心と体

2011年12月22日 (木)

第7章、カルマ清算のための身魂磨き実践編ー①

第7章 カルマ清算のための身魂磨き実践編
以下は「2012年のカルマの法則」より
 人生は身・口・意の癖が形になったもの

 善くないカルマを清算するためには日々の身魂磨きがもっとも大切である、と申し上げてきました。この章では具体的な身魂磨きの実践方法をご紹介していきます。
  まず「身魂」という言葉の意味を確認しておきたいと思います。
  「身魂」という言葉の「身」は「この世において形となって現れ、認識できるもの」を意味しています。私たちの言動や心の状態、つまり「身・口・意」のことです。これに対して「魂」は、「普段は認識できない心の中身」ということで、「潜在意識」と言ってもよいでしょう。
  その潜在意識の中に溜まっている過去の善くない身・口・意を一掃することが「カルマの清算」で、そのことを「大本神諭」や「日月神示」では「大掃除」「大洗濯」と表現していました。そして、「身魂磨き」とは「大掃除が終わったあと、再び潜在意識に善くないカルマを溜めないようにするために心の習慣を改めること」を意味しています。
  そのためには、まず自分の身・口・意の癖を知ることが必要です。自分が日常的にどのような気持ちの持ち方をしているか(心の癖)、どのような言葉をよく使っているか(言葉の癖)、どのような行動パターンを持っているか(行動の癖)を知ること、つまり自分の「身・口・意」のパターンを知る必要があるということです。
  しかしながら、自分の「身・口・意」のパターンはなかなかわかりにくいものです。それを教えてくれるのがカルマの法則(原因と結果の法則)なのですが、そのカルマの結果は個々の原因ごとにはっきりわかる形で返ってくるわけではありません。いろいろなカルマの原因が複合的に絡み合い、しかもかなりの時間が経ってから私たちの運命に影響してくるため、その出来事が過去のどの原因の結果なのかということがわかりにくいのです。
  ここに、そのようなカルマの特徴をわかりやすく説明した一文がありますのでご紹介します。以下は
『チベットの生と死の書』(ソギャル・リンポチェ・著/講談社)からの抜粋です。この文章を読みますと、原因に対応する結果が必ずしも一つずつセットとなって現れてくるわけではないことがおわかりいただけると思います。

 
カルマは何を意味しているというべきだろう? それは、わたしたちが身体で、言葉で、心で行なうことが、すべてそれに応じた結果をもたらすということを意味している。
  「たとえわずかな毒であっても、死をもたらすことがあり、たとえ小さな種であっても、大樹に育つことがある」とは、師たちのあいだで語り伝えられた言葉である。それをブッダはこう言い表す。
  「悪行を、単にそれが些細なものというだけで見過ごしてはいけない。小さな火花ひとつで、山ほどもある積みわらを焼きつくすことができるのだから。ささやかな善行を、それが恵みをもたらすことはあるまいと、見過ごしてはいけない。小さな一滴の水の雫(しずく)も、やがては大きな器を満たすのだから」。
  わたしたちの行為の結果は今はまだ熟していないかもしれない。だが、いつか必ず、ふさわしい時と場所を得て、それは成熟する。普通わたしたちは自分のしたことを忘れる。そしてはるか後になって、その結果がわたしたちに追いついてくる。その頃にはそれを原因と結びつけることはできなくなっている。(中略)
  わたしたちの行為の結果は遅れてやって来る。来世になることもある。そして、その原因をひとつに特定することはできない。なぜなら、どんな出来事も、ともに熟した多くのカルマのきわめて複雑な複合体であるからだ。そのためわたしたちは、物事は「偶然」起こると考え、すべてがうまくいくと、それをただ「幸運」と呼ぶ。(中略)
  ブッダが言ったように、「今のあなたはかつてのあなたであり、未来のあなたは今のあなた」なのだ。パドマサンバヴァはさらに言う。「過去世の自分を知りたければ、今の自分の状態を見ることだ。来世の自分を知りたければ、今の自分の行ないを見ることだ」。
  つまり、来世でどのような誕生を迎えるかは、現世における自分の行為の質によって決まるということである。ただし、行為がどのような結果をもたらすかは、ひとえにその行為の裏にある意志や動機によるのであって、行為の大小によるのではない。
            ―― 『チベットの生と死の書』(ソギャル・リンポチェ・著/講談社)


  ここで、この文章の内容に沿って「カルマの法則」のポイントを次の6項目に整理してみました。


(1) カルマは私たちの行為、言葉、思念の結果として現れる。
(2) カルマの原因が小さなものであっても、やがて大きく育っていく。
(3) 育ったカルマは相応しいタイミングで、人生に結果をもたらす。(その結果は、生まれ
   変わった次の人生の中に現れることもある)
(4) 結果が現れるまでに一定の時間が経過するため、人はその結果がどの原因による
   ものかがわからなくなっている。
(5) 人生で遭遇する出来事は過去のカルマの複雑な複合体なので、原因をひとつに特
   定することは難しい。
(6) カルマの大きさを左右するのは行為の大小ではなく、行為の裏にある意志や動機で
   ある。


 まず、(1)の「カルマは私たちの行為、言葉、思念の結果として現れる」ということですが、カルマは善いカルマも善くないカルマもすべて私たちの「身・口・意」の結果として現れるということです。仏教で教える「因果応報の理」がまさにそのことを述べています。「善因善果」「悪因悪果」ということで、「身・口・意」によって作られた「因(原因)」は、必ず「果(結果)」となって人の運命に影響を及ぼし、その人生を形作っていくことになるということです。
 ですから、人の輪廻転生が終わると言われているこの終末の時代においては、過去(または過去生)の善くないカルマを一掃し、またそのあとで新たに善くないカルマを作らないために、行為、言葉、思念を正しくコントロールする習慣を身につける必要があるということです。これが「身魂磨き」の目的と言えます。
 つまり「過去の善くないカルマを清算すること」「再び善くないカルマを作らないように身・口・意をコントロールすること」の2つが大切だということです。

 (2)の「カルマの原因が小さなものであっても、やがて大きく育っていく」と同じ意味のことが新約聖書にもイエスの言葉として次のように表現されています。

 「天の国The Kingdom of heaven) は、一粒のからし種のようなものです。ある人がそれをとって畑にまくと、それはどんな種よりも小さいのに、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に巣を作るほどの木になります」。またほかの譬を彼らに語られた。「天の国は、パン種のようなものです。女の人がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんできます」。(マタイによる福音書)

  この世で作った心の癖は、この世とは次元の異なる神の国や霊界においては、その何十倍、何百倍にも膨らんでしまうということです。そのことを、先ほどの文章の中で仏陀も、「悪行を、単にそれが些細なものというだけで見過ごしてはいけない。小さな火花ひとつで、山ほどもある積みわらを焼きつくすことができるのだから。ささやかな善行を、それが恵みをもたらすことはあるまいと、見過ごしてはいけない。小さな一滴の水の雫(しずく)も、やがては大きな器を満たすのだから」と述べていました。これと同じことは、霊界行脚をしてきた超能力者として知られるスウェーデンボルグも語っています。
  結論としまして、神の国や霊界などの異次元においては、私たちが「身・口・意」によって作った「原因」に対して、「結果」が大きく拡大され、しかも瞬時に返ってくるということです。つまり、あの世では善くない原因の見返りは大変激烈なものになると覚悟しておく必要があります。この世で言う「人を呪わば穴ふたつ」とよく似た現象が瞬時に起こるということですから、そういう意味では、この世で身・口・意のコントロールができない人が神の国に行けないのは、むしろ神の慈悲心の表れと言えるかも知れません。

  (3)の「育ったカルマは相応しいタイミングで、人生に結果をもたらす」という場合の「タイミング」のことを、仏教では「縁」と表現しています。「因縁」という言葉もありますが、カルマ(因)はタイミング(縁)を得て結果(果)をもたらすのです。多くの場合、私たちが人生で出会う人がそのタイミングを作ってくれます。

