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2015年10月26日 (月)

同性婚を認めるな(2/3)

同性婚を認めるな(2/3)


《2》
 人間は人間らしい付き合い方をしなければならない。同性婚を願う者どもは、愛情に性差はないなどと抜かすが、それは個対個でしか考えていなくて、社会関係がない。これがセクシュアル・マイノリティ問題の核心であるが、わかる人は少ないだろう。

 人間は集団即種として誕生した。集団なしには生きられず、集団には規範がなければこれまた生きられない。だから赤ん坊のときから、親が子供を社会関係におくべく教育を行う。他人のことを考えられる人間に育てる。そう育てば、アタマはおかしくはならない。

 社会関係をしっかり保ちつつ個としての自分を生かすことである。性的関係もその枠から外れない。それがしっかりと教育されなかった人間、自分勝手に個性が大事とやってしまった人間が、ココロを育て損ない、同性を好きになり、もしくは自分の性を嫌悪したりする過ちを犯すのだ。

 同性愛も性同一性障害もココロの病である。生まれながらに、生殖器は男だがココロは女だとか、その逆も、あり得ない。主に思春期に認識が歪み、同性を恋するようになるだけのことで、生まれながらなんてバカな話はいっさいない。

 ただしココロの病とは言ったけれど、本当はココロもカラダの機能なのだから、カラダの病と言っても良く、そこには何重の構造が存在している。

 自分でおかしくなっておきながら、「生まれつき」だの「遺伝」だのなどとよくもそういうウソを抜かす。それを認める医者も無恥。
 性同一性障害は遺伝子に異常が見られるから先天的だと抜かすようだが、ならば赤ん坊で比較してみろ。男は男、女は女の遺伝子になっている。それが育ち方の歪み、異常によって、「おかしい」と言われるようになった頃の遺伝子は狂わされているのだ。
 機能が実体を作る例である。

 以下に少し、なぜ同性愛になるかの構造を説くが、そういう学的論理を無視して、差別だ、言葉の暴力だと誹ることは無礼である。

 さまざまなケースはあろうが、代表的な事例でいえば、例えば女の子が、父親の浮気を見たとか、犯されそうになったとかが起きて、ために極端に嫌悪するような事態が生じる。
 あるいは、父や兄がことさらに少女の目の前にエレクトしたペニスを見せつけたために、少女がショックを受けたとか。
 父が母を家庭内暴力でいつも痛め付けているとか。
 少女が突然の初潮で驚いているさなか、男子たちに嘲笑われ、ショックを受けたとか。このケースは男を憎悪するか、逆に女である自分を否定しようとするか…。

 男はみんなケダモノだ、汚れていると思い込んでしまい、第二次性徴期にその関心が同性に向いていく。それが同性愛の発症の仕組みである。
 しかしショックを受けた当人も、たいていは黙っているし、親なんかも触れないようにするから、医者らは真相が見てとれない。

 当人にも責任はあるが、一番は親だ。親はそういう後ろめたさがあるものだから、子供が異性ではなく同性が好きだとなったときには、理解者のように振る舞うか、逆に責任回避で激怒してみせるか、であろう。正常な育て方がなされていれば、そしてちゃんとした食事や睡眠をとっていれば、決して同性愛にはなりはしない。詳しくは明日述べる。

 まずもって、サヨク人権派は認識とはがわかっていない。
 そこを簡単に説けば、認識とは原基形態においては最初に誕生する認識は対象の頭脳における反映である。対象が頭脳に反映した像が認識である。ただしこれは原基形態であって、そのあとは対象は外界ではなくなっていき、内界の反映が出てくる。
 その内界の反映がくせもので、これが大きく性同一性障害や同性愛の成立にかかわってくる。それは夢であるが、これに関しては明日のブログで説いてみたい。
 
 ここに女の子がいたとして、最初に父親の不倫を見たとか、自分が父親や兄から性的いたずらをされたとすれば、それは最初は外界の反映であったが、その像は内界でいわば反芻されて、憎悪、嫌悪がくり返し頭脳に反映されていく。
 韓国人が反日に狂うのは、この内界の憎悪を政府もマスゴミも反芻させるからだ。

