事故の状況があるのに、再稼働をなぜ許すのか、戦争できるような体制をどうして作るのか
「事故の状況があるのに、再稼働をなぜ許すのか。戦争できるような体制をどうして作るのか。:大島堅一氏」 原子力・核問題
https://twitter.com/kenichioshima
日本環境会議東京会議始まりました。
まず、寺西俊一理事長の挨拶。
続いて、宮本憲一先生の講演。
戦争は最大の環境破壊。
このようなことが起こらないようにすることがまず重要。
人気blogランキング <-- クリックしていただくと、より多くの方に読んでいただけます。応援よろしくお願いします。
敗戦後は飢餓状態から始まった。
国は、1960年、国民所得倍増計画以来、経済成長に重点をおいて発展を進めた。
しかし、その過程で、日本は先進国が経験すると思われるあらゆる公害を経験した。
企業は安全投資を節約、政府は公害防止の政策を持っていなかった。
経済復興期から、水俣病、イタイイタイ病が発生。
経済成長のモデル、四日市で、1000人を超すぜんそく患者が発生。
四日市は白砂青松の美しい地であったが、公害地域になってしまった。
この四日市のような状況が、政府の戦略そのものだった。
全国にこのような計画が進んでいった。
その結果、全国に四日市と同じような公害が広がった。
水俣病は、魚に原因があった。
熊本大学研究班は水俣病の原因が有機水銀にあることをつかんでいたが、政府はこれを採用しなかった。
政府は水質二法を水俣に適用せず放置した。
当時の学会はどうであったか。
公衆衛生学では研究が進んでいた。
しかしその他の学問、特に社会科学、経済学はほとんど関心を持っていなかった。
私は、地域開発政策を調べることで、四日市公害にぶつかった。
私は、地域開発は福祉のためにあるのであって、公害は許されないと考えた。
私が衝撃を受けたのは、深刻な公害問題を経済学が扱い得なかったということだった。
公害は、労働や子供に影響が出る。
国民経済に影響が出ない、むしろGNPが大きくなる、と。
美しい海岸の価値は経済学ではゼロ。
むしろ美しい海岸がなくなることによって、国富が増えるという認識。
学会は、ほとんど公害に関心がなかった。
当時、都留先生が公害研究委員会を結成。
7人しかいなかった。
実際に国民には大きな迷惑をかけてるにもかかわらず、科学の対象となっていなかった。
1964年に庄司光先生と一緒に『恐るべき公害』という本を書いた。
その当時、国語辞典に公害という言葉はなかった。
しかし、足尾鉱毒以降、公害はずっとあった。
高度成長期、東京や大阪はスモッグが日常的にでていた。
大阪は、空気ににおいがあり、青紫の色をしていた。
日中、車がヘッドライトをつけて走っていた。
川のにおいもすさまじく、地盤沈下も激しかった。
今からみれば、地獄図のような状況だった。
最近、高校生向けに講演をした。
当時の日本は今の中国のような公害の状況だったと言った。
だが、全く信じてもらえなかった。
これをどうして克服したのか。
もちろん、完全に克服はしていないが。
高度成長時代を振り返ると、私は、この深刻な公害を克服した教訓を学ぶことが必要であると考える。
また、アジア諸国にとっても教訓になると考える。
どうして公害を克服するようになったのか。
公害問題の特徴は、公害におかされたといって告発しなければ見えないことだ。
とりわけ、公害は非特異性疾患が多い。
自分が被害に遭っていることを被害者自らが手を挙げた。
これをしないと社会問題化しない。
被害者、市民が自らの人権問題としてとらえたことが出発点となった。
成果は、静岡県の三島、沼津の石油コンビナート反対運動となってえられた。
政府は、四日市を遙かに超えるコンビナートを作ろうとしていた。
一般市民が、ノーモア四日市を掲げて反対運動を展開した。
国立遺伝研究所の研究者が協力、沼津高校の教師が日本で初めてアセスメントを実施。
日本の公害対策は下からでてきた。
これがドイツと違っているところ。
それに対して政府も慌てて調査団を結成。
古川調査団の報告書には、公害の恐れなしと書かれていたが、地元の調査団が誤りを指摘して、対決。
あらゆる階層の人々が反対。
政府がやろうとしていた計画を市民運動が覆した。
その後、市民運動は日本各地に広がった。