  (4)と(5)は既に述べてきた通りです。この世では、カルマの結果が現れるまでに時間がかかるため、それが現れたときには原因となる自分の身・口・意について忘れてしまっているということです。しかも、カルマはさまざまな原因の複合体として結果を生み出していますので、一つの原因が一つの結果とストレートにつながっているようには見えないのです。
  つまり、人を殴ったら必ず自分が逆の立場で殴り返されることを体験するわけではないということです。「殴る」という心の働きがカルマとなって潜在意識に記録され、それが大きく育つことによって、あるとき地震で家具が倒れてきて頭を直撃する、といった形でカルマが完結するということもあるでしょう。また、職場の上司に不満を持っていていつも心の中で反発している人が、ある日、車を運転して交差点で停車しているところに、後方から他の車に追突される、といった形で「衝突」という心の働きが現象化するケースも考えられます。
  この人の場合、自分が車に衝突されたのは単なる偶然で、単に運が悪かったためだと考えるのが普通でしょう。まさか自分が普段から職場の上司に対して抱いている「衝突する気持ち」が、潜在意識の中で大きく育ち、それが車の衝突という形で実を結んだとは理解できないはずです。

  さて、カルマの法則でもっとも留意しないといけないのは、(6)の「カルマの大きさを左右するのは行為の大小ではなく、行為の裏にある意志や動機である」という内容です。私たちがどういう意図をもってその行為をなしたか、ということが結果を生み出すということです。もちろん、善くない意図を持たずに、知らずに行なったことに対しても、結果はかならず現れますが、それほど大きな見返りとはならないということです。逆に、小さな行為であっても、その裏に邪悪な意図が隠れていれば、結果は甚大な形で返ってくることになります。
  たとえば、他人にイタズラで石を投げたのが頭に当たって怪我をさせた場合、傷つける意図はなかったとしても結果として他人にキズを負わせたという行為のカルマは必ず返ってきます。それは、まず「大変なことをしてしまった。ごめんなさい」という反省させられる形で結果が現れます。あるいは、怪我をした本人から面罵されたり、周りの人たちから冷たい非難の目で見られるという形でカルマの結果を受け取ることになるでしょう。そこで、その人は「イタズラでも人に石を投げたりしてはいけない」という気づきを得ることになり、以後はそのような軽率な行動を慎むことになります。そのことによってカルマは完結することになるのです。
  しかしながら、もしその人を大けがさせたいという悪意を持って石を投げたのであれば、結果としてその石が相手の人に当たらなかったとしても、「人を傷つけたい」という悪意は潜在意識に植え込まれて、さらに大きく育っていくことになります。やがてさらに大きな事件の当事者として、犯罪を犯し、法律の裁きを受けて社会的に厳しい立場に置かれるという結果をまねくことにもなるのです。カルマの法則は「人に気づきを与える」という目的で働くようになっているからです。自分の身・口・意の結果を知ることによって、その身・口・意の内容を改めることになれば、善くないカルマは解消され、その結果として、運命が好転していくことにもなるということです。

  最後に、そのあたりのカルマのメカニズムをうまく表現した 『魂との対話』(ゲーリー・ズーカフ著/サンマーク出版)の中の一文をご紹介して、この項を終わりたいと思います。ズーカフはこの文章の中で「意志と動機」のことを「意図」と表現していますが、同じ意味にとらえてよいでしょう。

あなたは永遠に責任から逃れられない
  あらゆる行動、思考、フィーリングが、意図によって動機づけられている。意図は、何らかの結果と一体となって存在する原因である。もし私たちが何らかの原因にかかわったとしたら、私たちがその結果とかかわらないことは不可能である。このようにきわめて深いレベルで、私たちは、自分のすべての行動、思考、フィーリングに関する責任を負わせられている。
  私たちは、自分の意図の果実のすべてを、みずから食べなくてはならないのである。よって、自分のさまざまな意図を認識するとともに、どの意図がどんな結果をつくり出すかを整理し、自分がつくり出したい結果につながる意図を選択することは賢いことである。(中略)
  他人を嫌悪する人間は、他人からの嫌悪を体験することになる。他人を愛する人間は、他人からの愛を体験することになる。キリストが「山上の説教」のなかで行なった、「自分がしてもらいたいと思うことを、人にしてあげなさい」という教えは、カルマの力学にもとづいた行動指針である。個別化されたカルマの法則は、「あなたは自分が世界に与えたものを、世界から受け取ることになる」といったところだろう。
  カルマは道徳的な力学ではない。道徳は人間が創造したものである。宇宙はけっして裁かない。カルマの法則は、私たちの道徳システムの内のエネルギーバランスをふくむ、あらゆるエネルギー・バランスを支配している。(中略)
  結果をまだ生み出していない原因のすべてが、まだ完結していない出来事である。それはアンバランスなエネルギー状態にあり、バランスがとれる状態に向かう過程にある。そしてそのバランスは、必ずしもひとつの生涯のなかでとられるとはかぎらない。
                ――『魂との対話』(ゲーリー・ズーカフ著/サンマーク出版)

2011年12月21日 (水)

第6章、カルマの清算はどのようにすればできるのかー⑦

第6章 カルマの清算はどうすればできるのか
以下は「2012年のカルマの法則」より
 心の中に悪い思いを持たないようにしなさい。

 「新約聖書が教える究極のカルマ清算法」の7番目は「自分が他の人からしてほしいと思うことを、他の人にもしてあげなさい」ということでした。「与えたものが返ってくる」というカルマの法則をストレートに反映した行動指針と言えます。
  同じ意味の裏返しの表現である「自分がしてほしくないことは、他の人に対してもしてはいけません」という言葉とセットで記憶にとどめておきたいと思います。新約聖書の中では、この内容が次のように表現されています。


 他の人からしてほしいと思うことは何でも、あなたがたも他の人にしてあげなさい。これこそが律法(the Law of Moses)と預言者たちの教えの意味するところ(meaning)です。(マタイによる福音書)

  「究極のカルマ清算法」の8番目は「心の中に悪い思いを持たないようにしなさい」ということでした。これは「身・口・意をコントロールすべし」という身魂磨きの要諦を述べたものです。このことに関する新約聖書の記述を見てみましょう。

 人の口からは心の中に溢れていることが出てくるのです。善い人は善いものを入れた蔵から善いものを取り出し、悪い人は悪いものを入れた蔵から悪いものを取り出してきます。裁きの日には、あなたがたは自分が口にしたつまらない言葉の責任を問われることになります。自分が使ってきた言葉によって、罪があるかないかの審判を受けるのです。(マタイによる福音書)

 口に入るものがあなたがたを汚すのではなく、口から出ていくものがあなたがたを汚すのです。(中略)
 口から出ていくものは心から出て来ます。そして、それがあなたがたを汚すことになります。あなたがたの心からは、悪い思いが出て来ます。すなわち、殺意、姦淫、みだらな行ない、盗み、嘘、他人の悪口などは、あなたがたの心から出て来るものです。これがあなたがたを汚すのです。
(マタイによる福音書)

 
私たちが普段何気なく使っている言葉が、私たちの心の反映であることは言うまでもないことでしょう。「心にもないことを言ってしまった」という言い方をすることもありますが、そういう場合でも実際は心の奥底(潜在意識)に眠っている本音が無意識のうちに言葉となって現れたと見るべきです。
  心に悪い思いを抱けば、それは必ず言葉となって現象化し、善くないカルマをつくってしまうということで、まず心の調律から始めることが必要であるのは言うまでもないでしょう。カルマの清算のためには、日頃から心の中に悪い思いを持たないようにすることが大切であることを肝に銘じておきたいと思います。


 父と母を敬いなさい。

  「新約聖書が教える究極のカルマ清算法」の最後は「父と母を敬いなさい」ということでした。一見、平凡な道徳律のように見えます。儒教などでも「親孝行をしなさい」「親を大切にしなさい」と教えているからです。
  しかしながら、新約聖書が「父と母を敬いなさい」ということを大事な戒め
commandment として強調していることには深い意味が隠されていることがわかります。
  まず注目する必要があるのは、「愛しなさい
love」とせずに「敬いなさい respect」としたのはなぜなのかということです。「神を愛しなさい」「隣り人を愛しなさい」というように、他の箇所では「愛しなさい」という表現が使われているのに、「父と母」に関してだけ「敬いなさい」という言葉にして使い分けているのには何か意味があるはずです。
  では、まず新約聖書のその部分を見てみましょう。

 神は「あたたがたの父と母を敬え」と言われ、「もし父または母を罵るcurse者があれば、その者は死刑に処せられるべきである」と言っておられます。(マタイによる福音書)

 ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った。「先生、永遠の生命を得るには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。イエスは言われた。
 「‥‥もし、(永遠の)命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。
 彼は言った。「どのいましめですか」。イエスは言われた。
 「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな、父と母を敬え』そして 『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』です」。
(マタイによる福音書)


