社会科学者の随想さんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1066787789.html
<転載開始>
【『「記録するために文章」を残した人を,記憶すら語らない人たちが「不正確だ」と非難する。「萩生田氏ご発言」の理不尽』(『朝日新聞』2017年6月21日夕刊1面「素粒子」)】 
『朝日新聞』2017年6月21夕刊素粒子
 
【自国の文書管理をきちんとできない国家体制は,民主主義を構えるまともな先進国(戦後レジームの一環?)とはいえない】


 ①「加計文書で注意に抗議文  NPOが文科相に」(『朝日新聞』2017年7月7日朝刊29面「社会」)

 本日〔2017年7月7日〕のこの『朝日新聞』朝刊にベタ記事であったが,つぎのような報道があった。このなかに登場する三木由希子はいままで『朝日新聞』の記事のなかには,とりあつかいは大きくないものの,なんども出ていた人物である。

   学校法人「加計(かけ)学園」の獣医学部新設についての文書の管理が不適切だったとして,松野博一文部科学相が同省幹部を口頭で厳重注意したことに対し,NPO法人「情報公開クリアリングハウス」(三木由希子理事長)は〔7月〕6日,「不当・不正で厳重に抗議する」などとする抗議文を松野氏に送った。

 クリアリングハウスは抗議文で「利用のされ方によって行政文書性を判断するものであり,作成者の認識が個人メモであるか否かを問うものではない」と指摘。そのうえで「文科相による口頭厳重注意が誤った法認識のもとにおこなわれ,行政情報に関わる法制度の信頼性をいちじるしく損なう不当・不正な行為」と抗議した。

三木由希子画像
  

出所)http://www.dailymotion.com/video/x15i6cr_防衛秘密-の多くが廃棄_news

 三木由希子が『朝日新聞』紙面にとりあげられている記事は,同紙のなかで検索してみれば当たって出てくるが,小さい記事(あつかい)であるにせよ,なんども登場している。5月の『朝日新聞』社説のなかでは,つぎのように三木の主張が引用されている。

 ②「〈社説〉安倍政権 知る権利に応えよ」(『朝日新聞』2017年5月22日朝刊)

 疑惑がもたれれば,必要な文書を公開し,国民に丁寧に説明する。政府として当然の責務を果たす気があるのだろうか。安倍晋三首相の友人が理事長を務める学校法人「加計学園」(岡山市)の獣医学部新設計画に関する文書について,松野博一・文部科学相は「存在を確認できなかった」との調査結果を発表した。

 職員への聞きとりや,担当課の共有フォルダーなどを調べた結論だという。調査は実質半日で終了した。個人のパソコンは確認せず,「必要もないと考えている」とし,追加調査もしないという。あまりにも不十分で,問題の沈静化を図ったとしかみえない。

 焦点のひとつは,学部新設で「総理の意向」があったかどうかだ。意思決定までの過程を文書で残すことが,文科省の行政文書管理規則で定められている。しかし同省は報道等で出た該当文書を探しただけという。これで調査といえるのか。再調査をすると同時に,事実関係の確認も徹底すべきだ。今回の政府の対応に,多くの国民が「またか」と感じているのではないか。学校法人・森友学園問題でも,情報公開への後ろ向きな姿勢が際立った。

 NPO法人「情報公開クリアリングハウス」は〔5月〕19日,学園との交渉記録を公開するよう国に求め,東京地裁に提訴した。財務省に残っているはずの電子データの証拠保全も申し立てた。三木由希子理事長は「国の姿勢を見過ごせば,これからも国民に必要な情報がつぎつぎと廃棄され,情報公開制度はなりたたなくなる。私たちの権利に対する重大な挑戦だ」と指摘する。