 それが思春期の、男の子は男になり、女の子が女になりにいく時期と重なれば、その認識は爆発的に大きくなる。
 「思春期の認識・実体の論理構造」を勉強しないでおいて、セクシャル・マイノリティを認めろとは何たる怠惰。

 その上、頭脳活動のそうした内界での創像が、きちんとした食事や睡眠をとらないことによる脳の正常な成長が生じれば、いよいよ像は歪んでいく。
 父親がだらしない、とすれば、だいたいそういう家庭は生活が歪んでいるものだ。だから生活面でもますます認識が歪む悪い条件が後押しする。

 一括りにはできにくいが、同性愛になっている人は、生活が乱れている例が多い。かつてエイズが大流行したとされた時期、エイズになるのは同性愛者だと言われた。そのわけは、同性愛になる連中はおおむね、生活がデタラメだから、食事もデタラメ、だから感染症が防げなかったのだ。

 セクシュアル・マイノリティになりかけの、中学生や高校生くらいならば、東洋医学系の治療によってカラダ全体の歪みをただすことで、転落を阻止できるかもしれないが、大人になってからでは手遅れであろう。

 おおむね、同性愛になる子供は、親に見捨てられたも同然の子がなる。さびしくて誰かに愛してほしいが、異性はけがらわしいと思うから近づけない。だから同性を求める。もしくは自分の性を憎悪する。
 普通の子は正常に成長していけば、認識を外に出したがるのに、寂しい思いをさせられて育った子は、内に閉じこもるようになる。

 林秀彦さんの『海ゆかば山ゆかば』(現在は「日本の軍歌は藝術作品である」)にこんな一節があった。
 「里の秋」という童謡で、終戦直後にラジオで流された。その3番の歌詞はこうだった。
 「さよならさよなら椰子の島 お船に揺られて帰られる ああ父さんよご無事でと 今夜も母さんと祈ります」

 林さんはここで「いまの子供で『帰られる』という敬語を使える子供が何人いるのか? 何人もいないとすれば、それは母親の責任である」と語る。
 本稿のテーマに合わせていえば、母親が父親を尊敬の念をもち、それを子供に教えない。日常でも敬語はつかわない。
 だから、子供は異性に憧れを持たなくなるし、カッコいい同性の大人を見て自分も…とはならない。

 どの家庭でも、親にたとえ会社からの帰りでも「帰られる」という敬語をつかっているのなら、子供の認識は歪まないはずなのであり、異常な性の意識に染まることもないであろう。

 その意味では、性異常者はたしかにかわいそうな生い立ちがあったのだ。
 親として欠陥がある者が子供をつくってはいけない。被害は全部子や孫に行ってしまう。
 そうした視点をもったうえで、セクシャル・マイノリティをいじめたり差別したりしてはいけないのである。私はただ、うまれつきではない、ちゃんと成育過程で歪みが起きたのだと真実を明らかにすべきだと言っている。

 親に苛められた子は、内に閉じこもるようになり、やがて自分の世界だけが正しいと思うし、そこを秘密の花園にしようとする。絵を描いたり、音楽家になったり、華道家になったりする例は多い。むろん藝術家全部が、ではないが。
 三島由紀夫と親しかった美輪明宏は、見事に男色のようだが、ほらごらん、スピリチュアルな世界なんて、あるわけない世界を妄想してそこに閉じこもっているじゃないか。

 三島由紀夫はゲイで有名だった。だから彼の小説は面白くない。百年後には残っていないだろう。同様に、古今の和歌の世界でも男色があったろうが、良い作品はあるまい。男女の恋を歌ったものが名作になった。
 男が女を好きになる、恋をするとは、尊敬から始まる。仰ぎ見るところから始まる。現今の、逢ってすぐホテルへ急行するような陋劣なる恋は論外である。

