135年前(1879)の「琉球処分」の不当性が明らかになった
135年前(1879年)の「琉球処分」の不当性が明らかになった
『日本本土とは大きく違う沖縄の新聞社(琉球新報)の視点』
135年前の沖縄併合について、『「琉球処分」 不当性が明らかになった』と題する琉球新報の社説(2014年7月12日)では、160年前の1854年7月11日に結ばれた琉米修好条約など3条約を根拠に、国際法学者が1879年の『琉球処分』は当時の慣習国際法に照らして『不正』との見解を示したと報じている。
『琉球処分』とは、明治政府は1871年8月29日(明治4年7月14日)に日本本土では廃藩置県を行ったが、沖縄では翌年の1872年(明治5)の琉球藩設置から1879年の沖縄県設置に至る過程で琉球が強制的に近代日本国家に組み込まれていった一連の政治過程のことを指す。
琉球処分によって500年続いていた琉球王国は滅びる。
7月12日の琉球新報社の社説『「琉球処分」 不当性が明らかになった』では、
『しかも、今日の国際法に基づき、不正の責任を日本政府に追及することが可能という。』
『学者らの指摘に対し、外務省は「確定的なことを述べるのは困難」と回答し、不当性を否定しなかった。』
『武力を持って沖縄の主権を侵した「琉球処分」の実相を見据えたい。沖縄の主権回復を追求する県民世論の高まりは当然であろう。』
『「琉球処分」の後、皇民化・同化政策が推し進められ、その帰結として沖縄戦の悲劇があった。敗戦後の米国統治下で人権を侵され、復帰後も基地の重圧に苦しみ続ける。このような沖縄の歩みと現状を考えたとき、その源流として「琉球処分」に突き当たる。』
『「琉球処分」によって自己決定権を失った沖縄は日本政府の思惑に翻弄(ほんろう)された。「日本への同化」を説いた言論人・太田朝敷でさえ、沖縄は植民地的な「食客」の位置に転落したと嘆いた。
『「琉球処分」に端を発した不条理は今も続いている。国際法上の不正を指摘した上村英明恵泉女学園大教授は「米軍基地問題に見られるように、琉球人の決定が日本政府によって覆される植民地状況は今も続いている」と断じた。』
『(琉米修好条約などの)3条約は日本政府が没収し、現在、外務省が保持している。
その理由についても「経緯が明らかでない」と外務省は回答を避けた。説明責任を回避する姿勢は遺憾だ。政府が保持し続ける理由はない。』
沖縄が主権国家であったことの証しである3条約は、自己決定権を求める上での基礎資料ともなり得る。日本政府に返還を求めたい。』
琉米修好条約とは160年前に琉球王国とアメリカ合衆国が締結した条約で、アメリカ東インド艦隊の武力を背景にペリー提督は、日本の江戸幕府と日米和親条約締結後に沖縄に来航して、琉球王国とも同様の条約を結んでいる。琉球は翌年にはフランスなどとも締結する。
現在の日本の政府見解では、『琉球王国が外国と結んだ条約に有効性があるのかどうかについての解釈は困難である。』として無効とも有効とも答えず、態度を保留している。
『第一次世界大戦勃発から100年目』
WWⅠは日本での扱いは小さいが、ヨーロッパでは大きな節目として扱っている。英仏伊など西欧諸国では第二次世界大戦(WWⅡ)よりもWWⅠの方がはるかに多くの犠牲者を出していて、社会の根本を変えた意味が大きい。
日本やアメリカではWWⅠにスポットを当てているような動きはあまりない。WWⅠは日本が参戦国であるにもかかわらず、日清・日露戦争以上に扱われない。西欧でも日米でも同じで、世間の関心度は『自国の戦死者の数』がすべてなのである。しかし日本が行った日露戦争から10年後の第一次世界大戦の参戦は、日本国にとっては大きな節目であった。
日本国自身や、日本を取り巻く世界の『潮目』が大きく変わったのである。
しかし、『日本の潮目』との観点なら、江華島事件が一番大きいでしょう。
アメリカの東インド艦隊の砲艦外交による露骨な武力の威嚇に怯えた日本ですが、何とすぐさま同じことを他国に行ったのである。
僅かな時間差で、ペリー提督による武力威嚇以上の露骨過ぎる武力行使を自分より弱いあいて(朝鮮)に行ったのですから、日本の帝国主義の出発点と言うかメモリアルな話なのですが、何故か日本国内での扱いが小さい。この原因ですが自国の戦死者の数が圧倒的に小さいからなのである。