福祉問題、公害問題に関する運動が全国的に広がっていった。
地方自治体の首長がかわり、革新自治体が多数登場。
人口の半分規模に。
東京都の美濃部都政は画期的な公害防止条例を施行した。
政府や経済界にとっては大ショックだった。
公害対策基本法をつくるきっかけとなった。
最初の公害対策基本政策には、経済と環境を調査させるという条項がはいっていた。
これは調和論という。
実際には、企業が環境に優先するということになってしまう。
内容は、大変ルーズなもの。
東京都新宿、北九州戸畑の水準が基準になった。
つまり、これ並みであればやっていいということになってしまった。
これでは規制にならない。
そこで東京都は画期的な条例をつくった。
企業が規制を守らなければ、水道を止めるという条例となった。
国は東京都に対していやがらせをした。
NHKの1970年の世論調査では、成長よりも環境保全を求める人が多くなった。
政府はこれを受けてこれ以上ルーズな公害対策基本法を続けるのには意味がないことに気づいた。
公害国会で調和論を捨て、生活環境優先の法律になった。
翌年、環境庁発足。
これは、各国同じような時期になった。
もう入口で終わってしまいそう。
その頃、各国には政策がなかった。
そのため、政策担当者も市民も独創した。
自治体を変えていった。
それができないところでは、公害裁判をおこした。
被害者が全生命をかけて裁判を始めた。
それは非常に困難だった。
人格権の侵害、疫学調査に基づいてたたかっていった。
自治体の力を最大限利用する。
司法で最大限たたかう。
さまざまな困難を克服し、1970年代に公害を克服していった。
残念ながらそれ以降後退していった。
ここから日本環境会議の話になるはずだったが、時間が来てしまった。
メディアをみていると絶望的な状況。
事故の状況があるのに、再稼働をなぜ許すのか。
戦争できるような体制をどうして作るのか。
憲法を守って、人権を主張し、自治体・行政を変える。
公害裁判で勝訴していく。
これまで積み上げた教訓に学び、克服していかなければならない。
宮本先生、ワイトナー先生のお話とても面白い。
ワイトナー先生は大変日本の環境運動、環境政策に詳しい。
なぜ、日本が環境政策上、落伍者になったのか、ドイツと比較しての分析でとても面白いレクチャーだ。
日本環境会議東京会議始まりました。
まず、寺西俊一理事長の挨拶。
続いて、宮本憲一先生の講演。
戦争は最大の環境破壊。
このようなことが起こらないようにすることがまず重要。
人気blogランキング <-- クリックしていただくと、より多くの方に読んでいただけます。応援よろしくお願いします。
敗戦後は飢餓状態から始まった。
国は、1960年、国民所得倍増計画以来、経済成長に重点をおいて発展を進めた。
しかし、その過程で、日本は先進国が経験すると思われるあらゆる公害を経験した。
企業は安全投資を節約、政府は公害防止の政策を持っていなかった。
経済復興期から、水俣病、イタイイタイ病が発生。
経済成長のモデル、四日市で、1000人を超すぜんそく患者が発生。
四日市は白砂青松の美しい地であったが、公害地域になってしまった。
この四日市のような状況が、政府の戦略そのものだった。
全国にこのような計画が進んでいった。
その結果、全国に四日市と同じような公害が広がった。
水俣病は、魚に原因があった。
熊本大学研究班は水俣病の原因が有機水銀にあることをつかんでいたが、政府はこれを採用しなかった。
政府は水質二法を水俣に適用せず放置した。
当時の学会はどうであったか。
公衆衛生学では研究が進んでいた。
しかしその他の学問、特に社会科学、経済学はほとんど関心を持っていなかった。
私は、地域開発政策を調べることで、四日市公害にぶつかった。
私は、地域開発は福祉のためにあるのであって、公害は許されないと考えた。
私が衝撃を受けたのは、深刻な公害問題を経済学が扱い得なかったということだった。
公害は、労働や子供に影響が出る。
国民経済に影響が出ない、むしろGNPが大きくなる、と。
美しい海岸の価値は経済学ではゼロ。
むしろ美しい海岸がなくなることによって、国富が増えるという認識。
学会は、ほとんど公害に関心がなかった。
当時、都留先生が公害研究委員会を結成。
7人しかいなかった。
