過ぎていたからだ。
「申し訳ありません。常務がおっしゃるとおりです」山本が意外に思えるほど、逸平ははっきりした口調で自分の行為を認めた。首筋を汗がつたっている。
「三品君との付き合いは何時ころから続いているんだ?」逸平を見据えながら山本がいう。
「二年余りになります」
「君と三品君との交際は君たちのプライバシーに関する問題で、わたしにはそれを詰問する権利はない。しかし、誰が考えても正当な行動ではないことを、君自身がわきまえていることと思う。
女性との交際について改めて君に説教じみたことはいいたくない。しかし、あの日は君が指示した君の課の休日出勤の日だったんだぞ……それなのに課長たる君が、それをエスケープして、そのうえ、女性を伴って熱海旅行をするとは、もってのほか! あきれるばかりだ……人が知る、知らないに関係なく、ことに社内の女性とそういう関係になったことをわたしは許しておくことはできない。いいか、わたしのいうことが分かるか? 姿君……」
「はい……」下を向いたまま、大きくうなづく逸平である。
「もし、こういうことを、課の人間が知ったとしたらどうなる?……君は課の人間ばかりではなく、会社の人間の信頼を失い、場合によっては会社の業務にも支障を与えることになるのだぞ……君が信用を失くすことは自業自得だ。わたしが懸念していることは業務への影響だ。28日の君の行動を課の人間が気づいているかどうか今のところ、わたしは把握していないが、得ている話から推測すると、課の雰囲気がおかしくなっているようなんだが、実際はどうなんだ?」
山本の眉間に幾すじもシワがよっている。気がかりの感情が滲みでていた。
「はい……課の人間の反感が身に刺さるようで、毎日の出社が苦痛になっています。これは天罰で自業自得です。あの28日、家内が私へ連絡することが生じて課の直通電話に電話を入れたのです。青森にいる家内の母が上京してくるため、早く帰ってくれるようにという電話です。この日は家内の誕生日でした。そのお祝いに来てくれたのです。この日が家内の誕生日であることなどまったく忘れていました。そして、この日休むための理由としてもっともあり得ないことと思ってその義母が相談ごとで上京してくるから、出勤できないというウソを三浦君に前々日に伝えておいたのです。まさか、本当に上京してくることになるとは……」
執務机にあるインターホンが鳴り、逸平は話を中断した。山本が立ち上がり受話ボタンを押す。
「はい、なんでした?」
……コーヒーをお持ち致しますが、よろしいですか?……秘書からだった。
「ああ、頼みます。わたしは薄いのにしてくれ……」
……かしこまりました、これからお持ち致します……
「やあ、話し中にすまなかった。それで?……」
「はい、すみません、家内の電話には三浦君が応対してくれ、わたしが休んでいることは伏せて、外出中だということにしてくれました。家内はそのため何の疑惑ももたなかったようです。
三浦君は家内から電話があったことはいってくれませんでしたが、わたしのウソがばれてしまったことからいい難かったのだと思います。課の人たちはみな、わたしがウソをついて騙したことを知っています。家内を騙し、課の人たちも騙して休んだその裏には女性のことがあることくらい、当然疑うはずです。誰でも……」
「やはりそうか、実は調査1課の課長から聞いたんだが、君の課の女子社員の3人が職場の雰囲気がイヤで我慢できなくなったから辞めたいといっているようだ。3人が一度に辞めるなんてことになったら一大事だぞ、中小企業でのことだったらともかく、わが社のような大会社にあっては絶対にあってはならないことだ! その原因は君がつくったことは間違いない事実だ!」
山本の声は次第に大きくなってくる。
「常務がおっしゃるとおりです。私の責任以外の何もありません。我がままを申し上げて本当に恐縮ですが、業務の引継ぎを終え次第に退職させてください。一日も早くこの事態に終止……」
ドアをノックする音で逸平は言葉を切る。
「はい、どうぞ……」山本がドアに向かっていう。
「失礼します……」秘書がコーヒーをもって入ってくる。静かにコーヒーカップやシュガーポットをテーブル上に置くとそっと頭を下げて退室する。
「……私が去ることによって、このゆゆしき事態にピリオードを打てるのではないかと考えています。本当に勝手で卑怯なお願いですが……」逸平は顔を上げると、山本の目を見つめて、きっぱりといった。本来の逸平に戻った観がある。
「よくいってくれた、姿君。しかし、社内の人間が君と三品君の関係まで知っているとは思えない。女性関係があることまでは推測しているだろうが……だが、このままでは示しがつかない。
情報をわたしに寄せてくれた人に対してもな……そこで、ここ数日、わたしが考えそして決定したことを君に伝えておく。これまで二十年近く、よく頑張ってくれた。こんなことがなかったら、来年三月、停年退職する人事部の津布良次長の後任として君を推薦するつもりでいたが、
実に残念だ。ま、それはともかくとして、君を辞めさせることはしない。これまでの大きな功績がある。それで明日の取締役会にかけるのだが、8月1日付け、あと3週間ほどしかない急なことだが、大手海運会社、南海汽船の運輸業務部次長として出向してもらう。出向期間は5年で、この件は南海汽船の名誉顧問で現、運輸大臣、楢本大二郎氏が骨折ってくれた。きのう夜、楢本先生から連絡がはいったが、いまサウジアラビアで地元企業との合弁で、石油積み込み基地を新規に建設する準備をしていて、中東での業務経験が長い君の出向を聞いて、非常に期待しているそうだ。これまでの海外の功績がものをいうんだな。それでと……」
山本はポケットからメガネを出し、再び卓上の手帖を手にすると、話を続ける。
「……社内回覧の出向理由は“南海汽船の中東市場拡張のための中東在住経験者の出向要請”としておく。五年後にはここへ戻ってきてくれ。ポストも開けておく。その間には、とかくの噂も消えているだろうよ」山本はそういうと背もたれに深く体を沈めた。
「温かいご処置を頂いてありがとうございます。喜んでご指示に従わせて頂きます。それで業務の引継ぎはどのようにしたら……」
「ああ、君は今月の31日には神戸に入り、8月1日には神戸の南海汽船本社に出勤してくれ。だから遅くとも今月の25日ころまでには引継ぎを完了して、そのあとは少し休養をとりなさい。奥さんと一緒にな……」冷めかけたコーヒーを口に含みながら山本が優しく逸平にいう。
「そうそう、大事なことをいい忘れていた。明日の取締役会で決定するんだが、君の後任は大阪支社の業販第6課の下山課長を呼ぶ。今週中には着任させるつもりだ。いろいろ急がせるが、君のためということもあるからだ。心してくれ……」
「いいえ、常務。わたしがとった卑劣、恥ずべき行為にもかかわらず、温かいご処置を頂いてただ感謝申し上げるほかありません。ほんとうに有難うございます」逸平は涙を流していた。
山本の温かい言葉に対する感激、そして単身での出向という放出処分への無情感、また自分の不倫という常軌を逸した行動に対する自己嫌悪などが、一気に体の奥から噴出してきて逸平の頭脳をかき乱していた。二十年近くも培ってきた自分の信用と地位がいっぺんに基盤から崩れていく空しさをいやおうなく感じていた。
「なあ、姿君。世間というものは実に狭いものだよ。また、ついていないときには、想像すらできない、在り得ることさえ考えられないことが容易に起きるものなんだ。君たちが熱海で人に目撃されたことも、絶対にないこととして、考えていた奥さんのお母さんが上京してくることなんかも、さらに、君が休日出勤をエスケープして熱海旅行をしているときに、奥さんが会社に電話をしたことも、そのいい例になる。ついていないときは、あり得ないと思われることが幾つも、幾つも重なって起きるものなんだ。天罰といってしまえばそれまでだが、別の考え方をすれば、君に一日も早い反省の機会を与えてくれた天の神からの恵みと考えることもできるんだ。