  イエスは神の言葉として、「父や母を敬わない者は死刑に処せられるほど罪が重い」と述べています。この日本語版の新約聖書は「罵る」と訳している部分が、英訳では「curse」となっています。この言葉は「呪う、罵る」という意味のほかに「不敬」という使い方がされますので、「父や母を罵る」という行動レベルの戒めというよりも「父や母を敬わない」という心のレベルの問題と解釈すべきでしょう。「敬う」の反対が「罵る」ということでは極端すぎるからです。
  「敬わない」の部分を「粗末にする」「大切にしない」という行動レベルの表現に変えれば、儒教の教えと同じような道徳律になります。しかしながら、新約聖書がここで述べているのはそういう行動レベルのことではなく、「curse(呪う、敬わない)」という「心」に関する問題なのです。ここが重要なポイントです。
  そもそも「父や母を大切にしない」ことが死刑に値するほど罪が重いとは考えられません。単に親孝行を奨励するためであれば、もっと穏やかな表現でもよいはずです。たとえば「父や母を大切にしないひとは幸せになれない」といった表現で十分なはずです。
  しかも、既に父や母が亡くなった人や、親と離ればなれになって連絡がとれないような人などは、親孝行をしようと思ってもできないわけです。そのように対象とならない人が多く存在することを「永遠の命に入るための大切な戒め」にするとは思えません。

 親を通じて魂のグループと波長を合わせること

  前置きが長くなりましたが、ここで私の解釈を申し上げます。
  私は、イエスが「父や母を敬いなさい」という戒めを強調したのは、「父や母と心の波長を合わせなさい」という意味だと解釈しています。肉体的に血のつながりの濃い父や母は、霊的に見てもこの世で最も波長の合う存在です。いわば自分と同じ魂のグループに属している先輩なのです。既に父や母が他界している場合は、父や母は最も身近なご先祖様ということになります。
 ですから、「父や母を敬う」ということは、自分の魂の系図に連なる先祖の霊たちを敬うということでもあるのです。私たちの指導役を務めている守護霊も、先祖の霊の中から選ばれると言われています。
  そういう意味では、父や母は(その霊は)、私たちが霊界における魂のグループとつながる時の入り口ということが言えます。父や母を敬うことで、心の波長が魂のグループと同調しますので、守護霊の働きも強化され、邪悪な霊のいたずらなどから防いでもらえるということです。
  逆に、霊界の邪悪な霊たちは、魂のグループとの霊的つながりを弱くしようとしてさまざまな手を使ってきます。親子の断絶が進んだ今日のわが国社会で、悪質な霊の干渉によると思われる凶悪な犯罪が多発するようになったのも、多くの人が自らの魂のグループとのつながりを弱くしてしまっていることの現れでしょう。
  超能力者のイエスにはそのような霊界のメカニズムがわかっていたので、人が自らの魂のグループとの霊的つながりを強くするための有効な手段として「父や母を敬いなさい」という戒めを強調したものと思われます。
  普通の人は「守護霊を敬いなさい」と諭されても、守護霊の姿を思い浮かべることはできませんが、父や母であればいつでも瞼に浮かべることができるはずです。いわば魂のグループの代表としての父や母を敬う気持ちを強く持てば、その心の波長は守護霊や守護神のところに届き、守護霊の指導も受けやすくなるということです。「敬う」「感謝する」という心の状態は、その対象と波長を同調させる上でもっとも効果的なのです。
  逆に、そのような魂のグループにつながる入り口とも言える父や母を敬わず、逆に呪ったり、罵ったりするようなことがあれば、守護霊や守護神とのつながりも弱くなってしまいます。その結果、邪悪な霊たちの餌食になりやすい状態が生まれるということです。新約聖書によりますと、イエスの時代には悪霊に取り憑かれた人が非常に多かったことが記録されています。
  イエスは人に取り憑いた善からぬ霊を肉体から追い出しています。その結果、イエスの超能力ぶりが知られることになり、人びとがイエスの周りに押し寄せてくることになったのです。
  また、聖書の戒めが父や母に関しては「敬いなさい」として「愛しなさい」としなかった理由は、「肉親を愛する」という気持ちは仏教で言う「煩悩」的なものになってしまう可能性があるからだと思われます。自分の肉親を愛する気持ちは、現世での幸せに執着する粗い波長になり、神の繊細な波長とはかけ離れたものになってしまうということです。
  ということで、「愛しなさい」という表現では戒めの意味するところが誤解されるおそれがあるため、父や母に関しては「敬いなさい」という表現になったものと考えられます。

2011年12月20日 (火)

第6章、カルマの清算はどうすればできるのかー⑥

第6章 カルマの清算はどうすればできるのか
以下は「2012年のカルマの法則」より
 人を裁いてはいけません

 ここでもう一度、「新約聖書は、イエスという超能力者が2000年前のユダヤの人たちに終末の生き方を教えた言行録」であるということを確認しておきたいと思います。
  聖書は、決して「キリスト教徒の持ち物」ではありません。イエスはキリスト教という宗教団体を作ろうとしたわけではなく、ただ弟子たちに「私の言ったことを多くの人に伝え広めなさい」と指示しただけです。なぜ伝える必要があるかといえば、それは「終末において天の父による人類の審判が行なわれるときに、選ばれる側(羊にたとえられる)に置いてもらえるように」ということです。
 イエスは、終末の土壇場で人は羊と山羊を分けるように選別されると述べています。そして、「選ばれるためにはどうすればよいのですか」という弟子たちの質問に対して、いろんな譬えを使いながら、大切な戒め
commandment について教えているのです。
 次の一文もその戒めを述べた内容ですが、質問の中にある「永遠の命を得る」ということが「選ばれて神の国に入る」という意味に使われています。


 ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った。「先生、永遠の生命を得るには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。イエスは言われた。
 「‥‥もし、(永遠の)命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。
 彼は言った。「どのいましめですか」。イエスは言われた。
 「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな、父と母を敬え』そして 『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』です」。
(マタイによる福音書)

  「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな、父と母を敬え」という戒めについては、今日の日本社会においてもっとも声高に叫ばれないといけない内容と言えそうです。イエスの生きていた時代もそのような乱れた世の中だったのかもしれませんが、それにしましても、まるで今日の世の中を見通していたかのような内容であることに驚きを覚えます。今日では子の親殺し、親の子殺しのニュースさえ珍しくなくなってきました。
  イエスが終末に大切になる戒めの中に「父と母を敬え」という内容を含めたのはなぜでしょうか。その点は後ほど別項で説明してまいります。
  さて、本日の表題にしている「人を裁いてはいけません」という内容は、マタイによる福音書では、イエスの言葉として次のように表現されています。

 人を裁いてはいけません。自分が裁かれないためです。あなたがたが他の人を裁くその裁き方で、自分も裁かれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるでしょう。
 なぜ兄弟の目にある埃
(ほこり)を見ながら、自分の目にある埃を認めないのですか。自分の目には丸太があるのに、どうして兄弟に向かって、「あなたの目から埃を取らせてください」と言えるでしょうか。まず自分の目から丸太を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目から埃を取り去ることができるでしょう。(マタイによる福音書)


  まず、「人を裁く judge」とは具体的にどういうことでしょうか。それを別な言葉で言うならば「自分の基準で人の言動の善悪を判断し、それによって好悪の感情を抱く」ということでしょう。「善(と思う行為)を喜び、悪(と思う行為)を嫌悪する」ということになります。
  その結果、その人は「自分が量ったのと同じ秤(はかり)で量り返される」と述べられています。その「同じ秤」とは、「喜ぶ気持ち」には「喜ぶ気持ち」が返り、「嫌悪する気持ち」には「嫌悪する気持ち」が返ってくるというカルマの法則を述べているのです。
  では、人を裁かないためにはどうすればよいのでしょうか。人の言動の善悪によって、感情を左右されないということです。そのことを、イエスは「あなたの敵をも愛しなさい」「右の頬を打たれたら、左の頬をも出しなさい」という極端な譬えを使って表現していました。
  だから、十字架にかけられた自分を口汚く罵ったり、投石したりする群衆に対しても、イエスは神への祈りの中で、「あの人たちを許してあげてください。自分たちが何をしているかわからない(気の毒な)人たちなのです」と述べ、決して怒ったり憎んだりしていないのです。
  上の文章は、続けて「兄弟の目にある埃 speck を取ろうと思う前に、自分の目についている丸太 log を取り除きなさい」と諭しています。「他人の中に見える欠点が気になるのは、それは自分の中に同じ欠点があるからだ」と言われますが、まさにそのことを述べているのです。しかも、他人の目についているのは小さな埃であるのに対して、自分の目についているのは丸太のように大きなものだと述べています。つまり、他人の欠点は小さなものでも気になるが、自分の欠点は非常に大きいものであっても気がつかないものだということを例えているのです。
  他人の欠点を見て嫌悪したり憎悪したりして心を曇らせると、自分は終末の大峠においてその数十倍も、数百倍も嫌悪され、憎悪されるということを教えてくれています。
  結論として、「人を裁く」という意味は、「他人の言動に対して悪い感情を持つ」ということであると理解しておきたいと思います。「人を呪わば穴二つ」という諺と同じく、カルマの法則そのものを述べていることがわかります。さらにシンプルな表現として、新約聖書の中の次の言葉も記憶にとどめておきたいものです。