 別の市民団体も,財務省が面会記録などを廃棄したのは公用文書等毀棄(きき)罪にあたるとして幹部らを刑事告発した。多くの人が怒り,疑問を抱き,もどかしく感じている。

 そもそも森友問題が浮上した発端は,地元の大阪府豊中市議が,国有地の売却価格の公開を求めたのに,国が黒塗りにして隠したことだ。市議が公開を求めた裁判で,国はいまも「開示すれば不当に低廉な金額で取得したような印象を与え,学園の信用,名誉を失墜させる」と主張する。国有地は「国民共有の財産」であることを忘れたのか。
 補注)ここでの国側のいいぶん「開示すれば不当に低廉な金額で取得したような印象を与え,学園の信用,名誉を失墜させる」というのは,相手を入れ間違えた〔すり替えた〕屁理屈である。ここでは「学園(森友)の信用,名誉」を心配するような口調であるが,本当は「国側の信用,名誉」のことをいっているに過ぎない。

 国民主権は,政府が国民に情報を公開し,施策を検証できてこそ実のあるものになる。情報公開に対する国の後ろ向きな態度は,国民主権を支える「知る権利」を脅かすものだ。「公正で民主的な行政の推進」をかかげた情報公開法の理念に,政府は立ち戻るべきだ。(社説引用終わり)

 ③「北鎮記念館」

 1)『第七師団歴史』など
 北海道旭川市には陸上自衛隊の第2師団が置かれているが,その敷地の隅に「北鎮記念館」がある。明治初期の屯田兵,そして陸軍第7師団の歴史を展示している。写真は一階フロアに展示されている「第七師団関係記録」。焼却処分を避けて地中に埋めて難を逃れたものである。陸軍第7師団は北海道の防備に当たっていた部隊であったが,日露戦争以降の対外戦争にも出陣した。
   北鎮記念館画像
     北鎮記念館画像2
      出所)http://ron-asahikawa.la.coocan.jp/gunto/kinenkan.html
  この写真に写っているが,明治の師団創設期から1945年の終戦
   まぎわまでを克明に綴った,いわば師団の日誌『第七師団歴史』
   は,機密文書であったため敗戦直後,当然のごとく処分の対象と
   された。だが、そのあまりに貴重な綴りであることから,司令部
    付勤務だった黒川幸雄曹長が命を賭して隠しもっていた。1962年
   黒川氏本人より第2師団に寄贈された。全国の師団史で全編が揃
っているのはこれだけで,残ったのはまさに奇跡といわれた。

 国道40号を挟み護国神社の向かいに建つ,レンガ造りの洋館が「北鎮記念館」で,陸上自衛隊第2師団司令部などが所在する旭川駐屯地にある。外観はいたって洋風で,旭川市の文化財に指定されている旧陸軍第7師団の機密文書(明治2〔1869〕年の開拓し設置から,第7師団の発足,昭和20年までの主要作戦や人事などを記録)をはじめ,貴重な資料が約2500点が展示されている。

 平成19〔2007〕年6月にリニューアルオープンされたばかりで,1年で入場者数が3万人を超えるなど,観光スポットとして人気を博している。北海道の開拓や防衛に携わった屯田兵や,旧陸軍第7師団の歴史を物語る資料,北海道スキー発祥の地となった旭川について記した資料などが1~2階にわたって展示され,見所が満載である。
 註記)http://toshitsugu.com/asahikawa.htm 参照

 この北鎮記念館を解説する文章は,日本敗戦時に「焼却処分を避けて地中に埋めて難を逃れたものである」と記しているけれども 補注),旧大日本帝国軍のなかでは,敗戦日(戦闘停止)を契機に国内外の各部隊すべてで,徹底的に記録類を焼却処分することになり,しばらくのあいだ各官庁の庭から上がる煙が絶えなかった。「政府による機密文書焼却」が「敗戦直後の命令(1945.8-)」として出されており,そのように敗戦後の敵軍占領に備えて必死になされていた。ごく一部では,8月15日よりも早くその焼却作業に入ったところがあった場合もある。

 2)敗戦時「文書・記録の焼却作業」 
 つぎに引用するのは,その具体的な動きである。引用はネット上では,つぎのようにたどっている。ⅱ)は参照する価値が十分にある。なお文体は補正した。

  ⅰ)https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8735191.html
  ⅱ)http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/26   この題名は『防衛研究所も認める「大半は終戦時に焼却」』。
  ⅲ)ⅱ)に張られているリンクは現在 “ Not Found ”。