後者との出会いを考え感謝の念をもてば、将来に向かって明るい幸運の道が拓けるかもしれない。それはもちろん、君の努力とプラスの思考があったら、ということになるけどな。これからはいうまでもないことだが、このような愚かな行動は絶対にしてはならん。刑法でいえば、初犯は執行猶予がつくが、再犯は実刑だ。自重しろよ、これからは……」
心から逸平を諭す山本だった。逸平の南海汽船への出向は社内の非難の嵐から一日も早く逸平を解放してやりたいという一心から考えた山本の苦肉の策だった。
社内での信望が厚く、女性社員たちにとって今もって伝説的な“憧れの人”になっている逸平に対し、多くの男性管理職の面々はこれまでの鬱憤ばらしもあって、「課長資格を剥奪して、平社員にすべき」とする声が増えつつある状態にまで至っていたのである。
「姿君、君の新しい赴任地は神戸だ。家族をおいての単身赴任になることだろうが、5年間だけの我慢だ。環境も仕事の内容もまったく今までと異なったものになるが、それは自分に与えられた試練として受け入れ、頑張ってくれ。また赴任先の宿舎のことや交通など、詳しいことについては南海汽船の庶務担当者から君の内線のほうへ一両日中に直接、連絡が入ることになっているからな……よろしく頼むよ」
「分かりました。有難うございました。これから引継ぎへの準備にかかります。本当にお世話になりました」逸平は立ち上がると深々と頭を下げる。
JR蒲田駅の東口では列車到着のたびに一日の仕事を終えて家路を急ぐ人たちが、バスターミナルやタクシー乗り場へと急ぎ足で歩いていく。そんな人たちのなかに逸平もいた。歩くその姿勢にはいつものような精悍さがみられない。駅の大時計は21時50分を指していた。自宅までのタクシーに乗ってからも帰宅してしてから妻の恵美に説明する言葉を探していた。
さきほどまで、職場の部屋で恵美への弁解のセリフを考えていたが、大筋ではきめたものの、細かことはまだ未完成状態だった。
当然のことだが、千鶴との不倫が発覚して左遷されることになったなどと、ことのいきさつを恵美は知らないと思っている逸平にはいえることではない。実際には恵美から苦しみを打ち明けられたかっての職場での先輩、中垣内冴子が、知り合いである逸平の上司、山本俊幸常務に処置を依頼した結果であることなど、さらさら知るよしもなかった。
「ただいま……」逸平は玄関のドアを閉めながらいう。
「おかえりなさーい、早かったわね……」居間から恵美が出てきた。
「きょうはお珍しいこと、こんなに早いお帰りは……」恵美は皮肉を込めていったつもりだが、どうも逸平には通じていないようだ。ここ最近、自分を裏切り続けている逸平に、何か復讐をしたいと考えていたものの、いまさらそれを実行できるような恵美ではなかった。
「うん、きょう急に出向辞令が出てしまった。8月1日付けで神戸の南海汽船への出向だ……」逸平は廊下をキッチンへと歩きながら話す。意識的にプライドを込めながら……
「ええっ、8月1日…? もうすぐじゃない、なんて急な……」
「ああ、ほんとうに急な話だ。それはそうと、腹が減ったよ、何かある?」
「あ、ごはん、まだだったの? すぐ支度するわね……」恵美は逸平から手渡されたスーツを居間のタンスにしまうとキッチンへ急ぐ。逸平はもうイスに座っていた。
「……南海汽船では以前からサウジアラビアに基地を建設する準備をしているんだが、アラビア語に堪能な社員がいなくて、現地での業務がはかどらないらしい。通訳ではどうにもならないんだな。そんなことを南海汽船の特別顧問をしている運輸大臣の楢本代議士から聞いた山本常務がオレを出向させることにしたんだって。5年の期間でね。なんだか人身御供みたいだよ。オレとしては行きたくないが、山本常務の話を断るわけにはいかない。結局、了承してしまった。オレの後任は大阪支社から今週中に来るそうだ……」
逸平の話を聞く恵美は自分でも不思議なほど冷静だった。自分の苦しみを同僚だった中垣内冴子に打ち明けたときから、こんなことが起きる予感がしていた。冴子のマンションを辞して帰宅する途中で、冴子が逸平の上司である山本常務と親娘のように親しいことを思い出した。
ずっと精神的な重圧に耐え忍んでいた恵美には、そのようなことを思い起こす余裕などなかった。苦しみを打ち明けられる人は冴子しかいなかったのだ。もしかすると常務さんに相談されるかも知れないというわずかな気がかりはあったが、それならそれで、却ってそのほうが早くけじめがつくと、恵美は開き直った気持ちになっていた。いま、夫から聞いた南海汽船への出向辞令は冴子から逸平の行動を聞いた常務が本人にそれを確認し、素早い措置をとったに違いない。
遅い夕食をとりながら、逸平は南海汽船の運輸業務部次長として出向するいきさつを詳しく恵美に説明した。そんな弁解じみた話をする逸平を見ながら恵美は、自分を裏切り続けてきた夫であったものの、自分をとりつくろいながら話す逸平にいじらしさを覚えていた。夫をどうしても憎みきれない恵美。それほど逸平を愛している恵美だった。
「でも、ほんとに急なお話だったのね。もう3週間ほどで神戸へ行くことになるなんて……」
「ほんとだな、ま、南海汽船は東洋自動車の輸出メインラインだし、運輸大臣の楢本代議士の依頼とあっては、いかな常務も拒否できなかったらしい……」恵美がいれてくれたお茶を飲みながらいう逸平だが、その言葉にはこれからの仕事に対する熱意や希望は微塵も感じられなかった。
自分を騙すかのようにプライドを添えて話しているつもりの逸平だが、心にある自己嫌悪感と寂しさは恵美に隠しきることはできない。
「ねえ、あなた、単身赴任で身のまわりのことやっていけるの? 今まで、食事のことも、お洗濯なんかも一度もしたことがないのよ。……心配だわ。わたしも一緒に行こうかしら。青森の母にしばらく来てもらって……」食卓のあと片付けをしながら恵美がいった。実際に、逸平の生活も気がかりだったが、それよりも、正樹と一緒に取り残されることが怖かったのだ。
これまで逸平の帰宅は夜中近くで、相談や会話の時間などまったくなかった。いつも恵美ひとりで留守番をしているのと変わりない状態といえる。それでも夜遅くには帰ってきてくれる。
しかし、神戸への出向となると、居なくなってしまうのだ。そのことは今までとは大きな違いになる。恵美にとって例えようのない苦しみになるように思えた。恵美を騙し、愛人と旅行するような夫だったが、恵美にとってはただ一人、心の支えになってくれていることは事実だ。
いまの正樹には以前のような激しい暴力はなかったが、それでも恐怖の観念はぬぐい去ることはできない。夫がいるときだけが、恵美にとって、しばしのやすらぎを得ることができる時間だったのである。
父親が単身赴任をして長期にわたって居ないということを正樹が知ったとき、どんな態度に出るのだろう……そのことが恵美にとって、いたたまれないほどの恐怖に思えた。今は暴力をふるうことはないが、父親が遠くに赴任したあともそうだという保証は何処にもないのだ。
「そりゃ恵美、恵美が一緒に来てくれることは本当に嬉しいよ。だけど、何カ月も青森のお義母さんに来てもらうことなんか、とても無理じゃないか。お店の仕事があるんだから……」
逸平は帰宅してから初めて笑みを浮かべていった。嬉しくて涙が浮かんでくる……そっと何げないふりをして涙をぬぐった。妻を裏切り続けてきたのに、その仔細を知らないとはいえ、神戸の赴任先へ一緒に行きたいといってくれる妻の優しい言葉がこのうえなく嬉しかった。
「また、寂しい思いをするのはもう、いや……あなたが日本に帰国してからまだ3年しか経っていないのよ……やっとふつうの生活に戻れたというのに、またわたしだけが取り残されるの?
