第7章、カルマ清算のための身魂磨き実践編ー①
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以下は「2012年のカルマの法則」より 人生は身・口・意の癖が形になったもの善くないカルマを清算するためには日々の身魂磨きがもっとも大切である、と申し上げてきました。この章では具体的な身魂磨きの実践方法をご紹介していきます。 まず「身魂」という言葉の意味を確認しておきたいと思います。 「身魂」という言葉の「身」は「この世において形となって現れ、認識できるもの」を意味しています。私たちの言動や心の状態、つまり「身・口・意」のことです。これに対して「魂」は、「普段は認識できない心の中身」ということで、「潜在意識」と言ってもよいでしょう。 その潜在意識の中に溜まっている過去の善くない身・口・意を一掃することが「カルマの清算」で、そのことを「大本神諭」や「日月神示」では「大掃除」「大洗濯」と表現していました。そして、「身魂磨き」とは「大掃除が終わったあと、再び潜在意識に善くないカルマを溜めないようにするために心の習慣を改めること」を意味しています。 そのためには、まず自分の身・口・意の癖を知ることが必要です。自分が日常的にどのような気持ちの持ち方をしているか(心の癖)、どのような言葉をよく使っているか(言葉の癖)、どのような行動パターンを持っているか(行動の癖)を知ること、つまり自分の「身・口・意」のパターンを知る必要があるということです。 しかしながら、自分の「身・口・意」のパターンはなかなかわかりにくいものです。それを教えてくれるのがカルマの法則(原因と結果の法則)なのですが、そのカルマの結果は個々の原因ごとにはっきりわかる形で返ってくるわけではありません。いろいろなカルマの原因が複合的に絡み合い、しかもかなりの時間が経ってから私たちの運命に影響してくるため、その出来事が過去のどの原因の結果なのかということがわかりにくいのです。 ここに、そのようなカルマの特徴をわかりやすく説明した一文がありますのでご紹介します。以下は『チベットの生と死の書』(ソギャル・リンポチェ・著/講談社)からの抜粋です。この文章を読みますと、原因に対応する結果が必ずしも一つずつセットとなって現れてくるわけではないことがおわかりいただけると思います。 カルマは何を意味しているというべきだろう? それは、わたしたちが身体で、言葉で、心で行なうことが、すべてそれに応じた結果をもたらすということを意味している。 「たとえわずかな毒であっても、死をもたらすことがあり、たとえ小さな種であっても、大樹に育つことがある」とは、師たちのあいだで語り伝えられた言葉である。それをブッダはこう言い表す。 「悪行を、単にそれが些細なものというだけで見過ごしてはいけない。小さな火花ひとつで、山ほどもある積みわらを焼きつくすことができるのだから。ささやかな善行を、それが恵みをもたらすことはあるまいと、見過ごしてはいけない。小さな一滴の水の雫(しずく)も、やがては大きな器を満たすのだから」。 わたしたちの行為の結果は今はまだ熟していないかもしれない。だが、いつか必ず、ふさわしい時と場所を得て、それは成熟する。普通わたしたちは自分のしたことを忘れる。そしてはるか後になって、その結果がわたしたちに追いついてくる。その頃にはそれを原因と結びつけることはできなくなっている。(中略) わたしたちの行為の結果は遅れてやって来る。来世になることもある。そして、その原因をひとつに特定することはできない。なぜなら、どんな出来事も、ともに熟した多くのカルマのきわめて複雑な複合体であるからだ。そのためわたしたちは、物事は「偶然」起こると考え、すべてがうまくいくと、それをただ「幸運」と呼ぶ。(中略) ブッダが言ったように、「今のあなたはかつてのあなたであり、未来のあなたは今のあなた」なのだ。パドマサンバヴァはさらに言う。「過去世の自分を知りたければ、今の自分の状態を見ることだ。来世の自分を知りたければ、今の自分の行ないを見ることだ」。 つまり、来世でどのような誕生を迎えるかは、現世における自分の行為の質によって決まるということである。ただし、行為がどのような結果をもたらすかは、ひとえにその行為の裏にある意志や動機によるのであって、行為の大小によるのではない。 ―― 『チベットの生と死の書』(ソギャル・リンポチェ・著/講談社) ここで、この文章の内容に沿って「カルマの法則」のポイントを次の6項目に整理してみました。 (1) カルマは私たちの行為、言葉、思念の結果として現れる。 (2) カルマの原因が小さなものであっても、やがて大きく育っていく。 (3) 育ったカルマは相応しいタイミングで、人生に結果をもたらす。(その結果は、生まれ 変わった次の人生の中に現れることもある) (4) 結果が現れるまでに一定の時間が経過するため、人はその結果がどの原因による ものかがわからなくなっている。 (5) 人生で遭遇する出来事は過去のカルマの複雑な複合体なので、原因をひとつに特 定することは難しい。 (6) カルマの大きさを左右するのは行為の大小ではなく、行為の裏にある意志や動機で ある。 まず、(1)の「カルマは私たちの行為、言葉、思念の結果として現れる」ということですが、カルマは善いカルマも善くないカルマもすべて私たちの「身・口・意」の結果として現れるということです。仏教で教える「因果応報の理」がまさにそのことを述べています。「善因善果」「悪因悪果」ということで、「身・口・意」によって作られた「因(原因)」は、必ず「果(結果)」となって人の運命に影響を及ぼし、その人生を形作っていくことになるということです。 ですから、人の輪廻転生が終わると言われているこの終末の時代においては、過去(または過去生)の善くないカルマを一掃し、またそのあとで新たに善くないカルマを作らないために、行為、言葉、思念を正しくコントロールする習慣を身につける必要があるということです。これが「身魂磨き」の目的と言えます。 つまり「過去の善くないカルマを清算すること」「再び善くないカルマを作らないように身・口・意をコントロールすること」の2つが大切だということです。 (2)の「カルマの原因が小さなものであっても、やがて大きく育っていく」と同じ意味のことが新約聖書にもイエスの言葉として次のように表現されています。 「天の国(The Kingdom of heaven) は、一粒のからし種のようなものです。ある人がそれをとって畑にまくと、それはどんな種よりも小さいのに、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に巣を作るほどの木になります」。またほかの譬を彼らに語られた。「天の国は、パン種のようなものです。女の人がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんできます」。(マタイによる福音書) この世で作った心の癖は、この世とは次元の異なる神の国や霊界においては、その何十倍、何百倍にも膨らんでしまうということです。そのことを、先ほどの文章の中で仏陀も、「悪行を、単にそれが些細なものというだけで見過ごしてはいけない。小さな火花ひとつで、山ほどもある積みわらを焼きつくすことができるのだから。ささやかな善行を、それが恵みをもたらすことはあるまいと、見過ごしてはいけない。小さな一滴の水の雫(しずく)も、やがては大きな器を満たすのだから」と述べていました。これと同じことは、霊界行脚をしてきた超能力者として知られるスウェーデンボルグも語っています。 結論としまして、神の国や霊界などの異次元においては、私たちが「身・口・意」によって作った「原因」に対して、「結果」が大きく拡大され、しかも瞬時に返ってくるということです。つまり、あの世では善くない原因の見返りは大変激烈なものになると覚悟しておく必要があります。この世で言う「人を呪わば穴ふたつ」とよく似た現象が瞬時に起こるということですから、そういう意味では、この世で身・口・意のコントロールができない人が神の国に行けないのは、むしろ神の慈悲心の表れと言えるかも知れません。 (3)の「育ったカルマは相応しいタイミングで、人生に結果をもたらす」という場合の「タイミング」のことを、仏教では「縁」と表現しています。「因縁」という言葉もありますが、カルマ(因)はタイミング(縁)を得て結果(果)をもたらすのです。多くの場合、私たちが人生で出会う人がそのタイミングを作ってくれます。 (4)と(5)は既に述べてきた通りです。この世では、カルマの結果が現れるまでに時間がかかるため、それが現れたときには原因となる自分の身・口・意について忘れてしまっているということです。しかも、カルマはさまざまな原因の複合体として結果を生み出していますので、一つの原因が一つの結果とストレートにつながっているようには見えないのです。 つまり、人を殴ったら必ず自分が逆の立場で殴り返されることを体験するわけではないということです。「殴る」という心の働きがカルマとなって潜在意識に記録され、それが大きく育つことによって、あるとき地震で家具が倒れてきて頭を直撃する、といった形でカルマが完結するということもあるでしょう。