 あなたがたも、もし心から兄弟を許さないならば、わたしの天の父もまた、あなたがたに対してそのようになさるでしょう。(マタイによる福音書)

2011年12月19日 (月)

第6章、カルマの清算はどうすれば出来るのかー④

第6章 カルマの清算はどうすればできるのか

 この世での報いを求めず、 神の国に富を積みなさい

 ここからがカルマの法則の具体的な行動指針とも言える内容となります。「世の終わり」を前にして、現代社会に生きる私たちが最も心に刻んでおかなければいけない戒めの数々が述べられています。

  自分の義を、見られるために人の前で行なわないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたの父から
報いを受けることがないでしょう。ですから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならしてはいけません。彼らはその報いを受けてしまっています。
  あなたは施しをする場合、
右の手のしていることを左の手に知らせてはいけません。それは、あなたのする施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださる
でしょう。(マタイによる福音書)

  新約聖書では「蒔いた種の収穫」のことを「報い
reward」または「報いを受ける paid」という言葉で表現しています。まさに仏教でいう「因果応報」の「報」に当たる言葉です。
  仏教では、善いことをしたら善い報い(善因善果)、悪いことをしたら悪い報い(悪因悪果)と教えていますが、上の文章での「報い」は「善果」すなわち「よい報い」の意味に使われています。
 
この世における「報い」とは、言いかえれば「現世利益」ということになります。富、名誉、地位、権力、他人からの賞讃など、多くの人が求めてやまないものといってよいでしょう。「善き行為(=義)」も、人に賞讃されることを期待して行なうと、せっかく蒔いた“種”が本来なら天の倉(神の国にあるカルマの貯蔵所)に積まれるところなのに、この世での賞讃という「報い」を受けてしまうので、天の神さま(=父)からは何の報いももらえないよ、とイエスは忠告しています。
  つまり、「自分はいいことをした(している)」と自慢する気持ちは、天の倉に積むべき善果を先食いしてしまうことになると言っているのです。同じ意味のことが「日月神示(ひふみ神示)」にも次のように表現されていますので、このことはカルマの法則の非常に大切なポイントだと考えられます。

 
人に知れんように善いことつめと申してあろうが。人に知れんようにする善いこと神心ぞ。神のしたことになるのざぞ。(ひふみ神示)

  また、自慢する気持ちではなくても、自分がした善行が他人に知られるだけで、それは天の倉に積まれることにならないようです。そのことを、ここでは「右の手のしていることを左の手に知らせるな」と表現していますが、英訳では次のようになっています。

 
When you help a needy person, do it in such a way that even your closest friend will not know about it.

  これを直訳すると、「あなたが貧しい人に施しをするときは、そのことがあなたの最も親しい友達にも知られないようにしなさい」となります。おそらくギリシャ語の新約聖書の原文には日本語訳のように「右手」「左手」という表現が使われていたのでしょうが、英語に訳した人はそれを意訳して、よりわかりやすくしたものと思われます。
  以下、「祈る場合」「断食をする場合」についても、イエスは同じ戒めを教え諭しています。

 断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをしてはいけません。彼らは断食をしていることを
人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのです。彼らはその報いを受けてしまっています。あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは断食をしていることを人に知られず、隠れたところにおいでになるあなたの父に知られるためです。そうすれば、隠れた事を見ておられるあなたの父は報いてくださるでしょう。(マタイによる福音書)

 
断食は文字どおり「食を断つ」ということで、一般的には苦行のひとつと考えられています。今日でも、宗教や宗派によっては修行の一環として行なわれています。その時に、「私はこのように大変な苦行を行なってるのだ」という顔をしている人は、すでにこの世で「誇らしげな気持ち」という報いを受けてしまっているということです。ですから、断食をしていることを人に見せようとせずに、隠れたところにいる父(=神さま)にだけ見てもらうつもりでやりなさい、と諭しているのです。

 あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはなりません。むしろ自分のため、虫も食わさず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すことのない
天に、宝をたくわえなさい。だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方を親しんで他方をうとんじるからです。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできないのです
(マタイによる福音書)

  結論から申しますと、この世(三次元の物質世界=地
earth)での富 richesすなわち「現世利益」を追求する人は、神の国 the Kingdom of Godに富を積むことはできないということです。「人は神 God と富 money に兼ね仕えることはできない」からです。英訳本では、ここの部分の「富」は money(お金)として、他の部分の「富 riches」とは区別しています。
 
「お金」はこの世でしか通用しない「現世利益」の象徴です。これまで人々は、自分の願いごとや幸せの実現のためのバロメーターとして、お金を追い求めて来ましたが、これから訪れる新しい世界(神の国)ではお金は必要とされないようです。『大本神諭』や『日月神示』にも全く同じことが述べられています。

 「
天国は、一粒のからし種のようなものです。ある人がそれをとって畑にまくと、それはどんな種よりも小さいのに、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になります」。またほかの譬を彼らに語られた、「天国は、パン種のようなものです。女の人がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんできます」。
(マタイによる福音書)

 
どんな種よりも小さなからし種でも、それを畑に蒔くと野菜の中では一番大きく成長するということに譬えて、神の国では、人が心で思ったことが何十倍、何百倍もの大きさに育つということを言っています。また、粉に混ぜると全体を大きく膨らませるパン種(イースト)のように、神の国では私たちの小さな思いが何十倍にも大きく膨らんでいくということです。つまり、「善因善果、悪因悪果」が、この物質世界よりもはるかに大きなスケールで実現するということを言っているのです。
  いかに心のコントロールが大切かがわかります。その心をコントロールする方法を、人類はこれまで転生を繰り返す中での様々な人生体験を通して学んできました。そして、いよいよその学びの成果が試される卒業期を迎えているということです。


  イエスは譬
(たとえ)で多くの事を語り、こう言われた。
 「見なさい、種まきが種をまきに出て行きました。まいているうちに、道ばたに落ちた種がありました。すると鳥がきて食べてしまいました。ほかの種は土が薄い石地に落ちました。そこは土が深くないので、すぐ芽を出しましたが、日が上ると焼けて、根がないため枯れてしまいました。ほかの種はいばらの地に落ちました。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまいました。ほかの
種はよい地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなりました」。


 「だれでも御国の言葉を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行きます。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことです」。

 「石地にまかれたものというのは、御言
(みことば)を聞くと、すぐによろこんで受ける人のことです。その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言(みことば)のために困難や迫害が起こってくると、すぐつまずいてしまいます」。

 「また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞いても、世の心づかいと富の惑わしとが御言
をふさぐので、実を結ばなくなる人のことです」。

 「また、よい地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことで、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのです」。

  また、ほかの譬を彼らに示して言われた、
天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものです」。
                       (マタイによる福音書)

  たとえば「汝の隣人を愛しなさい」というイエスの教えを実践しようとしても、すぐにそのことを断念させるような出来事が起こり、その気持ちをぐらつかせてしまいます。それは、「悪い者=悪魔 the Evil One」が来て「まいた種」を奪い取ってしまうからです。悪魔は、人びとがお互いに愛し合う気持ちを持つのは困るのです。
  その他、イエスの時代であれば、困難や迫害によって隣人を愛する気持ちが失われることも多かったことでしょう。「世の心づかい
the worries about this life」や「富の惑わし the love for riches」が決意をぐらつかせるのは今日でも同じです。
  御言(みことば=神の国についての教え
the message about the Kingdom)を聞いて理解した人だけが、そのようなさまざまな現世利益の誘惑に打ち克って、神の国へ入ることができるということです。

