tacodayoのブログさんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/tacodayo/archives/7887299.html
目を背けたくなるような写真が多数ありますので、気の弱い方等はご遠慮ください。
<転載開始>
当ブログの
高線量被爆の恐怖 その1
高線量被爆の恐怖 その2
のまとめと追記です。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

以下は
エルサルバドル国サン・サルバドル、コバルト60照射施設の放射線被曝事故 (09-03-02-03)
からの引用です。
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(タコ注:カナダ原子力公社製の放射線照射装置)
<概要>
1989年2月にエル・サルバドル共和国の産業用照射施設において、2回にわたる作業者の被曝事故が発生した。初めの被曝は3人の作業者が照射作業中に生じたコバルト60Co線源格納装置の故障を直接手動で修理しようとしたために生じた重度の被曝(全身で3~8Gy)であり、2度目の被曝は修理が不完全であったために、その数日後に別の4人の作業者が受けた軽度の被曝(0.1~0.2Gy)である。
事故の直接的原因は装置の故障であるが、根本的原因は国および事業者の放射線管理と教育訓練とが不適切であったことである。
(中略)
(2)事故の経緯
1989年5月2日午前2時、医療用品の滅菌照射中に線源架台が所定の位置から低下し、アラ-ムが鳴った。
当直員A(1人)は手動で線源ケ-ブルを操作して線源格納プ-ルに降ろしたものと思い込み、制御盤の線源オン信号を無視し、照射室のドアロックを強制的に解除し、主電源を切って、懐中電灯を持って照射室に入り、照射箱が線源架台の下に入りこんでいるのを見つけてそれを取り除き、更にたるんだ線源ケ-ブルが上層のコンベヤ-の照射箱ガイド棒にひっかかっていて、そのために線源がプ-ルに落ちないことを見つけた。
一人では直せないので室外に出て、主電源を入れ、援助を求めた。室内にいた時間は約5分であった。少したってからAは照射に関係のない他の部の作業員BとCの2人をつれて室内に入り、3人で線源架台を引き上げてケ-ブルのひっかかりを直し、線源架台をプ-ルに戻した。
照射室を出てから数分でAは嘔吐し始め、午前3時半になって血を吐いたことから、
Bと一緒に救急病院へタクシ-で行った。
間もなくB、Cも嘔吐し始め、3人共に入院することになった。

朝6時になって次の当直員Dが出勤し、Aの不在と照射箱の異常を知ったが、そのまま通常の作業し、翌日になって保守係に報告した。

会社側は3人の欠勤を知ったが
単なる病欠と思っており、4日目になって病院からの通知によって初めて被曝事故があったことを知ったが、そのまま通常の照射作業を続けた。

5~6日目に数本の線源ペンシルが上側の線源列からプ-ルに抜け落ち、6日に照射物の線量不足からそれが判明し、その時の検査で線源内のペンシルの配置に異常があることが判ったが、そのまま照射作業が続けられた。
6日目の午後4時に線源復帰不能の故障が起こり、これを保守係Xと運転員Yとが修理を試みた。この間に上部線源モジュ-ルの残りのペンシル線源がはずれて落ちた。線源がプ-ル内に降りてからX、Y及びもう1人の作業員Zの3人が照射室に入って点検し、何も不具合なしとマネ-ジャ-に報告した。
マネ-ジャ-は再点検のために部屋に入り、上部線源モジュ-ルが空になっていることを見つけ、放射能測定器でサ-ベイして照射室の線量率が高いことを発見し、施設を閉鎖した。
その後になって線源ペンシル4本(内3本はダミーで1本のみが本物)が照射室に落ちていることが、判った。

(3)事故の結果
第一の被曝では3人が放射線火傷や造血器官や胃腸管の障害など、急性の重い放射線症となり、初めはサン・サルバドル市のプリメモ・メイヨ-病院、後になってメキシコ市のアンジェルス・デル・ペドレガル病院に転院して、造血因子の投与などの集中的な治療を受けた。

この3人の被曝線量は身体の部位によってかなり異なっていた。
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(タコ注:以下の写真3枚はこちらから。
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(タコ注:作業員Bの上:足、下:手。)
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(タコ注:作業員Aの足。)

