ヒトラーが問いかけるもの(1)
ヒトラーが問いかけるもの(1)
日本の今年を振り返ると、戦争が法的にも具体化した年だった。
来年度の日本の防衛費は、5兆500億円である。これは史上最高記録だ。2012年の安倍晋三登場以来、4年連続の軍事費増加になる。
名目は物語としての中国脅威論だ。実質的には、米国の軍産複合体支援と、日本の三菱重工を中心とした軍需産業を儲けさせるための予算増である。
やのっちが、「スペイン北西部の山間部の修道院にナチス残党が逃げ込み、修道僧の格好をして潜伏していた。当時15歳の地元の少年が、修道院と外部を結ぶ地下トンネルの極秘建造工事に従事していた。その人物が、ヒトラーを含むナチス高官5人が、修道院近くの農場に着陸した航空機から降りてくるのを目撃している」とツイートするなど、ドイツもまだヒトラーの呪縛から抜け出せそうもない。
(ドイツ第三帝国の繁栄と滅亡 「これはアドルフ・ヒトラーが如何にして権力を握ったかを描いた物語ではない。ドイツ国民が何故、如何にしてアドルフ・ヒトラーに権力を与えたかを描いた番組である」)
『エコノミスト』(2015年12月19日号)に「ヒトラー」という長文の優れた記事が載っていた。
「現代ドイツ人にとって総統はどういう意味があるのか」というテーマに沿って書かれた記事なのだが、様々なことを考えさせられた。
「現代日本人にとって東條英機は、そして昭和天皇裕仁は、どういう意味があるのか」ということを、わたしたちは今こそ考えなければならない。東京の大手(「記者クラブ」)メディアはまず書かないので、わたしたちがネットで考え続けなければならない。
「ヒトラー」を読んでみよう。
「アドルフ・ヒトラーの死後70年経って、ドイツ人のヒトラー観は変わってきている。
(中略)
1940年代後半と50年代には、ドイツ人はヒトラーの話題を避けていた。多くの男性が捕虜から解放されて帰還してきた。多くの女性が強姦された。人々は住処を追われるか、孤児となるか未亡人となった。ドイツ人は加害者であると同時に被害者でもあったため、自分の精神状態を表現する言葉すら持たなかった。多くの人がトラウマを抱え、自分の経験を語るなど耐えられなかった。
(中略)
1960年代に入って、イスラエルがナチ幹部の1人アドルフ・アイヒマンを捕らえ、裁判にかけて処刑したことを契機に、新たな段階に入った。アイヒマン事件によってホロコーストのより詳細な事実が世間に明らかにされた。
1963年から、22人の元ナチス親衛隊隊員が、フランクフルトの法廷でアウシュビッツでの犯罪のかどで起訴され始めた。ドイツ人はこれらの裁判事件に釘づけにされた――開廷期間中に2万人がフランクフルト裁判所を傍聴に訪れた。初めて、Vergangenheitsbewaltigungフェルガンゲンハイツベヴェルティグング(「過去の克服」)がキッチンテーブルの食事を囲んでの話題となり、そのせいで家族がバラバラに引き裂かれた。
子供たちは、両親や大学教授を、ナチスの共犯として非難し、家庭でも学校でも反抗した。大人たちは、自分の行為や経験から不都合な部分だけ伏せた物語を作ってその中に閉じこもった。
アレグザンダーとマレガレーテ・ミッチェルリヒ夫妻は1967年に出版した本の中で、この病理を「喪われた悲哀」と呼び、そのままこの本のタイトルにした。この病理のために、ドイツ人は道徳的心理的危機という泥沼にはまり込んだまま動けないでいる、と二人は考えた」
戦争の惨劇に遭った国民の苦しみという意味では、ドイツと日本とではそんなに差はない。それは戦勝国でも同様であろう。
ただ、ドイツと日本とでは大きな違いがある。それは次の5点だ。
1 日本は、ドイツと違って、米国によって原爆を投下され、国民が人体実験の道具にされたこと。そのことに最大の戦犯昭和天皇裕仁が内部から関与していたこと。
2 最大の戦犯である昭和天皇裕仁が戦犯免責されたため、国体を米国とする新たな戦後史が始まったこと。それは戦勝国の米国を宗主国とする、奴隷国家、植民地としての戦後が始まったことを意味する。
リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーがスピーチで行った「1945年5月8日は、ドイツが敗北し滅亡した日ではなく、ドイツが解放された日なのだ」ということは、日本人の誰もいわないし、いえない。敗戦によって、日本国民は、天皇の奴隷から米国の奴隷に変わっただけだった。
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3 ドイツと日本との、戦後史の違いがもっとも象徴的に現れたのは、福島第1原発事件である。これを他山の石としてドイツは脱原発にエネルギー政策を切り替えた。しかし、日本は、米国の圧力の前に切り替えることができなかった。