 あなたがたに言うが、「
富んでいるものが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。(マタイによる福音書)

  現世利益を追い求め、それを享受し、満喫している人は、神の国には入れないということです。これは決して「持たざる者」を慰めるための言葉ではないのです。まさに「カルマの法則」そのものと言えるでしょう。「天の倉」に「富」を積むこと、すなわち「身魂磨き」こそが、私たちの人生の目的と言えるものなのです。

 この世では幼子のように自分を低くしなさい

 そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国はだれがいちばん偉いのですか」。すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、「よく聞きなさい。
心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないでしょう。この幼な子のように自分を低くする人が、天国ではいちばん偉いのです。(マタイによる福音書)

 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっています。あなたがたの間ではそうであってはなりません。逆に、あなたがたの間で偉くなりたいと思う人は仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う人は僕(しもべ)とならねばなりません(マタイによる福音書)

 だれでも自分を高くする人は低くされ、自分を低くする人は高くされるでしょう。(マタイによる福音書)

 神は高慢な者を敵とし、謙遜な(humble)者には恵みをお与えになります(ヤコブの手紙)

 主の前にへりくだりなさい(humble yourself)
。そうすれば、主があなた方を高めて(lift you up)くださいます。(ヤコブの手紙)

 
新約聖書の中には、人が高慢になることを戒め、「幼子のように謙虚でありなさい」と教え諭す表現が随所に出てきます。中でも、「神の前に謙虚であれ」という意味は、今日における科学万能主義を戒める言葉と受け止めるべきでしょう。「大本神諭」や「日月神示」が、「学」に頼りすぎて「神」を軽視している現代人を戒めていることとも相通じるものがあります。
  またこれは、財産、地位、名誉などの現世利益を手に入れて慢心している人への戒めの言葉と解釈してもよいでしょう。大切なのは、「
神(絶対神)に対して謙虚である」ということです。より具体的に言えば、「今日の物質文明が創り出しているさまざまな問題は、人類が驕り高ぶっていることの表れであることを認識し、謙虚に反省する気持ちを持ちなさい」ということでもあります。「神の国の住人」になることを願う人にとっては、肝に銘じておく必要のある教えと言えます。

 神の力を疑ってはなりません。

 それからすぐ、イエスは群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを船に乗り込ませ、向こう岸へ先におやりになった。そして群衆を解散させてから、祈るためにひそかに山へ登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが船は、もうすでに陸から数丁も離れており、逆風が吹いていたために、波に悩まされていた。
 イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりしなさい。わたしです。恐れることはありません」と言われた。するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは船からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い人、なぜ疑ったのですか」。(マタイによる福音書)

 それから、弟子たちがひそかにイエスのもとにきて言った。「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからです。よく言い聞かせておきますが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山に向かって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るでしょう。このように、あなたがたにできない事は何もないでしょう」。(マタイによる福音書)

 朝早く都に帰るとき、イエスは空腹をおぼえられた。そして、道のかたわらに一本のいちじくの木があるのを見て、そこに行かれたが、ただ葉のほかには何も見当たらなかった。そこで木にむかって、「今から後いつまでも、あなたには実がならないように」と言われた。すると、いちじくの木はたちまち枯れた。
  弟子たちはこれを見て、驚いて言った、「いちじくがどうして、こうすぐに枯れたのでしょう」。イエスは答えて言われた、「よく聞ききなさい。もしあなたがたが
信じて疑わなければ、このいちじくにあったようなことができるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるでしょう。また、祈りのとき、信じて求めるものは、みな与えられるでしょう」。(マタイによる福音書)

  終末の後に訪れる新しい世界(神の国)へ入るために最も大切な心の姿勢は「神の力を信じること」「その同じ力が自分の中にも宿っていることを信じること」だということです。イエスは弟子たちにそのことを繰り返し教え諭しています。また、イエスの超能力の噂を聞いて集まってくる人たちに対しても、病気を癒したり、悪霊を追い出したりするなかで、その都度「信仰
faith」の大切さを説いているのです。
  日本語で「信仰」というと「宗教団体に属しているかどうか」という意味にとらえがちですが、イエスが述べている「信仰」は宗教とはまったく関係ありません。なにしろ、この時点ではまだキリスト教も誕生していなかったわけです。
  ということで、ここでの「信仰」とは「神の力を信じる気持ち」ということです。イエスは、その「神の力」が一人ひとりの人間にも具わっているのだよと教えているのです。そのことを信じて疑わないならば、海の上を歩くこともできるし、山を移動させることだってできるのだと述べています。それは「神の国」に入るための必要条件とでもいうべきものなのです。

  「神の力」にも匹敵する「力」は、おそらく終末の土壇場で発揮されることになるでしょう。もはやこの物質界には頼るものがないという絶望感から、身を投げ出す心境に至ったとき、突然神憑かりが起こり、人は信じられないような力を発揮することになるはずです。一般的に「火事場の馬鹿力」と呼ばれている現象が、多くの人に連鎖して一斉に起こると見ています。
  そのためには、お金を初めとするこの世のものに頼る気持ちを早く捨て去り、すべてを神に委ねるという「神頼み」の心境になっておくことが必要でしょう。その気持ちのことを、イエスは「信仰」と述べているのです。
以上は「2012年のカルマの法則」より

2011年12月18日 (日)

カルマの清算はどうすればできるのかーその④

第6章 カルマの清算はどうすればできるのか
以下は「2012年のカルマの法則」より
 自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい

 
終末における生き方の処方箋とも言える新約聖書の中で、イエス・キリストが最も重要な戒め commandment としているのは「心 heart を尽くし、精神 soul を尽くし、思い mind を尽くして、あなたの神である主 the Lord を愛しなさい」ということでした。続いて、イエス・キリストがこれと同じくらい重要な戒めとして示したのが次の言葉です。

  「第2もこれと同様です。『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛しなさい』。律法全体と預言者の教えとがこの2つの戒めに基づいて(depend on)います」(マタイによる福音書)

 
キリスト教関係者の間で大変よく知られているこの戒律は、新約聖書の中では「主を愛せよ」と並んで最も重要な戒律とされているのです。
 
そこで問題となるのが、「では、隣人とはどんな人たちのことを指しているのか」ということになります。自分の家族や親、兄弟姉妹などであれば、自分を愛するように愛することもそれほど難しいことではないでしょう。
  しかしながら、新約聖書の中の次の一文を読みますと、イエスの言う「隣人」とは、必ずしもそういう身近な人たちのことではないことがわかります。


 
敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためです。天の父は、悪い人の上にも良い人の上にも太陽をのぼらせ、正しい人にも正しくない人にも、雨を降らして下さるからです。あなたがたは自分を愛する人を愛したからとて、なんの報いがあるでしょうか。(中略)あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な人となりなさい(マタイによる福音書)

  なんと「自分を愛するように愛しなさい」という「隣人」の中には「敵や迫害する者」も含まれているのです。多くの人はこの表現でイエスの教えにつまづくのではないでしょうか。なぜ自分を迫害するもののために祈らなければならないのか――。
  実際にイエスは自らを十字架にかけようとする人たちのために、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカによる福音書)と神に祈りを捧げています。
  イエスが人々にそのような心の持ち方を求める理由は、今日的表現をするなら「神様(天の父)と同じ波長になりなさい」ということです。「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な人となりなさい(そのように努力しなさい)」という表現がそれを表しています。
  自分を迫害する者、あるいは自分の大切な存在(家族など)を迫害する者を憎みますと、そのことによって、自らも「憎む」という心の波長が身についてしまうことになります。つまり、「憎む」という種を蒔いてしまうことになるのです。
  その種は「神の国」で何十倍にも何百倍にも大きく育ち、負のカルマとなってこの世界に還ってくることになります。そして、この世界で消化しきれなかったカルマが、世の終わりの時にまとめて清算させられることになるわけです。
  憎しみや恨みの念は、神様とは正反対のサタンの波長です。そのような粗い波長を持つと、ますますそのような憎むべき(恨みに思う)出来事を身のまわりに引き寄せてくる、というのがカルマの法則でした。イエスはそのような神の国の法則がわかっているので、「敵」や「迫害する者」という極端な表現をつかって、人々にその重要な法則を守らせようとしたのでしょう。