 まずこういう断わりから引用しておく。「〔敗戦時〕あまりにも焼却し過ぎて,あとで日本人自身が困ったほどでした。下記サイトにその一端が載っています。ここは本職の日本近現代史の学者も参加しており,そのレベルの高さはネトウヨサイトなどとは比較になりません」。

「公文書焼却について  従軍慰安婦問題を論じる」
(http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/26)
〔以下は途中から引用開始〕
 20:防衛研究所も認める「大半は終戦時に焼却」
  防衛研究所では,戦史の調査研究と戦史の編纂をおこなために,陸海軍にかかわる史料の収集をおこない。史料の大半は終戦時に焼却され,あるいは戦後の混乱により散逸してしまった。焼却をまぬがれたものは米軍に押収され,米国国務省公文書部の保管するところとなったが,長い外交交渉のすえ,昭和33〔1958〕年4月にようやく日本に返還され,その大部分が防衛研究所に所蔵されている。
  (中略)

 46:「軍の焼却命令メモ発見 徴兵日誌にはさまれ 鳥取」(asahi.com,2007年07月06日08時41分)
  敗戦のさい,旧日本軍が全国の自治体に出した徴兵関係書類の焼却命令を記録したメモが,鳥取市の鳥取県立公文書館で確認された。燃やされなかった同県日野郡二部村(にぶそん)(現・西伯郡伯耆〔ほうき〕町)の「兵事動員ニ関スル日誌」の1945(昭和20)年8月15日の項にはさまっていた。研究者によると,軍の焼却命令を伝える文書が残っているのはきわめて珍しく,軍部による指示の具体的内容をしる貴重な資料という。 (中略)

 防衛省防衛研究所戦史部の柴田武彦・主任研究官によると,敗戦時の軍内部の焼却命令は,痕跡を残さないよう,ひそかに出され,命令を伝える文書自体が焼却の対象だったという。
  (中略)

 50:「三日三晩,夜空を焦がして文書を燃やした」
 敗戦後の日本軍の資料焼却については吉田 裕が『現代歴史学と戦争責任』(青木書店,1997年)でくわしく書いていますね。1章を設けて「敗戦前後における公文書の焼却と隠蔽」127~141頁で書いている。

 「敗戦当時,官房文書課事務官であった大山 正が『内務省の文書を全部焼くようにという命令がでまして,後になってどういう人にどういう迷惑がかかるか判らないから,選択なしに全部燃やせということで,内務省の裏庭で三日三晩,えんえんと夜空を焦がして燃やしました』と回想している」(129頁)。
  (中略)

 51:鹿内信隆フジサンケイグループ会議議長(1973年当時)が語る公文書焼却
  終戦8月20日前後なんですよ. ところが,そのころになると陸軍省の経理局も書類をどんどん焼きますわな。 (中略) 経理局長閣下に,たしか中将か少将でしたが,その人に「これは一ケタ違います. 書き直して切り替えてください」といった。 そしたら「きみ,いまそんなことをいわれても,書類は全部焼いちまったんだ。 (中略)

 とにかく,あのころは書類を片っぱしからドラム缶の下のほうに穴をあけて,どんどんぶちこんで燃やすんですから,陸軍省でも海軍省でも. それはもう,大変な書類の焼却でしたね。
  (中略)

 52:秦 郁彦が語る公文書焼却
  軍は有史いらい初めての敗戦に動転したのか,終戦の日に重要書類の大部分を燃やした。戦犯裁判の材料にされるのを恐れたからとされるが,選別の余裕もないままに,人事記録まで処分してしまう。のため,講和後に軍人恩給が復活したとき,裁定に困惑した。しかたなく,履歴がない軍人・軍属には申請書に同一部隊の戦友二名の証明を添付することで間に合わせた。
 註記)秦 郁彦『慰安婦と戦場の性』新潮社,1999年,177-178頁。
 補注)「有史いらい初めての敗戦」という文句は,いったいなにを意味し,なにをいいたいのか不明である。秦 郁彦はときどきこうした不可解な文章を書く習慣の持主である。有史「以来」この国が敗戦したことがなかったという証明はできていない。歴史研究家がこのような意味の判らぬような発言したら失格である。
  (中略)