そして、安倍晋三という、政治の仮面(日本会議、歴史修正主義)を被ったフリーメイソン風味(公約と反対のことをやる、国家破壊の政策、法を変えるのではなく、解釈を変えることで政策を実現する、ゴイムを酷税で痛めつけ、賃金増加を阻止する政策)のカルト首相のもとに、ふたたび破滅の道を歩み始めた。
4 敗戦後にフランスなど、敵対国との和解に成功したドイツと違って、日本は、米国によって、韓国とは竹島、中国とは尖閣諸島と、紛争の仕掛けを作られ、民族和解ができないように仕向けられた。
5 メディアを米国に押さえられたこと。これが米国隷属から抜け出せない最大の原因になっている。別言すれば、日本民族の不幸の元凶は、東京の大手(「記者クラブ」)メディアにある。その基本姿勢は、権力(米国・官僚・自民党)隷属の広報・広告機関である。
以上の5点である。両国のこの違いを考えていくと、日本の方が遙かに厳しいことがわかる。5点のすべてに、日本政治のおぞましいまでの劣化と、それを利用する米国という底流がある。
『エコノミスト』をもっと読んでみよう。
「ドイツは国家レベルでは、2つの対応の仕方を見出した。東ドイツは、<東の正義を貫く共産主義者は最初から「ファシスト」に抵抗していた>、というフィクションを採用した。そして実際、一度も過去を清算しなかった。これに対して、西ドイツは<ドイツの罪を認め、公的に償い>をした。西は平和国家になり、その西側同盟国の戦士文化と対照的に「ポスト英雄(英雄が退場した後)型」と呼ばれた。
さらに西は「ポスト国家(国家が退場した後の)型」になった――西ドイツ国民はスポーツイベントでも、めったに国旗を振らず、国歌も辛うじてささやく程度だった。若い西ドイツ人は「国家」より下位にある「地方」の人間(例えばシュヴァーベン人とかバイエルン人など)または国を越えた人間、つまり善良なヨーロッパ人、に自分のアイデンティティーを求めた。
しかし、1970年代に入って、抑えられていたヒトラーに惹かれる気持ちが再び頭をもたげてきた。伝記が2本とドキュメンタリー1本が発表され、1979年には西ドイツで米国のテレビシリーズ「ホロコースト」が放映された。このテレビシリーズは、ドイツ人にショックを与え、新たな内省に取り掛かるきっかけになった。
多くのドイツ人が、自分の認識を変えたのは、当時の西ドイツ大統領リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーが1985年に行なった、ドイツ降伏40周年の歴史的スピーチを受けてのことだった。1945年5月8日は、<ドイツが敗北し滅亡した日ではなく、ドイツが解放された日なのだ>、と彼はスピーチの中で述べたのだった」
ここで述べられた戦後ドイツの、2つの対応の仕方は、非常に興味のあることだ。
1 まず東ドイツは、東の正義を貫く共産主義者は最初から「ファシスト」に抵抗していた、とする虚構を採用した。これはヒトラーと戦ったソ連の存在が大きいであろう。戦後、東ドイツがソ連と同じ社会主義国家であったことが、この虚構を採用させたのだと思われる。
2 西ドイツは、ドイツの罪を認め、公的に償いをする道を採用した。「ポスト英雄(英雄が退場した後)型」と呼ばれた。
興味深いのは、その後の、西ドイツの「ポスト国家(国家が退場した後の)型」だ。「若い西ドイツ人は「国家」より下位にある「地方」の人間(例えばシュヴァーベン人とかバイエルン人など)または国を越えた人間、つまり善良なヨーロッパ人、に自分のアイデンティティーを求めた」ことである。
それが現在のEUの盟主としての、ドイツの底流になっているのであろう。
英国がEUからの脱退を模索しているのに対して、ドイツがその素振りも見せないのは、忌まわしい第二次世界大戦の記憶から学んだ「国を越えた人間」「善良なヨーロッパ人」にアイデンティティーを求めたからである。
ただ、これまで順調にやってきたドイツの戦後史は、大きなターニングポイントに差し掛かっている。ひとつは難民問題である。それから英国のEUからの脱退問題である。これは英国が内向きになってきたことを物語る。EUにとっては大きな政治的打撃になろう。その分、ドイツの役割と負担は重くなる。これをドイツがどのように乗り切っていくか。
(「ヒトラーが問いかけるもの(2)」に続く)
以上は「兵頭に訊こう」より
日本は今だに独立国になっていないのです。TPPにより米国に吸収合併されるようなもの 以上
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