 
神の国は、「与えた物が何倍にも拡大されて戻ってくる」という法則に支配されています。「愛」には「愛」が、「憎悪」には「憎悪」が、強調された形で戻ってくるということです。ですから、心の使い方が大変重要になるのです。
  ということで、私が新約聖書の中からピックアップした「カルマの清算法」の要諦は「自分がしてほしくないことは他人にもしてはいけない」ということに尽きます。このことは、律法全体と預言者の教えのすべてがその法則に基づいているというほど重要なことなのです。そういう視点に沿って新約聖書を読んでいきますと、イエス・キリストの述べている内容が大変よくわかります。たとえば、次の言葉も同じ視点から述べられたものです。


 もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるでしょう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないでしょう。
(マタイによる福音書)

  ここでは、「他人の過ちを許さない人は、自分の過ちも許してもらえない」ということが、カルマの法則の一例として述べられています。以下、カルマの法則に則ったイエスの教えが続きます。

 そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言いません。七たびを七十倍するまでしなさい。(マタイによる福音書)

  自分に対して好ましくないことをした相手であっても、いかに徹底的に許してしまわなければいけないかということを、イエスは「7度を70倍するまで許しなさい」という表現で強調しています。要するに、この世で「許せない!」という対象をつくってはいけないということです。そのような心の癖は、神の国の入口の扉を閉ざし、結局は自らの不幸を招くことになるからです。


 悪人に手向かってはいけません。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする人には、上着も与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。求めようとする人には与え、借りようとする人を断らないようにしなさい。(マタイの福音書)

  たいへん有名な「右の頬を打たれたら、左の頬をも打たせなさい」という言葉の意味は、これでご理解いただけたでしょうか。とにかく「人を恨むようなマイナスの念を持ってはいけない」ということを、イエスはさまざまな譬えを使って教えているのです。


 
神は人の髪の毛の1本まで数えている

  ここで「御国」「天」「地」という言葉の概念をもう一度整理しておきます。「御国」とは「神の国 the Kingdom of God」ということで、2012年に私たち人類が地球といっしょに次元上昇して行くことになっている世界のことです。新約聖書に限らず、「日月神示(ひふみ神示)」などのわが国の神示においても、この三次元の物質世界(=地)がスタートしたときから、次元上昇の時がくることは決まっていたと述べられています。
  これに対して「天
heaven」とは一般的な言葉で言えば「霊界」のことを言っています。次元でいえば四次元ということです。霊界通信などを通じて、人は四次元の霊界(天)と三次元の物質世界(地 earth)を行ったり来たり(輪廻転生)しながら魂を磨いてきた、ということが判っています。その魂を磨く上でもっと大切な法則がカルマの法則なのです。私たちの日頃の心の持ち方、行ない、発する言葉(=身・口・意)は私たち自身の心の波長に影響を及ぼし、その波長に応じた境遇を、この現実世界(実は「うつし世」といって心の世界が反映された世界)においても霊界においても体験することになります。
  心が地獄のような想念に満たされていれば、あの世(霊界)でもこの世でも地獄のような生活を体験することになるということです。
  そのような私たちの「心の状態」がもれなく記録されていると言われているのが「神の国(御国)」です。「大本神諭」や「日月神示」では、その時代の人たちに理解できる言葉で「すべて帳面につけてある」という表現が使われています。新約聖書では、「(あなたがたの父は)あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」というイエスの言葉が同じことを述べているのです。
  世の初めから決まっている終末の大峠を越えると、この「天(四次元)」と「地(三次元)」がまとめて「神の国」へと移行(次元上昇)することになります。ですから、もし「神の国」を次元で表現すれば「五次元以上の世界」ということになります。
  それは一般的に考えられている「天国」とは違うのです。天国は四次元の世界における波長の繊細な高い階層ということです。その反対に波長の粗いのが地獄的世界で、これは四次元の低い階層ということになります。
  これから迎える次元上昇のときには、この低い階層の住人は神の国の波長とは合わないため地獄的世界に取り残されることになるのです。聖書的表現をしますと、「地獄の釜のふた」が閉じられて、神の国へと移行した人間に干渉することができなくなるということです。新約聖書のヨハネの黙示録によれば、そのような状態が約1000年続くようで、その期間にちなんで「千年王国」と呼ばれています。
  この千年王国は、「日月神示」の中で述べられている「半霊半物質の世界」のことだと思われます。次元上昇してから1000年後に、もう一度人類はふるいにかけられて、その後に真正の神の国(神界)に変わると言われています。
  この地球ごと次元上昇したあとに現れる神の国は、文字どおり神様の住む世界ということで、次元上昇した人たちは「神様にも匹敵するような存在」になるわけです。そのことが「日月神示」では「新しい世界では人が神となる」と表現されています。
  神の国は、「与えたものと同じものがすぐに返ってくる」というカルマの法則に支配された世界ですから、その世界に住むことができる住人は、この世にいるときから心のコントロール法を身につけておく必要があるということです。たとえば他人を憎むような気持ちを持つと、その憎しみの念はこの物質世界よりもはるかに強烈なパワーを持って憎しみの対象となる人を傷つけ、同時に自分をも傷つけることになるからです。
  この三次元の世界で「子の刻参り」として知られる「わら人形に呪いの釘を打つ」のと同じレベルのことが、普通の状態ですぐに実現してしまうことになるということです。そのような憎悪の念が飛び交う世界はとても神の国と呼べるものではありません。
  この終末期に次元上昇して「神の国」の住人になれるのは、この物質世界において必要な身魂磨きを済ませ、心の浄化を成し遂げた人に限定されると言われているのはそのためでしょう。

 人はこうしてふるいにかけられる

  さて、この項の最後に、神の国に行ける人と行けない人は何によって分けられるのかということがよくわかる新約聖書の中の一文をご紹介しておきます。この文章を読んでいただくと、「隣人」とは「弱い立場の人」を総称していることが分かります。
  終末の土壇場では、そういう弱い立場の人に慈悲の心を表すことができたかどうかを基準にして、人がふるいにかけられるということです。要するに、「髪の毛一本」の譬えのとおり、私たちの日頃の言動は一つ残らず神さまによって把握されているということでしょう。それがキリスト教の人たちの間で語られている「最期の審判」といわれるものなのです。

 人の子が栄光の中にすべての御使いたちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくでしょう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼いが羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左におくでしょう。
  そのとき、王は右にいる人々に言うでしょう。「わたしの父に祝福された人たちよ。さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに訪ねてきてくれたからです」。
  そのとき、正しい者たちは答えて言うでしょう。「主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか」。
  すると、王は答えて言うでしょう。「あなたがたによく言っておきます。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい人のひとりにしたことは、すなわち、わたしにしたことになるのです」。
  それから、左にいる人々にも言うでしょう。「のろわれた人たちよ。わたしを離れて、悪魔とその使いたちのために用意されている永遠の火にはいってしまいなさい。あなたがたは、私が空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを訪ねてくれなかったからです」。
  そのとき、かれらもまた答えて言うでしょう。「主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、私たちはお世話をしませんでしたか」。
  そのとき、彼は答えて言うでしょう。「あなたがたによく言っておきます。これらの最も小さい人のひとりにしなかったことは、すなわち、わたしにしなかったことになるのです」。
  そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい人は永遠の生命に入るでしょう。

                                     (マタイによる福音書)

2011年12月17日 (土)