また、職場の上司に不満を持っていていつも心の中で反発している人が、ある日、車を運転して交差点で停車しているところに、後方から他の車に追突される、といった形で「衝突」という心の働きが現象化するケースも考えられます。 この人の場合、自分が車に衝突されたのは単なる偶然で、単に運が悪かったためだと考えるのが普通でしょう。まさか自分が普段から職場の上司に対して抱いている「衝突する気持ち」が、潜在意識の中で大きく育ち、それが車の衝突という形で実を結んだとは理解できないはずです。 さて、カルマの法則でもっとも留意しないといけないのは、(6)の「カルマの大きさを左右するのは行為の大小ではなく、行為の裏にある意志や動機である」という内容です。私たちがどういう意図をもってその行為をなしたか、ということが結果を生み出すということです。もちろん、善くない意図を持たずに、知らずに行なったことに対しても、結果はかならず現れますが、それほど大きな見返りとはならないということです。逆に、小さな行為であっても、その裏に邪悪な意図が隠れていれば、結果は甚大な形で返ってくることになります。 たとえば、他人にイタズラで石を投げたのが頭に当たって怪我をさせた場合、傷つける意図はなかったとしても結果として他人にキズを負わせたという行為のカルマは必ず返ってきます。それは、まず「大変なことをしてしまった。ごめんなさい」という反省させられる形で結果が現れます。あるいは、怪我をした本人から面罵されたり、周りの人たちから冷たい非難の目で見られるという形でカルマの結果を受け取ることになるでしょう。そこで、その人は「イタズラでも人に石を投げたりしてはいけない」という気づきを得ることになり、以後はそのような軽率な行動を慎むことになります。そのことによってカルマは完結することになるのです。 しかしながら、もしその人を大けがさせたいという悪意を持って石を投げたのであれば、結果としてその石が相手の人に当たらなかったとしても、「人を傷つけたい」という悪意は潜在意識に植え込まれて、さらに大きく育っていくことになります。やがてさらに大きな事件の当事者として、犯罪を犯し、法律の裁きを受けて社会的に厳しい立場に置かれるという結果をまねくことにもなるのです。カルマの法則は「人に気づきを与える」という目的で働くようになっているからです。自分の身・口・意の結果を知ることによって、その身・口・意の内容を改めることになれば、善くないカルマは解消され、その結果として、運命が好転していくことにもなるということです。 最後に、そのあたりのカルマのメカニズムをうまく表現した 『魂との対話』(ゲーリー・ズーカフ著/サンマーク出版)の中の一文をご紹介して、この項を終わりたいと思います。ズーカフはこの文章の中で「意志と動機」のことを「意図」と表現していますが、同じ意味にとらえてよいでしょう。 ■あなたは永遠に責任から逃れられない あらゆる行動、思考、フィーリングが、意図によって動機づけられている。意図は、何らかの結果と一体となって存在する原因である。もし私たちが何らかの原因にかかわったとしたら、私たちがその結果とかかわらないことは不可能である。このようにきわめて深いレベルで、私たちは、自分のすべての行動、思考、フィーリングに関する責任を負わせられている。 私たちは、自分の意図の果実のすべてを、みずから食べなくてはならないのである。よって、自分のさまざまな意図を認識するとともに、どの意図がどんな結果をつくり出すかを整理し、自分がつくり出したい結果につながる意図を選択することは賢いことである。(中略) 他人を嫌悪する人間は、他人からの嫌悪を体験することになる。他人を愛する人間は、他人からの愛を体験することになる。キリストが「山上の説教」のなかで行なった、「自分がしてもらいたいと思うことを、人にしてあげなさい」という教えは、カルマの力学にもとづいた行動指針である。個別化されたカルマの法則は、「あなたは自分が世界に与えたものを、世界から受け取ることになる」といったところだろう。 カルマは道徳的な力学ではない。道徳は人間が創造したものである。宇宙はけっして裁かない。カルマの法則は、私たちの道徳システムの内のエネルギーバランスをふくむ、あらゆるエネルギー・バランスを支配している。(中略) 結果をまだ生み出していない原因のすべてが、まだ完結していない出来事である。それはアンバランスなエネルギー状態にあり、バランスがとれる状態に向かう過程にある。そしてそのバランスは、必ずしもひとつの生涯のなかでとられるとはかぎらない。 ――『魂との対話』(ゲーリー・ズーカフ著/サンマーク出版) |