冗談じゃないわ! いやよ、そんな生活は! もう、いや!……いや!」
手にもっていた布巾をテーブルに叩きつけて顔を覆う恵美。声をあげて泣きだした。このような激しい行動をとり、声をあげて泣く妻をこれまで見たことがなかった逸平だ。とまどいとともに妻の激しい心の乱れと感情を思い知らされた。
「なあ、恵美。恵美の気持ちを理解せずにいてすまなかった。一緒に来てくれ。家のことをふと考えて恵美の気持を抑えてしまったが、家のことは長崎のおふくろに頼めばいい。おふくろは毎日、ヒマをもてあましているんだから、ひと月でもふた月でも喜んで来てくれるよ……場合によってはおやじも一緒についてくるかも知れないぞ……これから、電話しようか、善は急げだ……」
「ほんと? わたしも行っていいのね! 嬉しい……一週間でも十日でもいいわ……」恵美は涙に濡れた顔を上げ、エプロンからハンカチを出すと目をぬぐう。
「頼むよ、恵美。オレも単身赴任は心細いさ。ずっと恵美にいてほしい。恵美や子どもたちのことを考えたらオレひとりで行くしかないと思っていたけど、長崎のおふくろに来てもらうことなど思いもつかなかった。これから電話しよう、まだそんなに遅い時間じゃないよ……」
それから数日後、後任となった大阪支社の下山が赴任してきた。マユがうすく小太り、そして目じりがさがった下山の風貌は、何処か福の神とされる「恵比寿」を思い起こさせる。
逸平に対して低い姿勢で接しているが、受け応えのなかにどこか、逸平へのさげすみが感じられた。気のせいかもしれないが……
3年余りではあったが、自分の城としてきた職場を身から出たサビという自業自得の結果によって、他の人間に開け渡す心境は身を切られる思いだった。愛人である千鶴と初めて一泊旅行に出掛けた結果が、これまでのエリートコースから逸平を墜落させることになってしまったのだ。ついてなかったといえばそれまでだが、不倫の愛という世間に許されることがない行動は、大きな天罰となって鉄槌が逸平に下された。逸平への罰はそれだけでは終わらなかった。
これから二カ月後には、妻の恵美が末期ガンで生死の淵を彷徨うことになるとは、このときの逸平には想像すらつかなかった……
7月28日の朝、逸平と恵美は東京駅16番ホームのベンチに座っていた。会社からの見送りもない寂しい出発だったが、そのほうが却って逸平には救いに思えた。
「恵美、今朝、家を出るとき、めずらしく正樹も外まで送ってくれたな。見たか……? 正樹のあの淋しそうな目を……初めてみたよ、あんな可愛い正樹の目は……」
ホームに入線している列車の騒音で、そばにいる恵美にも大声を出さねばならなかった。
「あら、あなたもそう思った? 何もいわなかったけど、あんな正樹の淋しそうな目を見たのはわたしも初めてだわ……ほんとに、一緒に連れてきたいと思った……」白地にブルーの小さな水玉模様が入ったノースリーブのワンピースが恵美によく似合っていた。化粧によって冴えない顔色は隠されてはいたが、膝に置かれた手指の爪は透き通るように白くなり、血色というものは失われていた。このとき既にガン末期特有のひどい貧血状態になっていた。そんな最悪の状態になっていることなど、恵美も逸平も知らなかった。恵美はただ、“生きる!”という本能的な精神力だけで動いていた。そのため現代医学の誤ったガン治療を受ける時間が少なかったからこそ、のちに「全治」という喜びを知ることができたのかも知れない……
「なあ、正樹はなんだかんだといっても、母親の君が長いあいだ留守をするということが、かなりショックになったみたいだな……ゆうべ、君とおふくろがキッチンにいるとき、正樹が居間に来てさ“お母さんはひと月だけで帰ってこれるんだろ?”ってオレに訊くんだ。はっきり“お母さん”っていってたぞ」逸平は正樹の様子を思い出すようにしていった。
「えっ、正樹がお母さんって? そんな言葉、わたし、ここずっと正樹から聞いたことがないわ……でも数日前、神戸へ送る荷物を玄関まで運ぼうとしていたら、正樹がちょうど学校から帰ってきて“そんなへっぴり腰じゃギックリになっちゃうぞ、オレが運ぶよ”っていって全部に荷物を出して……」ホームに案内放送が流れたため恵美が言葉をきる。
……16番線に停車中の列車は8時58分発、ひかり38号岡山行きです。お待たせ致しました。車内の清掃が終わりましたので間もなく乗車側の扉を開きます。前のほうから1号車、2号車の順でいちばん後ろが16号車です。自由席は……
列車編成のアナウンスが続いている。各車両の扉は開いており、乗客が次々と乗車していた。
「さ、恵美、わたしたちも乗ろうか。13号車だからすぐそこだよ」逸平はベンチに置いていたトラベルバッグとビジネスケースを持って立ち上がる。恵美はハンドバッグだけの軽装だ。荷物は全部先にマンション宛に送っていた。
新幹線の車内はほぼ満席に近い。逸平たちの席は二人掛けの席で、車両の中央に近いところだ。
冷房がかなり効いていて寒いくらい。肌寒さを感じた。
「恵美、カーディガンを出そうか、寒いぞ」立ったまま恵美に話しかける逸平。
「そうね、寒いわ。お願いします」恵美は窓側の席に座りながら両腕を手でこすっている。
「もうすこし、冷房の効かせ方を調節してくれないと困るよ。外はそれほど暑いわけじゃないんだからな」トラベルバッグから恵美のベージュ色のカーディガンを出しながら独り言のようにいう。逸平たちの席の反対側では窓から夏の日差しがまぶしいほど車内に差し込んでいたが、ほとんどの人はカーテンをしていない。寒いほどの車内には、心地よい暖かさを与えてくれる。
この夏の東京は梅雨明けの後も、夏らしい暑さは数えるほどしかない。今年は冷夏だと以前から予想されていたが、これほど涼しい夏は近年にないという。
「向こう側の席だったらよかったのにな。暖かい太陽の光を受けることができて……」逸平は小さな声で恵美の耳もとにいう。列車は既に発車して品川駅を通過していた。
「ねえ、あなた、神戸では社員寮はないんですって?」恵美が逸平のスーツの襟を直しながらいう。
「うん、いま急なことだったから神戸市内の賃貸マンションを契約したらしい。神戸市内の摩耶山という山の麓だそうだ。山のなかにある27階建てなんだってさ。生活用具は全部、買い揃えてあるそうだ。当分のあいだはここだろうな。2DKだから、恵美が一緒でも十分の広さだと思うよ。来年の春には豊中寮というところに空室ができるそうだから、その頃、また恵美に引越しのお手伝いを頼むことになりそうだね」
「喜んで来るわよ。でも忙しいことね、あなた……」
「うん、ほんとだ、また来年には引越しになるとはな……」列車は新横浜を通過していた。
「マンションでの生活なんて始めてだわ。なんだか新婚さんみたい……」恵美が笑いながらいう。