カルマの清算はどうすればできるのかーその③

第6章 カルマの清算はどうすればできるのか
 新約聖書が教える究極のカルマの清算法
以下は「2012年のカルマの法則」より


  古代から現代に至るまでの間に、世界でもっとも多く発行されてきた書物といえば、文句なしに聖書ということになるでしょう。聖書には旧約聖書と新約聖書がありますが、旧約聖書はユダヤ教とキリスト教で正典とされ、イスラム教にも影響を与えているのに対し、新約聖書はキリスト教だけの正典とされている点が違います。しかしながら、たとえば新約聖書がキリスト教という一宗教団体のために書かれた書物だと思っている方は、その認識を改めていただく必要があります。
  正確に言いますと、新約聖書は「イエス・キリストという超能力者が、終末を迎えた人類に対して正しい生き方を伝えた警告の数々を、その弟子たちが取りまとめた書物」ということができます。決してひとつの民族やひとつの宗教団体の信者のためだけに編纂されたものではないのです。しかも、今日のキリスト教は、本来のイエス・キリストの教えから大きく逸脱しているという指摘がなされています。有名なシルバーバーチの霊言や、超能力者として霊界とこの世を行き来してきたと言われているスウェデンボルグの著書の中で、そのことが厳しく批判されています。
  というわけで、さらに踏み込んだ説明をしますと、新約聖書は、仏教の「因果応報の理」とまったく同じ内容の「カルマの法則」を説き明かしている書物といってもよいでしょう。
  そういう観点から、ここでは新約聖書の冒頭に収められている「マタイによる福音書」を引用しながら、イエス・キリストの教えの真髄ともいえる内容を見ていきたいと思います。イエス・キリストは弟子たちに「人が神の国に入るためには、この世でどのようなことを守らないといけないか」ということを教えているのですが、基本的には「カルマの法則」について述べています。
  ちなみに、新約聖書にたびたび出てくる「御国」あるいは「神の国」とは、この世で善行を積んだ人が死後に訪れるとされる「天国」のことではありません。この物質文明が滅んだ後に現れる「新しい世界」のことを意味しているのです。
  終末の時代を迎えたいま、私たち人類が幾たびかの生まれ変わりの中で作ってきた善くないカルマを清算して「神の国」に行くためには、これからどのような生き方をすればよいのでしょうか。新約聖書の中でイエス・キリストはいろいろな譬えを使って、終末における生き方の要点をたいへんわかりやすく教えてくれています。その教えの数々を分類して、次の9項目に整理してみました。これらは超能力者でもあったイエス・キリストが弟子たちや民衆に対して明らかにした「究極のカルマの清算法」と言えるものです。
  ことあとでひとつずつ解説していきますが、まずはその9つの項目をまとめてごらんいただきたいと思います。

 ●新約聖書が教える究極のカルマの清算法

 
(1) 心をつくして神を愛しなさい。
 (2) 自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい。
 (3) この世での報いを求めず、 神の国に富を積みなさい。
 (4) この世では幼子のように自分を低くしなさい。
 (5) 神の力を疑ってはなりません。

 (6) 人を裁いてはいけません。
 (7) 自分がしてほしいと思うことを、他人にしてあげなさい。

 (8) 心の中に悪い思いを持たないようにしなさい。
 (9) 父と母を敬いなさい。

  心をつくして神を愛しなさい

 
では、「新約聖書が教えるカルマの清算法」の1番目から解説してまいります。
 
「律法の中で、どの“戒め”が一番大切なのか」という律法学者の質問にたいして、イエス・キリストは次のように答えています。

 ひとりの律法学者が、イエスを試そうとして質問した。「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。イエスは言われた。「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい』。これがいちばん大切な、第1のいましめです」。(マタイによる福音書)

  「神を愛せよ」とは、具体的にどういうことを言っているのでしょうか。一般的に「愛する」という行為は、「相手の求める自分になる」ことを意味しています。たとえば恋人同士の場合、歌の文句にもありますように「あなた好みの女(男)になりたい」ということです。
  逆に、今日における若い男女間の「愛」は仏教でいう「煩悩」に近いもので、相手を「自分好みの女(男)に変えたい」という「我善し=自己中心主義」となっているようにも見えます。つまり「相手を自分の思うように束縛したい」という傾向が強いということです。
  しかしながら、もともとの「愛」の形は、「相手の幸せを願い、その相手の幸せのためなら自分が身を引く場合もある」という抑制された行為を伴うものでしょう。ここで述べられている「愛せよ」の意味も、そのように理解したいと思います。
  愛する行為の2つ目は、「相手を信頼し、身を任せる」ということです。「どこまでもついていく」という行為が求められます。つまり、「相手を疑うことなく、信じきる」ということが最も大切なのです。
  以上2つの点から、「神を愛する」ということは、「神さまが人にしてほしいと望まれることをする」そして「神さまを信頼しきって、どこまでもついていく」という意味にとらえていただきたいと思います。
  新約聖書では、「神さまが人に望まれること」を「律法」「神の義」「戒め」などの言葉で表現しています。「律法」「戒め」は、旧約聖書にある「モーゼの十戒」の流れを引くものですが、イエス・キリストはそれをやんわりと修正しているのです。
  イエス・キリストの時代は、モーゼと言えばユダヤ人なら誰もが崇める「大預言者」だったわけですから、イエスといえどもその教えを真っ向から否定することはできなかったことでしょう。それでも、イエス・キリストは旧約聖書に登場する預言者たちを導いた「神々=Gods(なぜか複数なのです)」の正体を見抜いていたようです。それは、人々に
生け贄(いけにえ)を要求するような恐ろしい存在だからです。自らの被造物であるはずの生き物たちに対する愛のカケラも感じられず、まさに冷酷無比な悪魔のような存在としか考えられません。ですから、イエス・キリストはその旧約聖書の神々との古い約束(旧約)を修正して、新しい約束(新約)を結ばせようとしたのです。それが新約聖書と呼ばれるゆえんとなっています。
  以下に旧約聖書の一文をご紹介します。「創世記」のなかに、「ノアの箱舟」で有名なノアが、大洪水のあと船から出てくる記述があります。その時の「主」すなわち旧約聖書の神様の言葉から、その神様がどういう方なのかがおわかりいただけると思います。

 そこで、神はノアに告げて仰せられた。
  「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。あなたといっしょにいるすべての肉なるものの生き物、すなわち鳥や家畜や地をはうすべてのものを、あなたと一緒に連れ出しなさい。それらが地に群がり、地の上で生み、そしてふえるようにしなさい。」
  そこで、ノアは、息子たちや彼の妻、息子たちの妻といっしょに外に出た。
  すべての獣、すべてはうもの、すべての鳥、すべて地の上を動くものは、おのおのその種類にしたがって、箱舟から出てきた。
  ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の家で全焼のいけにえをささげた

 
主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心のなかでこう仰せられた。わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。私は、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。

                    
(旧約聖書「創世記」――日本聖書刊行会・新改訳より)

 
全焼のいけにえのかおりによってなだめをうける神様、この地をのろう神様、人の心の思い計ることは、初めから悪だと思っている神様、生き物を打ち滅ぼす神様――これが旧約聖書の神様なのです。新約聖書の中でイエス・キリストが「天の父」として崇めている神様とは似ても似つかぬ存在だということができます。

  話を元に戻しましょう。要するに、イエス・キリストは「人を悪と考え、地をのろうような神」を愛しなさい、と述べているのではないということです。そうではなくて、人の行ないに応じた報いをくださる神様、すなわち、蒔いた種を刈り取るための収穫の機会をちゃんと与えてくださる神様――その神様を愛しなさいということです。
  そして、世の終わりの「人類の卒業期」に、すべての人が神の国の住人となってくれることを期待して、そのために必要な心の持ち方、行ないの在り方、言葉の使い方を、イエス・キリストとその弟子たちを通じて人々に伝えてくださっている、まさに愛一筋の神様に対して心を向けるようにと教えているのです。

2011年12月16日 (金)

カルマの清算はどうすればできるのかーその②

第6章 カルマの清算はどうすればできるのか

 大難は小難にすることができる


  さて、ここまで読み進んでこられた方には「釈迦に説法」かもしれませんが、一人でも多くの人がカルマについての正しい理解をしていただけるように、引き続き「カルマの清算」について考えていきたいと思います。
  まず私が最も信頼している神典の一つである「日月神示(ひふみ神示)」から見ていきます。神示は『ひふみ神示』(岡本天明・筆/コスモ・テン・パブリケーション)または『太神の布告』(岡本天明・著/コスモテン・パブリケーション)からの引用ですが、私の判断で現代仮名づかいに改めています。

 神にささげずにむさぶるからメグリつむのぢゃ。メグリが不運となり、病となるのぢゃぞ。運ひらくのも食物つつしめばよい、ことばつつしめばよい。悪く言われるとメグリ取ってもらえるぞ。悪く言うとメグリつくるのぢゃ。心にメグリ積むと動物のイレモノとなるぞ。神のイレモノ(を)動物などに自由にされていて、それでマコトの神の人間と申されるか。わからんと申してもあまりであるぞ。(ひふみ神示)