 55:南京攻略戦に参加した部隊の戦闘詳報(『Apes !  Not Monkeys !  はてな別館』2008-01-07)
 (中略) 南京攻略戦に参加した部隊の戦闘詳報のうち,今日現存していて研究者に資料として用いられているものよりも失われていない現存しない,みつかっていないものの方が多い。ところで,戦闘詳報には捕虜の殺害,敗残兵の殺害が「戦果」として記載されている。

 敗残兵はともかく捕虜の殺害が戦闘詳報に書いてあることじたい重大な意味をもつわけであるが,それはおくとして,戦果として書いている以上過大に書くことはあっても過少に書くことは(なにか特別な理由でもない限り)ない。ということは,仮にすべての戦闘詳報が残っていれば,少なくとも捕虜,敗残兵の殺害に関するかぎり「上限が○○人くらい,それ以上ということはまずない」と相当の説得力をもって主張することができる。

 憲兵隊や法務部の資料にしても,第十軍法務部の陣中日誌と法務部長の日記があるくらいで,上海派遣軍の分は残っていない。その日記には「強姦事件に付ては是迄最も悪性のものに限り公訴提起の方針をとり成べく処分は消極的なりしも斯くの如く続々同事件頻発するに於ては多少再考せざるべからずかと思う」とか「その実際の数を挙ぐれば莫大ならん」と書いてあるので,大規模に発生したことは分かっても,やはり「上限」を推定する資料にはならない。

 つまり,被害(加害)規模がはっきりせず「30万人はない」と断言できない要因には自業自得的な側面もある。ちなみに,BC級戦犯裁判においても降伏時の文書焼却のため弁護に支障を来したケースがあるとのことである。
  (中略)

 56:大阪府特高文書の焼却処分
  敗戦の15日の午後,特高関係の書類を焼却せよとの指令が入ったので,山なす書類を暑い陽ざしのなかでつぎつぎにドラム缶のなかに投げこみ,まる二日間かけて焼いた(出典『世界』2008/4月号 (no.777)  pp. 262-268 より抜粋)
  (中略)

 57:内務省事務官が全国をまわって公文書焼却の通達
奥野誠亮画像  奥野誠亮元法相(当時は内務省財政課事務官)〔の話〕。公文書は焼却するとかいった事項が決定になり,これらの趣旨を陸軍は陸軍の系統を通じて下部に通知する,海軍は海軍の系統を通じて下部に通知する,内政関係は地方統監,府県知事,市町村の系統で通知するということになった。
 出所)奥野誠亮,https://www.youtube.com/watch?v=2Aq3onhKnBA

 これは表向きには出せない事項だから,それとこれとは別であったが,とにかく総務局長会議で内容を決めて,陸海軍にいって,さらに陸海軍と最後の打ち合わせをして,それをまとめて地方総監に指示することにした。

 〔8月〕15日以降は,いつ米軍が上陸してくるかもわからないので,そのさいにそういう文書をみられてもまずいから,一部は文書に記載しておくがその他は口頭連絡にしようということで,小林さんと原文兵衛さん,三輪良雄さん,それに私の4人が地域を分担して出かけた。
  (中略)

 60:朝鮮総督府の書類をみんな焼かせたという元朝鮮総督府
警察署長の証言
  負けたとわかったとき,私の判断で役所の書類はみんな焼かせました。とくに高等警察の「内鮮」に関するものはぐあいが悪い。しかし,書類というものは燻って燃えないものですよ。一週間くらいかかって焼きました(西野留美子『従軍慰安婦 元兵士たちの証言』217頁)。
  (中略)