 三島由紀夫の小説の題を借りれば「永すぎた春」のほうが認識は豊かになり、成熟が図れる。逢って数時間後に肉体関係が結ばれると、男女お互いに尊敬が生まれないし、認識はズンだれる。

 林秀彦さんは『失われた日本語、失われた日本』でこう書いている。
     *    *    *


 恋は、お互いの敬語から始まるものです。それは決して女性だけが男性に対して強制されるようなものではありません。男性にとっても、敬語をもって接することができないような女性は、恋の対象にならないのです。

 男女相互の敬意は、恋だけではなく。良い夫婦関係にとっても不可欠なものです。日本人はどのような人間関係のなかにも、相手への敬意をにじませるという民族的な習性を持っていたのです。それは遠慮や、忖度や、気遣いや、いたわりや、寛容といった形で外に現われ、言葉がその細かなニュアンスを表現させる機能を持っていました。 
 敬語は人を大切にするためのもっとも的確で、かつ美しい表現です。

     *    *    *

 相手を尊敬すれば、微妙な言葉遣いが意識される。
 「これ食うか?」とか「ほら、食べな」とかはどこにも相手への気遣いはないが、「召し上がりますか?」「召し上がれ」という言葉を選べば、相手をまずは尊敬する認識が生まれる。馴れ馴れしくはしない。

 しかし同性のカップルの場合、この毎日の記事にもあったが、同性愛どうしが「意気投合して」いっしょに暮らすようになっている。つまり尊敬から恋がはじまらない、「同病相哀れむ」から始まってしまう。そこには気高さを求めるような微妙な心遣い、微妙な言葉遣いが不要であろう。

 同性愛だってお互いを尊敬しているぞと反論されるだろうが、そこは違うのだ。同性への尊敬はあり得るだろうが、それは社会人レベルの認識であって、男女の仲にあるような燃え上がる認識も、甘酸っぱい認識もないし、哺乳類のDNAに支えられた性を含んだ尊敬の気持ちではない。

 しかも、性同一性障害だという引け目はどうしても持たされる。
 いくらこれは遺伝なんだとか、体と心の性別が異なっているだけだと思い込もうとしても、世間は許してくれない。辛い現実を前に、できるだけこの「不条理」な世界は見たくないとする認識が働く。何度か述べたが喫煙者が世間の非難する目を、見ないことにしてタバコを吸ううちに、反映を鈍くし、人の気持ちがわからない人間になっていく論理構造と同じだ。

 彼らはそういうコンプレックスを抱えたまま大人になる。世間の冷たい目を無視しようと努めているから、感性はいやが上にも鈍くなっていく。
 そのコンプレックスを抱いた者どうしが惹かれ合うのだから、正常な男女の恋とは始めから異なるのだ。

 こんなことをいくら言っても、同性愛者はそもそも感情的に異性を好きになるということを拒絶し、理解し得ないのだから、とうてい分かるまい。「わかってくれないほうが悪い」「差別だ」としか思わないだろうね。

 結局、同性愛は認識が深まらない。深まらなくてもいいという向きには別に構わないが、人間と生まれて認識が薄く育つのは悲しいことである。認識が大雑把になる。
 異性であれば、相手を一段高く見て憧れるとか、緊張感のなかで付き合いが始まる。構えた話し方でなければ、相手に軽蔑されたら大変だと思って考えぬくから、認識が深まる。

 しかし同性で愛し合うなら、意気投合しさえすればよく、心の傷をなめあうことで満足する。構えた会話はいらない。気が置けない仲間だと思えば、孤独が癒される。大満足できる。異性の場合は、気が置けない関係になるには時間がかかる。その時間が大事なのだ。

 認識が薄いと、他人の気持ちがわからない人間になりがちだ。自分の権利ばかり主張する人間になる。およそ看護婦には向かない人間になる。スジが通らない話を平気でわかったつもりになる。
 ほらだから、9条は絶対守らなきゃとか、ジェンダーフリーが理想だとかスジの通らないことを言う人間と仲間になれる。





 
 
【エッセイの最新記事】

以上は「心に青雲」より

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