部分被曝として最も線量の多かったのは作業員Bの左脚部で、
この脚は事故後161日目に潰瘍のためヒザの上から切断手術され、更に右脚も202日目に切断手術された。

リンパ球の染色体異常の頻度から推定された全身の平均線量は作業員Aでは約8.1、Bは約3.7、Cは約2.9Gyであった(表1)。

この3人はいずれも生存している。

第2の被曝事故の4人の被曝線量は作業員Xが0.09、Yが0.16、Zが0.16、マネ-ジャ-が0.22Gyであって、臨床症状が殆どなかった。

(4)事故の原因と教訓
基本的には、エル・サルバドル共和国全体として放射線防護の基盤が整備されていないことが事故の原因であるといえよう。例えば放射線防護に係わる国の法律がないこと、施設装置供給者による訓練を受けた要員はこの施設では当初いただけで、存在せず、操作や防護に関するまともな訓練が行われていなかったこと、供給者に連絡し指導を受ける方法は電話のみであったこと、などが遠因となっている。
事故の直接の原因は事故の経緯から明らかなように当然行われるべき手順の省略と無視とであった。

以下は

Strahlenunfälle historisch (bis 1945)
からの抜粋・要約です。
(訳はタコ。たぶん間違ってる?(^^; )

広島に原爆が投下された1945年8月15日の6日後の1945年8月21日、アメリカのロスアラモス国立研究所の研究者であったハリー・K・ダリアン Jr. が二つ合わせて計6.2 kgのプルトニウムの半球体の上にタングステン・カーバイドの煉瓦を落としたことで臨界状態が発生し、510レムの被爆をしたダリアンは重篤な放射線障害のために昏睡状態のまま26日後の9月15日に死亡しました。
この事故では落下した煉瓦が中性子反射体の役割を果たし、プルトニウムの臨界を引き起こしました。
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図14: Harry K. Daghlian, Jr.
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図15: Daghliansの手。被爆9日目
(中略)

□ベラルーシ、ニャスヴィシュでの被爆
1991年10月26日、コバルト60 Co による0.8 MCi (30μm)の放射線で、薬品や農業製品を殺菌するためのベルトコンベアが操作中に停止しました。
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(タコ注:IAEAの報告書表紙から。)

修理のためその中に入った夜間シフトの34才の経験豊富な技術者は、約 1 分後に頭痛や関節の痛みを感じて気分が悪くなりました。
それで放射線源が遮蔽されてない場所にある事に気がついたので、すぐに修理を中断しましたが、5~6分後に悪心および嘔吐に見舞われ、それが数時間続きました。

彼はすぐに地元の病院で、16時間以内に経験豊富なモスクワ生物物理研究所に運ぶように指示されました。

全身被爆量は1250レム、年間で1800レム以内と計算されました。
その後約 6 日目に潜伏期骨髄無形成症、汎血球減少症、重症急性放射線症候群、後に多臓器不全を発症。
重度の胃腸症状、肝臓や腎臓の障害に加えて最終的に真菌 (麹菌) 感染と肺炎を起こし、

事故後113日目に死亡しました。
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(図51:タコ注:放射性熱傷火傷に似た
症状が出てます
ね。
普通の火傷と違って後から症状が出ます。)
(中略)

□グルジア共和国ライロ演習場での被爆
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(タコ注:IAEAの報告書表紙から。放射性物質が無造作に放置されていた倉庫)

1997 年4月から 8 月までのIAEAの調査により、1992 年までに崩壊した旧ソ連のグルジア共和国(英読み:ジョージア)において、首都トビリシの東約25 km、ロチーニ空港の北 10kmというライロ演習場において、大変ズサンな放射性物質管理で多くのグルジア兵を被爆させていた事が判明しました。
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図 71: ライロの患者3。
大腿骨デブリードマン 1997年10月:再
(中略)

□タイ王国サムットプラカーン県での被爆 2000年1月24日
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(タコ注:写真はこちらから。)

タイのバンコクから400km離れたサムットプラカーン県で、安全基準に違反して親会社の保有する無防備な駐車場に1999年の秋に捨てられたコバルト60Coの放射線源を持つドイツ・シーメンス社製の三つの遠隔放射線治療器が、2000 年1月に屑鉄回収業者によって盗まれました。
その 4 人は(タコ注:放射能に対する無知から)警告記号を無視して2000年2月、家で治療器を解体しようとしました。
しかし、解体出来なかったのでスクラップ工場内に持ち込み酸素アセチレン切断トーチで解体しましたが、放射源 (4cmの長さと2, 5cmØシリンダー) のカプセルはそのまま放置されました。
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(タコ注:酸素アセチレントーチによる切断)