 62:林 博史氏が英国立公文書館でみつけた資料(2008.4.4『共同配信記事』2008.4.5,各紙に掲載)
  1945年に日本が敗戦受け入れを決定したのち,旧海軍が天皇の「御真影(写真)」などを含む重要文書類の焼却を命じた通達内容が〔2008年4月〕4日までに,連合国側が当時,日本の暗号を解読して作成された英公文書で判明した。戦犯訴追に言及したポツダム宣言を念頭に,昭和天皇の責任回避を敗戦決定直後から意識していた可能性をうかがわせる希少な史料という。関東学院大の林 博史(はやし・ひろふみ)教授(現代史)が英国立公文書館でみつけた。

 研究者によると,当時の日本軍が出した文書類の焼却命令は現在,旧陸軍関係の原文が防衛省防衛研究所にわずかに残っているほか,米国立公文書館で旧陸軍による命令の要約史料として若干みつかっている。旧海軍関係の個別命令が原文に近いかたちでまとまって確認されたのは,今回が初めてとみられる。

 重要文書類の焼却は,1945年8月14日の閣議決定などを受け,連合国軍進駐までの約2週間に,政府や旧軍が組織的に実施。
  (中略)

 -- 一橋大大学院の吉田 裕(よしだ・ゆたか)教授(近現代史)の話
 (中略) この徹底焼却のため,日本の指導部を裁く東京裁判は証人に依存した裁判となった。対照的にドイツのニュルンベルク裁判は連合国側が押さえた証拠書類にもとづく裁判といわれる。(以上で 2)の引用終わり)

 敗戦当時,日本政府・軍部が徹底的に公式文書を焼却したがために,なかでも,もっとも代表的に問題を紛糾・錯綜させて歴史問題として議論の対象になってきたのが,例の従軍慰安婦問題である。あまりにも旧大日本帝国軍の歴史においては大きな汚点であったために,頭から全面的に否認しなければならないと思いこんでいる人たちが多くいる。

 また,前段の「57:内務省事務官が全国をまわって公文書焼却の通達」に登壇した人物,奥野誠亮(おくの・せいすけ)元法相(当時は内務省財政課事務官)が,戦後においてどのような言動を記録してきたか,その一端を産経新聞の報道にみておく。

   歴史問題や憲法改正問題で筋の通った主張をした保守派の論客としてしられる。法相時代の55年8月,国会答弁で自主憲法制定の信念を披瀝し,野党が反発したこともあった。国土庁長官だった62年5月には,国会で,先の大戦について「日本に侵略の意図はなかった」「盧溝橋事件は偶発的」などと答弁したことが批判され,閣僚を辞任した。
 註記)http://www.sankei.com/politics/news/161117/plt1611170009-n1.html

 なお,この記事のなかで「55年」「62年」とは昭和のそれ(年)であるが,分かりにくい。うっかり読んでいたら「1955年」「1962年」とも読みまちがえかねない。奥野が法相を務めていた在任期間は1980年7月17日から1981年11月30日だったので,こちらを参照して上の〈分かりにくさ〉をいちおう確認しておいた。

 さて,以上のように敗戦直後に政府や軍部が必死になって公的文書を隠滅すべく焼却作業に励んでいた事実は,当時を生き抜いてきた人びとであれば,官庁や軍隊の人間でなくとも,観察できていた「歴史の暗部」(事実の抹消行為)であった。従軍慰安婦の問題は軍隊が距離を置いて間接的に設営させていたがゆえに,いろいろに逃げ口上がいわれるどころか,ネトウヨ的に浅薄きわまりないいいぶんとしては「存在しなかった」とまでいいはられてきた。

 なぜ,以上のごとき敗戦時における焼却作業,公式文書・記録のなきものが必死におこなわれたかといえば,その事実に主に(もっぱら?)関連する人びとが,組織のなかにおいては責任ある立場を占めていたからである。戦争に勝利した敵軍が日本を占領し,事後において政治・経済を支配していくことになれば,戦争遂行に従事した将兵でもとくに高級将校(将官・佐官上位)が,追って,軍事裁判的に裁きを受けるほかない事態になることは目にみえていた。