実際に国民には大きな迷惑をかけてるにもかかわらず、科学の対象となっていなかった。
1964年に庄司光先生と一緒に『恐るべき公害』という本を書いた。
その当時、国語辞典に公害という言葉はなかった。
しかし、足尾鉱毒以降、公害はずっとあった。
高度成長期、東京や大阪はスモッグが日常的にでていた。
大阪は、空気ににおいがあり、青紫の色をしていた。
日中、車がヘッドライトをつけて走っていた。
川のにおいもすさまじく、地盤沈下も激しかった。
今からみれば、地獄図のような状況だった。
最近、高校生向けに講演をした。
当時の日本は今の中国のような公害の状況だったと言った。
だが、全く信じてもらえなかった。
これをどうして克服したのか。
もちろん、完全に克服はしていないが。
高度成長時代を振り返ると、私は、この深刻な公害を克服した教訓を学ぶことが必要であると考える。
また、アジア諸国にとっても教訓になると考える。
どうして公害を克服するようになったのか。
公害問題の特徴は、公害におかされたといって告発しなければ見えないことだ。
とりわけ、公害は非特異性疾患が多い。
自分が被害に遭っていることを被害者自らが手を挙げた。
これをしないと社会問題化しない。
被害者、市民が自らの人権問題としてとらえたことが出発点となった。
成果は、静岡県の三島、沼津の石油コンビナート反対運動となってえられた。
政府は、四日市を遙かに超えるコンビナートを作ろうとしていた。
一般市民が、ノーモア四日市を掲げて反対運動を展開した。
国立遺伝研究所の研究者が協力、沼津高校の教師が日本で初めてアセスメントを実施。
日本の公害対策は下からでてきた。
これがドイツと違っているところ。
それに対して政府も慌てて調査団を結成。
古川調査団の報告書には、公害の恐れなしと書かれていたが、地元の調査団が誤りを指摘して、対決。
あらゆる階層の人々が反対。
政府がやろうとしていた計画を市民運動が覆した。
その後、市民運動は日本各地に広がった。
福祉問題、公害問題に関する運動が全国的に広がっていった。
地方自治体の首長がかわり、革新自治体が多数登場。
人口の半分規模に。
東京都の美濃部都政は画期的な公害防止条例を施行した。
政府や経済界にとっては大ショックだった。
公害対策基本法をつくるきっかけとなった。
最初の公害対策基本政策には、経済と環境を調査させるという条項がはいっていた。
これは調和論という。
実際には、企業が環境に優先するということになってしまう。
内容は、大変ルーズなもの。
東京都新宿、北九州戸畑の水準が基準になった。
つまり、これ並みであればやっていいということになってしまった。
これでは規制にならない。
そこで東京都は画期的な条例をつくった。
企業が規制を守らなければ、水道を止めるという条例となった。
国は東京都に対していやがらせをした。
NHKの1970年の世論調査では、成長よりも環境保全を求める人が多くなった。
政府はこれを受けてこれ以上ルーズな公害対策基本法を続けるのには意味がないことに気づいた。
公害国会で調和論を捨て、生活環境優先の法律になった。
翌年、環境庁発足。
これは、各国同じような時期になった。
もう入口で終わってしまいそう。
その頃、各国には政策がなかった。
そのため、政策担当者も市民も独創した。
自治体を変えていった。
それができないところでは、公害裁判をおこした。
被害者が全生命をかけて裁判を始めた。
それは非常に困難だった。
人格権の侵害、疫学調査に基づいてたたかっていった。
自治体の力を最大限利用する。
司法で最大限たたかう。
さまざまな困難を克服し、1970年代に公害を克服していった。
残念ながらそれ以降後退していった。
ここから日本環境会議の話になるはずだったが、時間が来てしまった。
メディアをみていると絶望的な状況。
事故の状況があるのに、再稼働をなぜ許すのか。
戦争できるような体制をどうして作るのか。
憲法を守って、人権を主張し、自治体・行政を変える。
公害裁判で勝訴していく。
これまで積み上げた教訓に学び、克服していかなければならない。
宮本先生、ワイトナー先生のお話とても面白い。
ワイトナー先生は大変日本の環境運動、環境政策に詳しい。
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