「ほんとだね、恵美に来てもらって嬉しかった。正直いって単身赴任したら食事をつくることも洗濯もままならない。学生時代は賄い付きの下宿だったし、洗濯は当時、洗濯機はなかったから、タライと洗濯板で洗っていたよ。まったく、オレひとりだったらどうなることやら……ほんとに恵美、ありがとう……」その目には涙が浮かんでいる。この優しい妻、恵美をないがしろにし、千鶴との不倫の愛にうつつを抜かしていた自分を思い起こし、自虐の念にかられていた。
「あなた、何をそんな滅入ったことをいっているの? 妻として当然のことじゃないの。感謝するんだったら、あなたのお母さんやお父さんに感謝しなくちゃ……ひと月ものあいだ、博樹や正樹たちの世話をしてくださるのよ。お父さんはお母さんがいない寂しさを我慢しておられるの……」逸平の顔を見ながら諭す恵美。心にあった以前のような恨みの気持は完全に消えていた。
ことのはじまりは、自分が会社へ電話をいれたことから……逸平がついたウソがそもそもの原因であることは確かなことだが、それにより社外放出という、夫には耐えられないような処分を受け、いまその新しい任地へ赴く途中なのだ。自業自得の結果であるとはいえ、その許されない行為についての鉄槌はもう下されたと恵美は思っていた。
わたしが許しているのに、これ以上、どんな罰を与える必要があるのだろう……中垣内冴子に苦しみを打ち明けたあと、何らかの動きがあるような予感はしていたが、これほど早く、また思い切った厳しい処分がなされるとは思ってもいなかった。
逸平から出向の話を聞かされた翌日、恵美は冴子に報告の電話を入れた。
「冴子さん、ありがとう。主人、神戸の南海汽船への出向辞令がでたんですって……」
……そうなの。きのうの夕方、山本常務から電話を頂いたわ。ごめんね、常務に打ち明けちゃったりして……恵美ちゃんが帰ってから考えたの。どうしたら、これからいい方向へ進めることができるだろうかって……結局、このままほうっておいたら、恵美ちゃんがもっと苦しむことが目に見えていたから、たまらなくなって常務に電話しちゃったの。ほんとにごめんなさい。こんなに厳しい処分になるとは思わなかった……せいぜい、訓戒か他の部への異動くらいだと思っていた……社外への放出処分だなんて、常務から聞いたとき、びっくりしちゃったわ。ほんとうに恵美ちゃんにお詫びのしようがないと思ってるの……」
「冴子さん、とんでもないわ、主人への処分は当然こと。課の人たちを騙して女の人と旅行していたんだもの。クビにされても仕方がないことだと思うわ。主人、わたしには女性問題のためなんてことは隠していたけど、それはそれでいいと思ってる……これで反省していたらね。それより冴子さんに、いやな役をさせることになっちゃって、申し訳なくて……」
……恵美ちゃん、そんなみずくさいいい方はやめて。わたしに相談してくれたこと、ほんとに嬉しく思ってるのよ。でも、これからが大変ね、姿さんは……
冴子に、しばらくは自分も一緒に神戸へいくことを話した。逸平の監視のためといって……
いくら親しい冴子だといっても、我が子の家庭内暴力を怖れて主人とともに逃げ出すなんてことはいえることではない。主人を監視する気になったという恵美を、強い意思のあらわれだといって冴子は褒めた。神戸から帰ったらまた電話をすると約束して恵美は電話をきる。
恵美のすさんでいた心は、逸平への労わりの気持ちに変わっていた。
「恵美のいうとおりだ。おふくろに感謝しなくちゃな。長崎ではヒマをもて余していたようだが、慣れぬ東京での生活は大変なことだ……孫たちの世話だから楽しみもあったようだが、やはり気をつかうことが多いと思う……博樹や正樹も当然、母親の恵美とは違うから、おばあちゃんとはいってもかなり気を使うことだろうな。オレ、思うんだけどさ、正樹のためには、恵美がしばらく留守をすることが、いちばんいい結果を生むんじゃないかな……寂しさから母親の優しさというものが身にしみて分かると思う」
東京駅のホームで買った缶コーヒーを開けながらいう。
「恵美も飲まないか?」コーヒー缶を差し出す逸平
「うん、ありがとう、わたしはまだいい。ねえ、正樹だけどさ、わたしも、あなたと一緒に神戸へ行くことになってからね、急にやさしくなったような気がするの……さっき話したみたいに、神戸へ送る荷物を全部、自分から進んで運んでくれたり、夕べなんか“何か手伝おうか”なんていってキッチンに顔をだしてくれたの、夕食の後片付けをお義母さんとしていたときに……優しい博樹だって、そんなこといってくれたことはなかったわ。『ありがとう、もう終わったわよ、休んでてね』っていったんだけど、あのときも寂しそうな目をしてたわ。正樹が行ってから、わたし、涙が出てきちゃった、おいて行くのが可哀想で……お義母さんは気づかなかったみたいだけど……」
「へえー、そんなことがあったの……正樹、意外に優しいんだな。いままでは、あんな態度しかみせなかったのに……」
「ほんとに、あなたに『お母さん』っていってくれたんだって? 今まで『あれ』とか『あいつ』っていっていた正樹だったのに……」
「ああ、そういって、実に寂びしそうな顔をしていたんだ。あんな正樹の様子は始めてみた……あの博樹のほうはケロッとしていたのに、余りにも対照的だったな……」
「これまでの正樹は……やはり、わたしへの甘えの行動だったのかしら……もし、そうだとしたら、この一ヶ月は正樹の転機になるかも知れないわね」
正午を20分ほど過ぎた頃、逸平と恵美は新神戸駅のホームにいた。東京はあれほど涼しかったのにここ神戸は蒸し暑い。列車から降りたとたん、むっとする熱気に包まれた、車両からの放熱も加わって息苦しいほどだ。
「うひゃあー、暑いな恵美! サウナに入ったみたいじゃないか!」逸平が悲鳴を上げる。
「ねえ、何かめまいがしそうだわ……」ちょっと立ち止まって呼吸を整えている恵美だ。
「大丈夫か、恵美、ちょっと苦しそうだけど……」
「ええ、もう大丈夫よ。ちょっと息苦しかっただけだわ。でも東京と暑さがまった違うわね」
「ああ、ここ、新神戸の駅は後ろが六甲山で、屏風になって風が抜けないから、一層暑いんだと思うよ。下へ降りると少しは海風に当たれるんじゃないかな……ほら、恵美、この窓から下を見てごらん、ホームの下を谷川が流れているよ。ほら……」
「ホームの下を川が流れているの? どこどこ……?」恵美が小走りでホームの窓に寄る。
「わあー、ずいぶん下を流れているわ。ほんと、谷川の水ね……」恵美が少女のようにはしゃいだ声をだす。久しぶりにきく恵美の明るい声だった。
「うん、谷川だよ。源はこの六甲山の奥で、これが神戸市内に入ると生田川という名前になるんだ……オレが学生時代に友人と姫路へ行った帰りにここへ寄ったんだ。その頃はこの新幹線もなくて、東海道線だけだった……あの頃とこの谷川はほとんど変わっていないな」
「それなら、二十年ぶりくらいの神戸になるわね」
「うん、そのくらいだ。谷川は変わっていないけど、ここから見る神戸の街はすごい変わりようだよ……そりゃ、二十年前といえば大昔ともいえるもんな。さて、恵美、下の改札へ行こうか」