 戦時体制下における公式文書・記録が,敗戦したのちにどのようにあつかわれるかについては,なにも1945年8月の日本だけの問題ではなかった。しかしそれにしても,実際にマッカーサーの軍隊が日本に到着するのは8月30日であり,だいぶ時間がとれていた。その間,もっけの幸いとばかり「焼却につぐ焼却の作業」を,日本側は懸命おこなっていた。

 ということで,旧日本軍の記録は当時の命令・指示にさからって文書が隠されていた旭川の旧陸軍「第七師団関係記録」だけになっていた。あとは,やはり秘密裏に保管されていた文書・記録が古書店に出回って発見されたり,故人となった旧軍人の遺品から出てくることもあったりしたものの,ごくまれな発掘にしかなっていなかった。

 いまとなって,戦時体制期のそれも軍隊関連の文書・記録が残されていた事実をとおして思うことは,「自国の歴史」をあとになって回顧するさい,これをどのように解釈するにせよ,絶対に必要不可欠な仕事である点を教えている。さらにいえば,21世紀のいまになっても現在,安倍晋三政権がたずさわっている内政・外交においては,文書・記録の管理状態からして明確な方針やこのための政治的理念が,もともと不在であるかのような「情けない」実態がある。

 ④「文書の公開,狭める政府 文科相,『行政文書』と見なさぬ答弁 加計学園問題」(『朝日新聞』2017年5月27日朝刊)

 学校法人「加計学園」の国家戦略特区での獣医学部新設計画について,文部科学省が内閣府から「総理のご意向」などといわれたと記録された一連の文書。当時の文科省トップだった前川喜平・前事務次官が会見で存在を認めたあとも,政府は「文書は確認できない」との姿勢を変えようとしない。専門家は,保存や公開の対象に『朝日新聞』2017年5月27日朝刊三木由希子行政文書なる「行政文書」をきわめて狭く捉える政府の姿勢を批判している。(画面 クリックで 拡大・可 →)

 「行政文書は(文科省の共有)フォルダー等に入って共用されている。そこに存在がなかった」。松野博一文科相は〔5月〕26日の衆院文科委員会で,前日に前川氏が存在を認めた文書についてこう述べ,「調査で『確認できない』という結果が出ている」と答弁した。野党側は国会審議で調査が不十分だと繰り返し指摘しているが,松野氏ら政府側は一連の文書が保存,公開の対象になる「行政文書」ではないとの姿勢を貫いている。

 「行政文書」は,情報公開法にもとづく請求があれば,理由がないかぎり開示が義務づけられている。公文書管理法はなにが行政文書かについては,以下のように定義している。

  ▽-1 行政機関の職員が作成,取得,
  ▽-2 あらゆる記録媒体(電子データ)を含む,
  ▽-3 行政機関の職員が組織的に用いる,
  ▽-4 行政機関が保有することを満たすもの。

 前川氏は〔5月〕25日の記者会見で,一連の文書は昨〔2016〕年秋ごろ「専門教育課から事務次官室で報告を受けたさいに受けとった文書に間違いない」と証言。「真正なもので,専門教育課で作成され,幹部の間で共有された文書だ」とも明言した。一部には,文科省の職員の実名も書かれている。前川氏の証言や文面から判断すると,一連の文書は文科省職員が作成し,少なくとも前川氏に示されていたことから組織的に用いられており,行政文書に当たる可能性がきわめて高い。

 公文書管理に詳しい右崎正博・独協大名誉教授(憲法・情報法)は,一連の文書の内容について「行政文書なのは明らかだ」と指摘。一連の文書について調べた文科省の調査については,「(担当の専門教育課の)共有フォルダーの調査と職員への聞きとりだけでは十分とはいえない」として,個人が管理するパソコンなどの調査が必要だとの立場だ。再調査も否定する政府の姿勢に「公文書管理法と情報公開法はなるべく多くの文書を作成・保管し,公開することを趣旨としている。政府はそれを無視している」と批判する。
 補注)その後,松野博一文科相は,前川喜平前事務次官が「あるはずだ」といっていたその「文書は確認できない」と応えていたけれども,この発言は事実ではなく,文部科学省の関係部署の職員たちが共有していたことが判明していた。