2 週間後、異常を感じた人々は病院に行き医者に放射線病の症状を指摘されました。
解体から当局への報告、除染まで放射能汚染は20日間続きました。
コバルトCo60の残存活性は15.7TBq (テラベクレル、425CI) だと見積もられています。
バンコクのRT病院で1981年から1994年使われた、シーメンス社製の機器の当初の放射能レベルは196TBq(5300CI)です。
シーメンス社の地元支店が破産したので、新しいディーラーを通してカナダのNordion社製を購入し、古いシーメンス製ガンマトロン3をK社に売却したのでした。
だから、新しい所有者である親会社保有の駐車場で、彼女(タコ注:ガンマトロン3の事)はその一生を終えたのでした。
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(写真はこちらから。)

計10人が放射シンドロームで苦しんでいます。
スクラップ工場に密封状態の放射線源を持ちこんだ患者(P1 ~ 4)は、やや低い2Gyの放射線被ばくを受けていました。
一人は両方の手に重度のやけどをしたため、複数回の皮膚移植を受けました(図75-1,図75-2:P1-a,b)
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図75-1:P1-a 被爆23日目
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図75-2:P1-b 被爆8週間目
(しかし)
最終的に、指は切断しなければならなかった。

別の一人は手に先の一人よりも大きな
火傷を負った (図75-3:P2)。
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図75-3:P2-a 被爆7週間目

脚(図75-4,図75-5:、P3-a,b)。
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図75-4:P3-a 被爆23日目
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図75-5:P3-b 被爆11週目

4名(タコ注:P5~8)は6Gy以上の長期暴露を受けています。
カプセルを開いた二人の労働者うち一人は被爆38日目に死にました(P 5:タコ注:写真無し) 。
もう一人は骨髄無形成症、発作と胃の出血を発症し、被爆47日目に胃の敗血症性ショックで死亡した(図75-6:P6)。
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図75-6:P6 被爆22日目

また、近くに住んでいた古物置場の所有者夫妻の男性(P8:タコ注:写真無し)は、重要な骨髄形成不全症、露出および肺浮腫の後、
被爆52 日目に死亡しました。
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図75-7:P2-b 被爆6週目の骨髄細胞のDNA

※Pは英語のPersonの意(?)

以上引用終わり。

低線量被曝の被害は、ゆっくりと長い時間をかけて進行しますが、高線量被曝だとこのように急激な症状が現れます。


下の写真は「象の足(アトミック・レジオ・エレファント・フット)」と呼ばれるものです。
象の足とは、2500度以上の温度で圧力容器が炉心溶融し、ウラン燃料や減速材の黒煙や炉心を形成する金属がどろどろに熔けて炉心の下に落ち、さらに下に落下してコンクリートをも溶かし出し、大量の放射能を含んだまま再度固まったものです。
大変に放射線が強いため、今でも近付けば数分で死ぬと言われます。
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象の足で作業する二人の作業員に注目。
体が透けて見えます。一説には体が透けてる人はカメラマンとされます。

この写真の二人(若しくは一人)と写真を撮った人が、下の写真のような症状でお亡くなりになったそうです。
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皮膚の細胞のDNAがやられて再生しないためこのような状態になります。
右足の先が無くなっていることにも注目。
脳や心臓の細胞は、成人以降分裂をしないので、意識を保ったまま地獄の苦しみを味わう事になります。
この急性症状は、主に中性子線と高線量ガンマ線と高線量X線による被害と考えられます。

福島原発の炉心の近くに行けないのも、このような症状を呈する事がわかっているからです。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇

下の写真はいずれも、1999,9,30の茨城県東海村JOC臨界事故の被曝作業員の大村久さんの写真です。
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こちらは主に高速中性子線による被曝と考えられます。
が、先の「像の足」の作業員と同じように、皮膚のDNA損傷で全身からリンパ液や血液が流れ出ています。
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(上、中が大村久さんの大腸の内視鏡映像。下も大村久さんの筋肉細胞の顕微鏡写真。)

下は同じく篠原理人さんの写真
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(クリックで拡大)

下写真は臨界事故でズタズタのゴミ状態になったDNA(染色体)
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以上の写真はこちらから。
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大村さんは約4ヶ月後の12月21日、篠原さんは翌年の4月27日にお亡くなりになりました。

以下は
「千葉市におけるイリジウムによる放射線被ばく事故 (09-03-02-11)」
からの引用です。

<概要>
1971年9月、千葉県内のある造船所の構内で、作業員が非破壊検査用の強力な放射線源であるイリジウム192(5.3ci,1.63E12Bq)を拾った。

それが何なのかわからないまま好奇心からズボンのベルトにさし、下宿に持ち帰った。
下宿を訪ねた5人とともに6人(年令:20~30才)が被ばくし放射線急性障害が生じた。
そのうちの1人は、右手の潰瘍(かいよう)と糜爛(びらん)を繰り返し、22年後に血管の萎縮による右第1指(親指)と第2指(人差し指)の拘縮と骨の萎縮、病原菌による感染と疼痛が生じ、この2本の指を切断した