新神戸駅の外に出ると、風の流れがよくなり蒸し暑さはだいぶ解消された。
「恵美、マンションへのバスの便がまだ分からないから、タクシーで行こうや。南海汽船からの連絡ではマンションの名前は諏訪山グランドハイツ、住所はっと……恵美、ちょっと待ってね」そういうと、逸平はスーツの内ポケットから手帖を出して、ページをめくっている。
「……あ、そうそう、中央区2の51……だ。新神戸駅からそう遠くないというから、タクシーで10分くらいだと思うよ」
それから20分ほどあと、逸平たちはこれから当分のあいだ逸平の宿舎となる諏訪山グランドハイツの前でタクシーを降りた。ハイツがある諏訪山一帯は六甲山の一角にある摩耶山のふもとだった。あたりはみな、濃い緑の木々に覆われ、民家の数は少なく、このグランドハイツ以外にはマンションもホテルなどもない。実に静かな環境だった。ハイツは27階建てのまだ真新しい感じの高層マンションだ。外壁は無難なベージュ色で明るい外観になっている。
「わあ、あなた、すごく高い建物! そして、なあに、まるで静かで、山に避暑に来たみたいね。空気は澄んでおいしいし、山の木にあたる風が音を立てている……下に見える神戸市街がなかったら、まるで深山みたい……」
「なあ、ほんとだよ。こんな静かな所だとは思わなかった……もう引越しなんかしたくないよ、ここで大満足だ。だが、賃貸料はだいぶとられるよな恵美。ま、会社の経費だからいいけど」
そんなことをいいながら、逸平は一階の玄関ホールへ行く。
玄関の正面には築山があり、よく手入れをされた松と竹が植えられている。岩の間から出た水が竹の樋を流れ、築山を囲むようにして造られた池に音をたてて流れ込んでいた。
池のなかには玉砂利が敷かれて大小の錦鯉が泳いでいる。
玄関扉の右に全面がガラス張りになった管理人室がある。自動ドアが開き室内に入ると、左側には灰色で背丈ほどの高さのメールボックスがずらりと並んでいた。各ボックスには部屋番号が記されている。
「はい、いらっしゃいませ。何階へ御用ですか?」管理人は六十歳前後と思われる、よく日焼けした男性だった。笑顔が人間的な円熟味を思わせる。
「はい、きょうから入居をお願いしてあるとおもいますが、南海汽船の姿といいます。東京からまいりました……」
「あ、南海汽船の姿さま、統括本部、庶務課の佐橋さまから承っています。お遠いところお疲れさまでした。きょうは暑いですから大変でしたでしょう。ここは静かで涼しいことが摂り得ですが、ちょっと交通のほうが不便で……」
「ほんとに、交通はちょっと不便ですね。新神戸駅の近くと聞いていたんですがタクシーで20分もかかってしまいました。三宮まではバスがあるんでしょう?」
「はい、ここから歩いて5分くらいの所にバス停はありますが、7時、8時台でも1時間に2本ほど、ラッシュ外ですと1時間に1本しかなくて、ちょっと不便ですね……ここにお住まいの多くの方が車をお使いで、このハイツも地下4階までが専用パーキングなんです」
「静かだけど、車がないと少々難あり、ですね。ああ、こちらは家内の恵美です。しばらく一緒にいますがよろしく……」
「あ、ご丁寧に。わたしは管理人の浜田一郎といいます。よろしくお願い致します」
「しばらく、お世話になります。よろしくお願いします」恵美も笑顔で挨拶する。
「さ、それではご契約頂いたお部屋のほうへご案内しましょう。26階の7号室で、お部屋の番号は2607号室になります。もう、お聞き及びかと思いますが南側8畳の和室2間、そしてベランダ付の2DKのお部屋です。お電話はFAX兼用のものが、その他の電化製品も殆どのものが佐橋様からのご依頼で取り付け済みですが、ご入用のものが他にありましたら佐橋様までご連絡頂きたいとのことでした……あ、東京からのお荷物はお部屋のほうにお運びしてあります……」
「……そうそう、肝心なことを忘れていました、すみません。このハイツの玄関ですが、安全性のため、各お部屋毎の番号によるカードを使って開ける形式になっています。姿さまのカードはこれです。ご家族の分として3枚ございます。失くされないようお願いします。ただ、なかから外へ出られるときはフリーで通過できます。カードの使用は不要なんですが……よく、できていましてね。内側から開けられたときに、外部からカードを使用せずにすれ違いざま入る人がいると、すぐセンサーが働いて、管理人室に警報が鳴る仕組みになっています……さ、お待たせしました。ご案内します」そういいながらカウンターにあるインターホンに「これから、お客さまを案内してくる。頼みます」といい残し玄関ドアへ向かった。
逸平たちは管理人に案内されて26階の自室の前にいた。
「入口ドアはホテルと同じように電子ロック型式です。このカードをこの読み取りセンサーへ縦に入れて、今、赤ランプになっているでしょ?……そこへ、こういうようにね、ゆっくり通します、早く通すとエラーになって開きません……ゆっくりやってください……」ピッという電子音がして、ロックが外れるカチッという音がした。同時にランプは緑色に変わる。
「……それから、ここに、電話番号のようなボタンがあるでしょ? これはカードなしで開けるときの暗証番号入力ボタンです。のちほど、5桁の番号をお考え頂いて、この赤ボタンを押しながらその番号を入力してください。これは管理人も知らない、お客様だけの暗証番号ですから、忘れないように何かにメモしておいてくださいね。そして決して番号は他言されないように。おわかりのことと思いますが……」
「はい、わかりました。やあ、簡単そうだけと、番号のほうとなると、ちょっと厄介そうだな、でも恵美、あとで練習しとこうよ……」
ドアを開けると室内からむっとする畳や壁の臭いが廊下へ噴きだしてきた。ずっと閉じられたままだったらから当然のなりゆきだ。
「わあ、熱い空気!」恵美が悲鳴を上げる。
「これは、ひどい! ご入居は姿様が始めてなんですが、家具類があるから閉めきっていたもんですから、ちょっと空気が悪い。直ぐ窓を開けます」
管理人が手早く、すべての窓を開けていく。とたんに、涼しい山の空気が入ってきて、一気に室内の換気が進んでいった。
「わあ、すごい景色! あなた、見てよ。神戸港の向こう、太平洋までみえるわ!」
恵美が感激して大きな声を出す。高層マンションからの展望は格別だった。摩耶山の中腹というだけでも高い位置なのに、さらに高いビルの上にいるのだ。みていると、彼方の海上へ飛び立っていきたいような衝動に恵美はかられていた。
「ねえ、管理人さん、近くには買い物に行けるスーパーなんかはあるんですか?」恵美が尋ねる。
「はい、ここから歩いて5分ほど、右へ行きますと“スーパー・おおとり”という大きなスーパーマーケットがあります。食料品から日用品、衣類、電器製品まで、デパートなみに何でも揃っています。ご安心ください……」