 ※ 不開示・「廃棄」相次ぐ ※
 行政文書をめぐっては最近,各省庁の情報開示への消極的な姿勢が問題視されている。内閣法制局は,国会審議に備えた「想定問答」が局内のパソコンの共有フォルダーにあったのに,開示請求に対して「行政文書ではない」として「不開示」とした。だが,今〔2017〕年1月に総務省の「情報公開・個人情報保護審査会」が「行政文書」に当たると答申。開示に転じた。

 学校法人「森友学園」への国有地売却問題では,財務省が学園側との面会記録を「廃棄した」としたが,会計検査院は売買契約が2026年までの分割払いのため,「一般論でいうと支払いが完了していないケースについては,事案じたいが完全に終了したと認めるのはなかなか難しい」と国会で答弁した。

 NPO法人「情報公開クリアリングハウス」の三木由希子理事長は「政治的介入などを示唆する文書については,行政文書とせずに職員の個人的なメモとみなし,開示対象としていない可能性がある」と指摘。「官僚の自己都合や政治的配慮から,開示が義務づけられた行政文書の範囲を恣意的に狭める傾向が強まっている」とみる。(引用終わり)

 ここに再び,三木由希子が登場している。政府・権力支配者側の立場に居る者たちは,なにかコトが起きたときは当然のことのように,自分たちに不利なる情報は隠そうするに決まっている。だから「行政文書をめぐっては最近,各省庁の情報開示」が格別に要求されるのであり,「行政機関の保有する情報の公開に関する法律」(1999年5月14日公布,2001年4月1日施行,通称「情報公開法」)もある。
 
 しかし,日本におけるこの情報公開法の実際における運営は,はなはだ心もとない実情にあるというほかない。こういう解説が参考になる。2013年6月時点の記述である。

◆ 日本の情報公開制度どこが問題?/
秘密保護法案で「知る権利」に懸念 ◆
=『THE PAGE 気になるニュースをわかりやすく』
2013.10.16 13:42 =

 政府は秋の臨時国会に特定秘密保護法案を提出する予定である。しかし,この法案に対しては慎重論も多く,予定どおり国会で審議できるかは不透明な状況となっている。その最大の理由は,日本では情報公開制度が十分に整備されておらず,この状態のまま法案が通過してしまうと,国民のしる権利がないがしろにされると危惧する声が上がっているからである。
 補注)特定秘密保護法は2013年10月25日,第2次安倍内閣が閣議決定をし,第185回国会に提出され,同年12月6日に成立した。同年12月13日に公布され,2014年12月10日に施行された。

 日本の情報公開制度は,基本的に情報公開法という法律で規定されている。しかし,情報公開法はあくまで,存在している文書を公開するためのルールである。きちんとした文書が政府のなかで作成・管理されていなければ,情報公開法は意味をなさない。
 補注)森友学園の小学校新設申請「問題」や加計学園の獣医学部認可「問題」に関して,現行の情報公開法を適用するにしても,その前提になる文書・記録の作成・管理に関する規則・手順が,これまですでにとりざたされてきたように,きわめてふたしかな状態にある。これでは今後も,類似の問題が発生していかざるをえない。

 a)   公文書管理法は2011年に施行されたばかりである。
 文書の作成・管理に関する法律は公文書管理法で規定されているが,驚くべきことに,この法律が施行される2011年4月まで,日本では公文書を管理するための法律が存在していなかった。政府機関は公務員の勝手な判断で文書を作成したり破棄している状態であった。このため年金記録が存在しない,重要な外交文書が公務員の都合で破棄されるといった問題がたびたび発生していた。

 公文書管理法の施行によってとりあえず政府機関は,すべての文書をルールに従って管理することが義務づけられた。だが,法律の施行後も震災に関連した会議の議事録が作成されないなど,法律はないがしろにされたままである。また情報公開法が先に施行されてしまったため,各省の公務員は,情報公開法の施行を前に,自分達に都合の悪い文書はすべて破棄してしていた。このため,過去に遡って国政を調査することがきわめてむずかしくなっている。
 補注)この段落における説明はまるで,敗戦時における公的文章・記録の焼却作業に似たような光景を思いおこさせるが,日本政府が公文書管理体制をどのように考えてきたのかについては,たいそうお寒い事情が理解できる。