日本外交の転換点ですが、日本軍の江華島事件1875年(明治8年)の方が、日本の外交方針を決定した大事件ですが、誰れも取上げない。
朝鮮の首府ソウルを流れる漢江の河口に位置するのが江華島ですが、明治維新から7年後、アメリカの東インド艦隊のペリー提督来航からなら22年後に、何とアメリカの真似をして露骨な砲艦外交(武力行使)で無理やり不平等条約(日朝修好条約)を朝鮮王国に押し付けているのです。
翌年の1876年(明治9年)の日朝修好条規(江華島条約)締結とは、まさに琉球処分(1872年の琉球藩設置から1979年の沖縄県設置)と同じ時期に行われているのである。
有無を言わさず無理やり自主権を奪った過酷な琉球処分と、全く同時期に起きた江華島事件(朝鮮処分)ですが別々の無関係な事件では無くて、ひとつの同じ種類の出来事であると見れば、今までとはまったく別の景色が見えてくる。
『植民地経営と同化政策』
今の学校では日本史と世界史が別々なのですが、これを一緒にして『歴史』学とするべきでしょう。
飛鳥時代の大化の改新(乙巳の変)も深層では朝鮮半島の情勢と関連していた可能性が高いのです。 朝鮮からの使節 をむかえる儀式の最中に蘇我入鹿を暗殺した中大兄皇子(天智天皇)は滅亡した百済再興をはかって大軍を送るが唐と新羅の連合軍に白村江の戦いで大敗している。日本列島はユーラシア大陸と200キロ以上も離れてはいるが、常に大陸との密接な関係が続いていた。
自給自足が原則の封建時代、特に徳川の鎖国政策では外国との関連が多少薄れるが、それでも密接に関連していたのですがら、日本と世界を別にするよりも、『世界の中の日本』との視点から歴史を見れば、全く違った景色が見えてきます。
日本本土からは沖縄県は辺境の一地方に過ぎないのだが、(歴史的に)沖縄側から見れば本土(ヤマト)と琉球の二つで、今の『一の日本』が出来上がっている。
日本国にとっての琉球と本土(ヤマト)は部分と全体の関係ではなく、大きさが極端に違っているが対等の関係なのである。(圧倒的な大きさの違いによる勘違いですが、これは異民族であるアイヌ人と和人との関係に少し似ている)
『「琉球処分」 不当性が明らかになった』では、
『「琉球処分」の後、皇民化・同化政策が推し進められ、その帰結として沖縄戦の悲劇があった。』
『「琉球処分」に端を発した不条理は今も続いている。国際法上の不正を指摘した上村英明恵泉女学園大教授は「米軍基地問題に見られるように、琉球人の決定が日本政府によって覆される植民地状況は今も続いている」と断じた。』
と、まったく別々に見える日本の朝鮮王国の植民地化と琉球王国の併合との不思議な類似点(関連性)を論じている。
当時の琉球王国も朝鮮王国も同じで、軍事力で劣勢で到底抵抗できないばかりか、経済的にも、社会体制でも圧倒的に劣っていた。(19世紀当時も21世紀の今でも日本はアジアで一番の先進国だった)
琉球新報も、
『「琉球処分」をめぐっては、さまざまな歴史的評価がある。沖縄学の創始者・伊波普猷が「一種の奴隷解放也」と評したことは特に知られている。王国滅亡と併合を「進化」と捉えた視点だった。
しかし、「琉球処分」によって自己決定権を失った沖縄は日本政府の思惑に翻弄(ほんろう)された。「日本への同化」を説いた言論人・太田朝敷でさえ、沖縄は植民地的な「食客」の位置に転落したと嘆いた。』
琉球新報の沖縄学の権威の伊波普猷氏や太田朝敷氏の主張の中の『琉球』の部分を『朝鮮』に置き換えても『理論』としてそれ程の齟齬がない。
日本による朝鮮植民地化ですが、イギリスのインドの植民地化とは大違いで実質的に琉球処分と同じ(国内の)『同化政策』だったのである。
これでは成功するはずが無い。69年も前に終わっているのに韓国人が今だに朝鮮植民地化を怒っている理由とは、日本人は大きく勘違いしているが実は異民族に対する無理筋の同化政策にこそ、その『原因』があったのである。
日本国内のアイヌ人や琉球王国で成功したからといって、日本より古い文化がある朝鮮など外国相手では成功するなど最初から不可能ごとだった。
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