「ああ、よかった。そんなに近くにスーパーがあれば、毎日、お買い物ができるわ。よかった……」恵美がベランダから大きな声でいう。今までにない大きな声だ。これからの新しい生活の始まりに生きるひとつの喜びを得たようだ。
窓外のベランダには丸い小さな木製らしいテーブルと、背もたれのある木のイスが二つおかれていた。夕暮れなどはそこから神戸市街の、ほぼ全域の美しい夜景を見わたすことができる。
「それでは、わたしは下に降りますが、なにかご不明なことがありましたら、内線電話をください。ただの9番でつながりますから」管理人が頭を下げて退出する旨の挨拶をする。腰が低く愛想のいい管理人である。
「あ、ありがとうこざいました。また、いろいろとお世話になります」逸平と恵美は声を揃えるように礼をいい頭を下げた。
「ねえ、あなた、すごくいいねところね。わたし、何ヶ月でもここに居たい……東京とはまったく違う別天地だもの……東京に帰りたくない……」恵美が遠くを見ながらつぶやくようにいう。
そういいながらも、博樹や正樹のことを脳裏に思い浮かべていた……
だが、恵美にとって逸平との二人だけの旅立ち、またひと月だけの短いあいだだけではあったが、逸平とのみずいらずの生活が出来ることに心が弾んでいた。逸平にとっては社外放出の出向命令という厳しい制裁措置だったが、恵美には幸せなときをすごす願ってもない機会になった。
いいようのない喜びに心が弾んでいた。衰弱した体ではあったが足が軽く感じられる……
それより一時間ほど前、東京の逸平の自宅では祖母の和江が昼食の支度を終わって、キッチンから庭にいる博樹と正樹を大きな声で呼んでいた。「博ちゃん、正ちゃん、ごはんよ……」
博樹はめずらしく正樹から誘われ、昼から近くの新境川へ釣りに行く準備をしていた。「はーい、いま行く……ちょっと待っててえー……」と正樹が明るい声で返事をした。
「お兄ちゃん、コイ用のねりえにはさ、このサナギ粉にニンニクを少し混ぜると、喰いがだいぶよくなるんだってさ。あとで、配合を変えたエサを二、三種作っておこうよ……」正樹が久しく使わなかったリール竿の仕掛けを調節しながらいう。
父母が神戸へ出発したきょう日曜日、東京も快晴だった。朝から正樹は博樹の部屋に入りびたりで、ふたりでゲームソフトで遊んでいた。正樹のこんな様子は何年ぶり或いはそれ以上昔からなかったこと……博樹はめんくらっていた。 ……正樹め、お母さんがしばらく居ないから淋しくて仕方がないんだ、えらそうな態度をとっているけど、お母さんが大好きなんだ、だから逆の態度にでて、お母さんをいじめていたんだよ0。心のままに素直に出ればいいのに、正樹のヘソ曲がりめが! ……と思っていたが、慕ってこられれば、やはり兄弟である。すぐ打ち解けるもの。
博樹も正樹が可愛くなり、出来る限り相手をしてやっている。
「よっしゃ、まずメシを食ってからだ、正樹、おばあちゃんが待ってるからな……」
「うん」正樹と博樹は玄関へ一目散に走りこむ。
「わおー! 家のなかは真っ暗だよ。何もみえないや……」正樹がふざけて手で前方を探るしぐさをしてみせる。
「オッ…焼きソバ? 正樹、やったぜ! おばあちゃん、オレ、前から食べたいと思っていたんだよ。やったぜ!……」博樹が嬉しそうな声をだす。
「よかった。でも、おばあちゃん、久しぶりに作った焼きソバだから、味に自信がないの……博ちゃんや正ちゃんの口に合うかどうか……」和江は心配そうだ。
「うまい、おばあちゃん、お母さんが作るやつより、おいしいくらいだ!」正樹が浮き浮きした嬉しそうな声を出す。きのうまでの正樹とはまったく別人だ。母がしばらくいない寂しさを明るい態度で押し隠そうとしているのかもしれない。
「ねえ、おばあちゃん……」博樹が改まったような口調で祖母に問いかける。
「はい、なあに……」和江は孫の顔を優しい笑顔で見つめながらいう
「おばあちゃんは長崎に住んでいるのに、東京の言葉が上手なんだね、ほんとうに東京の人とおんなじだよ。前から思っていたんだけどさ、あの、“ばってん”っていう長崎ことばで話すんだとばかり思っていた……青森のおばあちゃんは、ときどき、ほとんど意味がわからない津軽弁で話すことがあるけど、おばあちゃんは、いつも東京弁だもの……」
「おばあちゃんも、長崎の人たちと話すときは長崎弁を使うけど、おばあちゃんは長崎弁というのは好きになれないのよ。何か強い感じがしない? たとえば“きょうは天気がよかばってん、暑かよう”なんていったら、人はよけいに暑く感じるような気がしてね。今では長崎にいてもね、標準語で話すことが多くなったわ。おばあちゃんね、おじいちゃんと結婚するまでは、こうみえても東京に8年余りいたのよ。練馬の石神井に……」
「やっぱりな、おばあちゃん、長いこと石神井にいたんだ! どうりで東京弁が上手なんだよ」正樹が改めて尊敬するように、まじまじと祖母の顔を見る。
「東京の女子大を出てから、池袋のデパートに4年ほど勤めていたときに、急に長崎の父からすぐ帰って来いという、そのころは電話なんかなかったら、電報が届いたのよ。理由も何もわからないままにね……」
「誰か急病になったの? 家の人が……」博樹が真剣な顔で祖母の顔を見つめる。
「いいえ、それはお見合いのための呼び出しだったの。その相手があなたたちのおじいちゃんなの……」
「へえー、初めて知ったな、おばあちゃんの履歴書を。じゃ、おばあちゃんは、たった1回、初めてのお見合いで結婚しちゃったの?」ウーロン茶のグラスを手にして正樹がきく。
「そうよ、初めてのお見合いで結婚しちゃったの。ここだけの話よ。お父さんやお母さんにも内緒よ。その頃のおじいちゃん、すごく男まえだったの。おばあちゃんのほうが、ひとめ惚れしちゃった……」和江は内緒ばなしのように、声を潜めて話す。
「わあーすげえ、おばあちゃんのラブロマンスだね……」博樹が手を叩いて大声でいう。
博樹や正樹の母が父とともに神戸の任地へ出発した日、姿家のお昼は祖母の若き日の思い出ばなしに花が咲いていた。話にはしゃぐ博樹や正樹が、しばらく母親が留守をすることへの寂しさを、懸命に忘れようとしているのだと和江は感じていた。
外は真夏の太陽が輝いているものの、相変わらず夏らしい暑さは感じられない東京だ。
逸平が神戸の南海汽船本社に出向してから、早くも1ヶ月以上が過ぎていた。
相変わらず神戸市は猛暑が続いている。きのうは9月の初めだというのに、39度4分という体温よりも高い気温を記録していた。きょうの土曜日も、きのうと同じような猛暑になるだろうと予報ではいっている。
逸平と一緒に居てくれた恵美も、昨日、新神戸駅から逸平が一緒に行くというのをきかず、一人で帰京し、東京駅からはタクシーで自宅へ無事到着していた。恵美の帰着を誰よりも待ちあぐねていたのは正樹だったという。恵美が着くと玄関の外まで跳ねるようにして飛び出してきて、母親を気づかい、腕をとるようにして居間まで連れていった。