 情報公開法そのものについても不十分な点が多いと指摘されている。現行の情報公開法では,情報の開示をめぐって裁判になった場合,裁判官が該当する文書をみて開示の必要性を判断することができない。これでは政府にとって都合の悪い文書はすべて非開示にすることができる。また情報公開請求にはお金がかかるため,資金力がないと大規模な情報公開請求ができないような仕組になってもいる。

 b)  米国の前提は「政府は国民のもの」
 日本の情報公開制度は米国の制度を手本にしたといわれているが,米国と日本では制度のなりたちそのものが決定的に異なっているす。米国では,政府は国民のものであり,国民は政府がもつすべての情報についてしる権利を有することが大前提となっている。そのうえで安全保障など機密を要する情報のとりあつかいが議論されている。

 しかし,日本の場合はそのような姿勢にはなっていない。どちらかというと,政府が国民に対して,必要に応じて情報をみせてもよいという姿勢に立っている。表面的な制度は米国のものを真似ているが,本質的な内容はまったく異なっている。
(The Capital Tribune Japan)
 註記)https://thepage.jp/detail/20131016-00000004-wordleaf
    https://thepage.jp/detail/20131016-00000004-wordleaf?page=2

 以上の記述から理解できるのは,日本国が情報公開の面では間違いなく,先進国とはいえない事情が控えていることである。「モリ・かけ」両学園問題ではともかく,関係する情報はいっさい出さない,それもあるとも,ないともいわないかのような,安倍晋三政権側の態度であった。

 たまたま,加計学園の獣医学部認可「問題」に関しては,森川喜平前文部科学省事務次官のような,誠実で正直な元高級官僚が発言してくれたおかげで,政府側の基本である「国民を騙そうとするだけの態度」ばバレてしまい,いい加減,国民側からの不信観が高まり,くわえて批判する声も大きくなってきた。するとその後,なにやかや小出しにしてはあったが,文部科学省側にも関連する文書・記録があったと訂正して,それらを「探し出して」きていた。
 
 結局,国政選挙は当面はない様子ではあるが,都議選において自民党が惨敗したのは,多分そういう事情が背景があったためであり,これによってつぎのよう変化も生じてきた。

 来週初めの7月10日(月曜日)には,安倍晋三君が欧州訪問に逃げまわっている状況のなかで,閉会中ではあるが前川前次官を国会において参考人として招致し,とくに加計学園問題が議論される予定になっている。これは,都議選の結果を受けて逃げきれないと観念した国会自民党側の譲歩であった。しかし,政府側は後出しジャンケンの要領で,自陣営側に都合のよい解釈を,重ねておこなう可能性「大」であるが,いずれにせよ,最近における安倍晋三君は,実質的なレームダック( lame duck,脚の悪い鴨の意)状態にある。

 2017年7月6日,九州地方では台風が通過したあとなのに豪雨(記録的大雨と表現されている)にみまわれ,大きな被害が出ている。ところが,安倍晋三君は5日から欧州に出張中であり,副総理大臣の麻生太郎が代役を務めていた。この豪雨の襲来は予測不可能でなかったはずであり,首相の日程のとり方には疑問がもたれている。また,前川前次官記者の証人招致時にも,安倍晋三君はまだ欧州にいる日程を組んでいた。いまや,肝心で困難な国事に対峙することになると,この首相は「尻尾を巻いて逃げる人間(?)」になっているらしい。

 以上のごとき7月上旬における安倍晋三君の行動記録は,自身の特性である「傲慢と幼稚」のうち,後者だけが集中豪雨的に顕現されたものと観察してよい。

  【 補  記 】
  三木由希子が理事長を務める「特定非営利活動法人情報公開クリアリングハウス」については,つぎのホームページを参照されたい。

 ⇒ https://clearing-house.org/?page_id=1170

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