<本文>
1.事故の状況

千葉市のある造船所構内で、作業員の1人(B)がステンレス製の鉛筆のようなものを拾った(図1)。

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(図1)

Bは、それが何なのかわからないまま好奇心からズボンのベルトにさし、下宿に持ち帰った。夕刻、彼の下宿を訪ねた5人の仲間が、その鉛筆のようなものに次々と触ったり、眺めたりした。そのうちの2人(AとE)は、その部屋に泊まった。その後4日間、この部屋には数人の仲間が何回か出入りした。

この造船所では、放射線を利用して製品検査を行う非破壊検査が行われていた。この検査に用いる強力な放射線源であるイリジウム192(5.3Ci,1.63E12Bq)が紛失していることがわかり、懸命に探したが見つからず、科学技術庁(当時)にそのことを届けでた。

Bがステンレス製の鉛筆のようなものを拾ってから1週間後、彼の下宿でそれを触った仲間の1人が、自分たちの触った鉛筆状の奇妙なものがこの線源ではなかったかと探したところ、下宿の庭に落ちているのを発見した。この線源は強力なガンマ線を放射するので、触ったり近くにいた人に放射線急性障害を引き起こし、この6名(年令:20才~30才)は検査のため千葉市にある科学技術庁放射線医学総合研究所(放医研(現独立行政法人放射線医学総合研究所))に入院した。
(中略)
3.急性放射線障害
急性障害の全身症状としては、最も被ばく線量の大きかったAだけが、被ばく1日目に食欲不振と吐き気におそわれたが、これは急性放射線症の症状のひとつである(表2)。次に骨髄での造血障害を詳しく調べると、数人に白血球の減少等の造血障害があった。
最も強い症状はAだった。第2週から第7週にかけて、貧血、白血球および血小板の減少がみられ、軽い出血傾向の増大がみられた。

皮膚障害では、線源を持ち帰ったBと比較的長時間触れていたAには、線源が触れた部分に26~91Gy(グレイ)程度の被ばくを受けたと考えられ、9月末から痛みの強い紅斑や水泡ができた。

線源が臀部(でんぶ)にあたったBには臀部に大きな潰瘍(かいよう:皮膚粘膜層において深部まで及んだ表面の欠損)と壊死(えし:生体の局所組織または細胞の死滅)が生じた(図2)。
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(図2)

生殖器では全員に造精障害がみられた。線源をベルトにぶらさげたBは睾丸に1.75Gy程度の放射線を浴びたことになり、一時的な無精子症になった。
外部被ばくによる障害の場合、被ばく直後にははっきりした症状は出現しない。しかし、ある程度以上の放射線を全身に受けると、感染に対する抵抗力が落ちたり、出血しやすくなる。

①、Aには典型的な症状があったので、心身の安静、栄養補給、感染防護等の一般処置を行いながら、特に無菌室に収容して、抗生物質の投与も行った。その結果、Aは最も白血球の減少した時期にも感染することなく、順調に回復過程に入った。さらに、皮膚障害に対しては局所の感染防止に主点をおいて治療したところ、順調に回復した

②、困ったことに、
Bの場合は、右手の指が瘢痕(はんこん:組織の欠損補充にあたって再生した結合組織(内芽組織))萎縮を起こして伸びなくなった。
日常生活に不便なので、
2回にわたって東大形成外科で手術し、腹壁の皮膚を移植した結果、指が曲がるようになった。

その後、全員が急性放射線障害から順調に回復し、1972年3月までに全員が退院した。


4.後発性障害
事故後9年目までは、B、A両名の皮膚障害は瘢痕以外の異常は認められなかった。
その後Bの右手は潰瘍と糜爛(びらん:皮膚または粘膜層における比較的表面の組織欠損。さらに深部にまで及んだときは潰瘍という)が繰り返し生じ、右第1指(親指)、第2指(人差し指)の拘縮(こうしゅく:関節の固着)と骨の萎縮が始まった(図3)。
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(図3)

さらに、1993年には、病原菌による感染と疼痛が現れ、この2本の指を切断せざるを得なくなった。

病理学的検査の結果、血管の萎縮によることがわかった。

以上引用終わり。

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工員Bさんの最初の状態から、
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指切断まで。

離れていれば中程度なガンマ線に被爆するだけですが、手に持ったり服のポケットに入れたりしたので高線量β線とガンマ線に被曝したと考えられます。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