恵美は涙声で正樹が母を大事にしてくれる様子を電話で報告してくれた。逸平にとって何より気がかりだったことがなくなり、逸平は休日の午後を座布団を枕にしてマンションの自室でのんびりと横になっている。テレビでは午後のワイドショウが放映されていた。
逸平はそんな画面をぼんやりと見ながら、また千鶴のことに思いをはせている。
来週、9月9日、土曜日には札幌支店での会議に出席するが、今のところは比較的時間のゆとりがある毎日が続いていた。
恵美が東京へ帰ってからは、毎朝、トーストにコーヒー、昼は本社の社員食堂、夕食は外食ときまっている。帰宅してからは部屋でごろごろしているのが日課になっている自堕落な生活になってしまった逸平である。きょうの休日は久しぶりに自分で夕食をつくるつもりにしている。休日にわざわざ、外へ食事に行くのは面倒だし、スーパーで売られている弁当を買うことは、余りにも侘びしいことに思えたからである。何をすることもなく寝転がっているとき、かならず妻の恵美ではなく千鶴との愛の情景が浮かんでくる。
東京で東洋自動車にいた頃はまず土曜日は、千鶴との愛の時間にあてていたが、ここ南海汽船へ出向してからは千鶴と逢うことなどできるはずがない。神戸へ出発する数日前、千鶴のアパートに会社で記した手紙で、神戸へ出向することになり急遽、任地の神戸へ出発することになったことと、このマンションの住所と電話番号を伝えておいた。出向することになった理由については何も書かなかった。千鶴が既にわけは知っていると思ったから……そして文末には9月初めまでは妻も一緒だということを、念のため記しておいた。万一、千鶴が電話をくれることがないようにという予防策で……予測どおり千鶴は社内にくまなく流れている噂によって女性問題が原因になって社外放出という処分をされたことを知っていた。ただ、その女性が自分であることまでは知られていないという確信をもっていた。だが、会社の上層部がなぜ、逸平のことを知ることになったのか全くわからなかったが、逸平への申し訳なさ、もっと早くけじめをつけなかった自分への嫌悪感、さらに再び逸平に逢うことができなくなってしまったことに、身の置きどころがない寂しさにさいなまれていた。
そんな千鶴の心を逸平はそれとなく感じとってはいたが、それを伝えることはできなかった。千鶴を一層に苦しめることになりそうに思えたからである。
責められるとしたらそれは自分……千鶴には何の落ち度もないこと。苦しみを自分の胸のなかに包み隠す千鶴に、心のなかで詫びていた。8月いっぱいは妻がいることを伝えておいたが、9月になってからは毎日、千鶴からの電話を待つようになっていた。自分から電話することは簡単だったが、もしも千鶴の心が逸平から離れていたときのことを考えると怖かったのだ。自分のブライドを優先する逸平のずるさを見せる一面といえる。
過ぎし日の千鶴との時間を思い起こしているうちに寝込んでしまった逸平。 ルルル…ルルル…電話が鳴りつづけていた。部屋はもう薄暗くなっている。……電話だ! 千鶴か?…… テレビ上の時計を見る。デジタルの数字は17:22を示していた。
逸平は電話台まで這い進むと受話器をとる。慌てた拍子に卓上のグラスを落とし、残っていたコーヒーをカーペット上にこぼしてしまう。「はい、お待たせしました。姿です……」
そういいながら逸平は靴下を脱ぎ、それでこぼしたコーヒーを拭き取る。
……恵美でーす。お昼ねでもしてた?……
「やあ、恵美。うん、三時間ほど眠っていたようだ。電話の音で目が覚めた……」
……ごめんなさい、起こしちゃって。どうしてるかなって思って……
「ありがとう、恵美。東洋自動車にいるときは味わうことができなかった、マイライフというものを楽しんでいるよ。それより恵美、君のほうの体調はどうなんだ? おとつい家に着いたという電話のときには、ちょっと疲れたような声だったけど大丈夫なのか?」
……あら、そんな疲れた声だった? べつに変わっちゃいないわよ、ピンシャンしてるわ……ねえ、それよりあなた、正樹なんだけど、まったく以前の正樹じゃなくなってしまったわよ。ほんとにいい子になっちゃったの。わたしに、すごく気を使ってくれてね、帰った日からずっと皆んなと一緒に食事してくれるし、食事後の片付けまで博樹と一緒になってしてくれて、長崎のお義母さん、出るまくがないって、こぼしていたわ。明日、一度、長崎へ帰ってまた折りをみて来るっていっておられた……今夜にでも、あなた、お礼の電話をしてくれない? 今お土産を買いに品川まで行っておられるの……
「そうか、そんなに、正樹が変わってしまったとはね。嬉しい変化だよな……それから、今夜、電話するよ、おふくろにお礼の……」
……お願いします。正樹と博樹、今朝早く暗いうちから、近くの新境川へコイを釣りに行ったんだけどね、50センチ以上もある大きな真鯉を2匹釣ってきたのよ。みんなに見せてからまた正樹が自転車で元の川に戻してやってきたの。二人はお昼に、食事をしながら釣ったときの話を競争するように話してくれた……また、そのあとで正樹がわたしの肩をもんでくれたのよ。夢みたいな気持だった……幸せで、そのとき涙が出てきちゃった……
恵美の声が感激で涙声になっきた。
「正樹は恵美がこちらにいた1ヶ月で母親がいない寂しさを痛感したんだな……」
……そうだったのかもね、お母さん、お母さんて慕ってくれて、ほんとに可愛い子になっちゃったの。わたし、嬉しいんだけど、なにか怖いような気がするの……何か悪いことが起きる前兆じゃないかと思って……あなたに何か起きるんじゃないかと心配になって電話したの。余りにも急に良いことことが続いているのよ……恵美の声には喜びのなかにも不安がまじったとまどいを感じられた。
「そんなこと、恵美。ほんとに素晴らしい事実であって、悪いことの前兆になんかなるわけないじゃないか……オレも元気そのものだし、あとは恵美が元気になってくれれば、このうえない幸せになるんだ、恵美。しかしよかったな、正樹がそこまでいい子に変わるなんて。恵美が戻ったら、またあの暴力がはじまるんじゃないかと、心配していたんだよ」
……そんな気配はまったくない、その反対よ。ほんとに別人なの、今までのことが夢だったのかしらと思いたくなるほど……お昼のときもね、ちょっと胃が痛くなったから目を閉じて、痛みがすぎるのを待っていたら、正樹が気づいて、お母さん、また痛くなったの? っていって、わたしの後ろへ来て、背中をやさしく、さすってくれるの……恵美の声は嬉々としていた。
「なあ、恵美の胃はまだときどき痛むのか?」
……ううん、すぐ治っちゃったわよ。胃がときどき痛むのは、わたしの持病みたい……
「でも、また痛むようになったら、一度、病院で見てもらえよ、新しい保険証は恵美にわたしてあったものな?」
……ええ、もらってる。こんどまた痛んだら病院で診てもらうわ。あなたも気をつけてね、冷房を入れたまま眠らないでくださいよ。体によくないから……
「大丈夫だよ、気をつける。恵美も体に気をつけてくれよ、無理しないで……」