77イリジウムIr192→β崩壊→78プラチナPt192

または

77イリジウムIr192→電子捕獲→76オスミウムOs192

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

下は福島原発事故で漏れた水の中に浸かって作業して、長靴の中に水が入り被曝した下請け作業員の方の写真
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ベータ線熱傷と発表されましたが、当然ガンマ線や長靴の中に入ったアルファ線各種が靴下に染み込んでいますからアルファ線にも被曝しているはずです。

千葉市の造船所作業員の方と似たような経過をたどると考えられます。

以下は

ブラジル国ゴイアニア放射線治療研究所からの
セシウム137盗難による放射線被ばく事故(09-03-02-04)

からの引用です。

<概要>
1987年9月、ブラジル国ゴイアニア市で、廃院となった放射線治療医院からセシウム137線源が持ち出されて廃品回収業者の作業場で解体され、セシウム137による広範な環境放射能汚染と多数の人々の被ばくが生じた。汚染された者の数は249人(同年12月まで)、被ばく線量は0.5Gy以上約70人、1Gy以上21人、4Gy以上8人であり、死者は4人であった。


<本文>
1.背景と経緯

ゴイアニア市(Goiania)はブラジルの首都ブラジリアから南西約250km離れたゴイアス州にあり、人口約100万人の農畜産物集積(大豆、牛肉など)都市である。1987年9月、この市の廃院となった民間放射線治療クリニックの建物(図1)の中の放射線治療装置からセシウム137の入った回転照射体が、取り外して持ち出され、市内にある廃品回収業者の作業場で分解された。この放射線治療装置は1971年6月にイタリアから輸入され、線源はセシウム塩化物(CsCl)で、指向性を良くするためレジンを混ぜ、米粒大にまとめたものを治療用装置に充填したもので、米国オークリッジで製作された。重量93g、体積31立方センチメートル、事故当時全放射能は50.9TBq(1375 Ci)であった。
1987年、この医院の移転により業務を止めたが、セシウム照射装置はそのまま廃院に残されていた。持ち出されたセシウム137は青白く光る粉末で極めて水に溶けやすく、散らばりやすい状態で、業者の家族、親戚、隣人が好奇心から自宅に持ち帰ったり、また作業場から風雨や人、動物を介して、汚染地域が拡大した。
この事故が起こったのは市の中の貧しい区域で、汚染された範囲はおよそ 図2に示す通りである。

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2.事故の状況
2人の若者(22才と19才)が、この廃院のスクラップから価値があるものと思い、照射装置を分解して、回転照射体(線源)を自宅に持ち帰った(9月10~12日)。
回転照射体を取り外した段階から2人の放射線被ばくが始まり、2~3日後から2人は下痢、目まいなどに悩まされ始めた。1週間後には線源容器に穴を開けることに成功し、この時点から放射能汚染が始まった。ここで2人はこれを廃品回収業者に売り払った(9月18日)。

業者は暗いガレージの中で線源の粉末が光っているのに気付き、家の中に運び込み、その後数日にわたって家族、親類、隣人が、これを眺め、手を触れ、体に塗ったりした。
作業人とその家族全員の体の調子が次第におかしくなり、その内の1人(廃品業者の妻)が、青白い粉に原因があると思い、線源をプラスチックバッグに入れて、ゴイアニア公衆衛生局に届けた(9月28日)。

風土病病院で患者を診察していた医師は、症状から放射線障害の疑いを持ち、市の公衆衛生部と州の環境局に連絡した。
その結果、医学物理学者が鉱物探査用の放射線測定器(仏製:SPP2NF)で測定して、放射線被ばく事故が起こっていることが明らかになった(9月29日)。
これは線源が持ち出されてから17-19日後のことである。(持ち出された日は正確に判っていない。)

3.被害の大きさ
(1)急性障害

選別検診の結果、20人が入院治療が必要と診断され、14人がリオデジャネイロ、6人がゴイアニアの病院に入院した。体内セシウム排せつのためプルシアン・ブルー(Prussian Blue)※が投与され、また被ばく線量推定のためにリンパ球の染色体異常の頻度が調べられた。
4人が入院後(リオデジャネイロ)4週間以内に出血や敗血症などの急性障害で死亡したが、その線量は4.5-6Gyと推定された。
死亡者は、6才の少女、38才の女性、22才、18才の男性である。

同程度の被ばく線量で2人が生き残った。
また1名は腕半分を切除された。

2ヶ月後には11人の入院患者は全員ゴイアニアに転院し、退院までずっと放射能排せつ促進剤を投与された。
(以下略)
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以上引用終わり。

※素人が使うとかえってセシウムを吸着したプルシアンブルーが肺の奥深くに沈着して危険だとされています。


<転載終了>