……はい、はい、あなた。わかりました。晩ご飯どうするの? また外食にするの?……
「いや、きょうは自分で作るよ。フライ用の冷凍アジがあるからアジフライを作るつもりだよ。キャベツもいっぱいあるしね」
……がっばってね、あなた。また折りをみて、そちらへいくわ……
「ありがとう、来てくれるのを待ってるよ。正樹が良い子になって、ほんとうによかった、ありがとう、恵美……」
正樹が別人のように良い子に変わったという恵美の電話に安堵を覚えた反面、恵美と同じように何か不吉なことが起きる前兆ではないかという懸念を、逸平も抱いていた。その懸念というのは恵美が病気で倒れるのではないかという恐れだ。
恵美が神戸にいるあいだも、食事中、ときどき箸をやすめて顔をしかめ、痛みに耐えていることや、食事をまったくとらないときもあったからである。
「夏ばてなの、心配しないで、あなた。暑くなるといつものこと。神戸はまたとくに暑いものね」と笑っていたが、東京へ帰るときにはまた痩せて、骨と皮だけといえるほどになっていた。
恵美は気づかなかったが、毎日の下血で歩けるのが奇跡といえるほど、極度に体力が減退していた。末期の多臓器ガンで、ふつうなら立ち上がるだけでも無理なのに……
恵美はただ、精神力だけで生きていた。神戸から帰ってきたときひどく痩せて、玄関の外から正樹に抱えられるようにして帰ってきた恵美の姿に、家族の皆は目を疑うばかりだった。前日の夜、神戸からかかってきた電話の声は、そんな衰弱など予想も出来ない元気な声だったのに……玄関の上がり口に座り込んだまま、苦しそうな呼吸でしばらく動くことができなかった。顔を両手で覆ったまま動けない母を、正樹はそっと抱き起こして静かに寝室までつれていった。兄の博樹も祖母の和江も呆然としているなかで、正樹が手早く母を抱き起こしたのだ。これまで、ことあるごとに母親を傷めつけてきた正樹には、このやつれ果てた母の様子は表現しようのない恐怖だった。母がこのまま死んでしまうのではないか?!
母をここまでやつれさせてしまった原因には、これまでの自分の行動が大きなウエイトを占めているこが分からない正樹ではない。母親を憎んでなどいない、それとは逆に大好きだった。だがその気持を正直に示すことがどうしてもできなかった。その理由は正樹にもわからない。
母親が日をおって体調を崩していくことが正樹は以前から気づいていた。それでもなお、母への気づかいを示す気になれない。いま急に母への態度を変えることに大きな抵抗があった。自分では分からないものの、その変化にタイミングが必要だった。そんな正樹にとって、母がひと月余りも留守をしたことが正樹の行動を変える絶好のチャンスになった。また、そればかりではなく、母のいない寂しさを十分以上に味わっていた。母が神戸から帰ってきたとき、家族の前でなかったら、母の胸にすがりついていたかもしれない。それほど正樹には母を慕う心が強まっていた。
神戸から帰ったその日には、疲れがひどく休んだものの、次の日からは今までにない平和で楽しく充実した毎日だったが、恵美の体はさらに悪化していくようだ。わずかしか口にしない食事だが、食べて1時間もしないうちに、激しい胃の痛みと吐き気に襲われていた。吐こうとしても何も出てこない。吐こうとすると胃の痛みがいっそう強まってくる。痛みのため、しばらく便器に手をついたまま立てないことが多くなっていた。
明日こそは病院へ行こう、と思いながらも、診断される病名を考えるとき、怖ろしくて行けない恵美。もうかなり進行した胃ガンであることに気づいていた……
逸平は食事をしながら、夕刊に目をとおしている。 夜7時の報道番組では中東イラクへの制裁措置強化が国連の理事会で議決されたというニュースが流されていた。
ルルル…ルルル…電話がなる。急いで立ち上がり電話台上の受話器を手にする逸平。
「はい、姿です……」
……電話に声がない。
「もしもし、姿ですが……」やはり声はない。ただ逸平の声を聞いているだけだった。
「千鶴か?……」逸平は声を潜めていう。
……あなた! わたしを覚えていてくれたのね……
「なんで、忘れることなんか出来るものか千鶴! こちらに来てからも毎日、きみのことを想っていた。忘れるなんて……」
……嬉しい! あなた、奥さまはお帰りになったの?……
「うん、三日前に帰ったよ。今はひとりだ。よく電話をしてくれたね千鶴、きみの声が聞きたかった……」
……あなたに電話しようかずいぶん迷ったわ……もし、奥さまが出られたらどうしようかと思って。でもよかった、あなたひとりで……
「元気にしてたか? 手紙だけで、逢うこともなく、こちらに来てしまったから、毎日、気になっていたんだ」
……ええ、元気。でも寂しい、逢いたいのあなたに! 何度も手紙を書いてみたんだけど、奥さまがおられるところに、とても送ることなんかできないわ。みんな破って捨ててしまった……ねえ、あなた、そっちへ行ってもいい? 行きたいの!……涙声になる千鶴だ。
「いいともさ、でも、もっといい方法があるよ。来週の金曜日、13日だけどさ、札幌へ出張するんだ。それで14日の土曜日のお昼前には会議が終わる。だから千鶴、14日のお昼ころ千歳に着く便でおいでよ。15日と16日は連休だろ? 敬老の日の振替だ。ふたりで北海道をまわろう、レンタカーで。航空券やレンタカー、ホテルなどの手配はわたしがしておく。航空券も直ぐとって千鶴のもとに送るから、きみは千歳に来てくれるだけでいい。いっしょに北海道を見ようよ千鶴……」千鶴に再び逢えそうだと思うと逸平の心は弾む。
……北海道……?……
「うん、神戸へ来てくれるのは嬉しいけど、千鶴といっしょに北海道へ行けるチャンスなどまず来ないと思うよ。札幌へ来てよ、千鶴、平野部でも紅葉が美しい頃だ……」
……うれしい、行くわ。北海道なんて夢みたい!……千鶴の嬉しそうな声が伝わる。
「あした、金曜日にすぐ手配するよ。金曜日のお昼過ぎに千歳へ着く便をとるね。くわしくは明日の夜、きみのところへ電話するよ。夜の8時ころには居る?」
……ええ、いる……よかった、電話して。もう逢ってもらえないかと思っていた。ありがとう、あなた……
「わたしには、千鶴はなくてはならない人なんだ。そばにいたなら、力いっぱい抱きしめたい!」
……うれしい、あなた……千鶴はささやくような小さな声でいう。
「ほんとうに、ありがとう、千鶴。もし、あと何日かきみからの電話がなかったら、わたしから電話をしていただろう……ありがとう。じゃ、明日の夜、8時ころに電話をするからね」そういいながら逸平は静かに受話器を置く。この神戸まで社外放出されるという処分が、どうしてなされたかを既に忘れているとしかいえない逸平である。不倫の愛を今でも追いかけていた。妻の恵美が逸平の不倫を許し、重い病のなかでも逸平を慕いつづけているというのに……
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