  「食べ物は少食がよい」「不必要な言葉を発しないほうがよい」ということです。饒舌はメグリ(=悪いカルマ)をつくり出すということが述べられています。
  また、他人から悪口を言われると、その人に自分の持つ「善くないカルマ」を譲り渡すことになるということです。ということは、人から悪口を言われたら、そのことに腹を立てるのでなく喜ばないといけないのです。自分の身に不幸な出来事として降りかかってくるかもしれないカルマを、その人に引き受けてもらうわけですから、大変ありがたいことなのです。
  もちろん、そこで他人の不幸を喜ぶ気持ちが湧き起こるようではまだカルマの掃除が進んだとは言えせんので、その点は注意する必要があります。いずれにしましても、神霊界の法則は実によくできていることがわかります。
  心にカルマが積もり積もっていきますと、波動が粗くなり、動物霊などの低級な霊と波長が合ってしまって、そのうちにそのような低級霊に憑依されるようになるとも述べられています。神様のイレモノとしての体を低級霊に自由にされるようになってしまっては、とても「神の子」と呼ぶことはできないぞとの忠告です。
  最近では、「悪魔に命令された」と言って無差別殺人事件などの凶悪な犯罪を犯してしまう人が現れるようになっていますが、そのような場合、加害者は間違いなく低級な霊に憑依され、その囁きに従っていたものと思われます。
  心や言葉の波動がある特定の傾向をもつと、それは心の癖となってカルマを強固なものにします。仏教ではそれを「岩に書いた文字」と表現しています。「水に書いた文字」や「砂に書いた文字」はすぐに消えますが、いったん岩に刻んでしまうと簡単には消えなくなります。その「岩に書いた文字」のことを「カルマ」と思っていただければよいのです。
  岩の上に釘などで何度も何度も文字を書きますと、そのうちに固い岩が削れて文字が刻まれます。それがカルマをつくりだす姿なのです。「釘で岩に文字を書く」ということが、たとえば「いつも他人を悪く思う(言う)」ということであり、「いつも自分を不幸だと思う(ぼやく)」ことなのです。

 その人間にメグリなくしてもメグリ負うことあるぞ。人類のメグリは人類の誰かが負わねばならん。一家のメグリは一家の誰かが負わねばならん。果たさねばならん。善人が苦しむ一つの原因であるぞ。神の大きな恵みであり、試練であるぞ。(ひふみ神示)

 祓いせよと申してあることは、何もかも借銭なしにすることぞ。借銭なしとは、めぐりなくすることぞ。昔からの借銭は誰にもあるのざぞ。それ払ってしまうまでは誰によらず苦しむのぞ。人ばかりでないぞ。家ばかりでないぞ。国には国の借銭あるぞ。世界中借銭なし(にするのは)何にしても大望であるぞ。今度の世界中の戦は借銭なし(にするため)ぞ。世界の大祓いぞ。(ひふみ神示・地つ巻第8条)

 隠し立てはできんぞ。何もかも帳面にしるしてあるのざぞ。神の国に借銭のある臣民は、(この世で)どんなえらい人でも、それだけに苦しむぞ。家は家の、国は国の借銭済ましが始まっているのぞ。済ましたら気楽な世になるのぞ。世界の大晦日ぞ。みそかは闇と決まっているであろうがな。借銭返すとき辛いなれど、返したあとの晴れた気持ちよいであろうが。昔からの借銭ざから、素直に苦しみこらえて、神の申すこと、さすことに従って、日本は日本のやり方に返してくれよ。(ひふみ神示・地つ巻・第35条)


  以上の神示にも記されている通り、「カルマの清算」という場合のカルマは自分のカルマだけとは限らないのです。先祖代々のカルマ、家族のカルマ、日本という国のカルマ、人類のカルマ、地球のカルマなど、私たちはたくさんのカルマの清算をしなくてはならないのです。
  かつて、多くの著書を出している著名なコンサルタントが「私にはもうカルマは残っていないようだ」ということを著書に書かれていましたが、これこそカルマの意味をまったく理解していない証拠です。私たちがこの終末の時代に人間として生まれているということは、カルマの清算をするためであることがわかっていないのです。「自分にはカルマは残っていない」と思った段階で、既に“傲慢”という新しいカルマをつくっていることになります。

 むやみに腹が立ったり、悲しくなったり、くやくしなったりするのは、まだメグリあるからぢゃ。(ひふみ神示)

  カルマは潜在意識に刻まれた心の癖ですから、ことあるごとに表面化(顕在意識化)しようと働きます。怒りや悲しみなどの感情がむやみに湧き起こるときは、心の底に沈殿しているカルマの内容がどういうものであるかを理解するチャンスと見るべきでしょう。

 この道に入ってはじめの間は、かえって損したり馬鹿みたりするぞ。それはメグリ取っていただいているのぞ。それがすめば苦しくてもどこかに光見いだすぞ。おかげのはじめ。次に自信がついてくるぞ。胴がすわってくるぞ。心が勇んできたら、おかげ大きく光り出したのぢゃ。(ひふみ神示)

  善くないカルマの発散は、「身のまわりに不幸な出来事(=損に思うこと)が起こる」という形をとります。そのことによって心を曇らせると、再び新しいカルマをつくることになるのです。ですから、一見不幸に思える出来事は、それによってカルマを取ってもらっていると考える方がよいのです。
  今日では、多くの人は自分が得をする方法、他人よりも幸せになる方法を必死に追い求めてます。そういう世相を反映して、この人生を幸せに生きるテクニックを処方する占い師や霊能者がテレビや著書などで人気を博していますが、それは視聴者に「善くないカルマの増やし方」を教えていると言っても過言ではないでしょう。
 「他人はどうであれ、自分や自分の仲間(=家族など)が幸せになることが大事だ」とか、「1回だけのこの人生だから、ただ今を幸せに生きられたらよい」という考え方に導くことは大変罪深いと言えます。今はむしろ、国や人類のつくったカルマまでも自分が引き受けようと思う気持ちを持つことが必要なのです。「我善し」でなく、世界全体の幸せを願うことが大切な時代を迎えているからです。

 メグリと申すのは、自分のしたことが自分にめぐってくることであるぞ。メグリは自分でつくるのであるぞ。他を恨んではならん。祓いせよと申してあることは、何もかも借銭なしにすることぞ。借銭なしとはメグリなくすことぞ。昔からの借銭は誰にもあるのざぞ。それ払ってしまうまでは、誰によらず苦しむのぞ。人ばかりでないぞ。(ひふみ神示)

  私たちのカルマは私たち自身がつくり出したものです。ですから、不幸な出来事が起こったときに、他人のせいにしたり、他人を恨んだりしてはいけないのです。
  また、カルマには私たちがこの人生でつくり出したものだけでなく、過去世においてつくったものもあるということです。そのすべてを、これから終末までの間に清算していく必要があると述べられています。

 メグリは一家分け合って、国中分け合って、借銭なしにしてくだされよ。(ひふみ神示)

  一家のカルマは家族が分け合い、国のカルマは国民が分け合って、すべて清算していかなくてはならないのです。個人のカルマだけと思う「我善し」の心に陥らないようにしなければなりません。

 今度は借銭なしになるまでやめんから、誰によらず借銭なくなるまで苦し行せなならんぞ。借銭なしでないとお土の上には住めんことに今度はなるぞ。(ひふみ神示)

  「今度は」と二度も断ってあります。つまり、この世界をミロクの世にするためには、今回の大峠までにそのようなカルマはきれいさっぱりなくしてしまう必要があるということです。カルマの清算ができない人(魂)はミロクの世には住むことはできないと、はっきり述べられています。

 神は大難は小難にすることできるのであるが、なくすることはできんぞ。(ひふみ神示)

  私たちが心を入れ替えることによって、カルマがつくり出す大難を小難にすることができるということです。たとえば「車の正面衝突事故」を引き起こすところを、「家の柱で頭を打つ」程度に変えることができるという意味です。いずれも「(他と)衝突する」というカルマ(=心の癖)が形として現れたものですが、私たちの受ける被害の大きさには天と地ほどの差があります。柱で頭を打ったときに、「ああ、大難を小難にしていただいたのだ」と感謝の気持ちが湧き起こるようになれば、「(他と)衝突する」というカルマは消えていくはずです。
以上は「2012年のカルマの法則」より

2011年12月15日 (木)

カルマの清算はどうすればできるのかーその①

第6章 カルマの清算はどうすればできるのか
 大峠になってからの改心では間に合わん
以下は「2012年のカルマの法則」より


  「大本神諭」や「日月神示」あるいは天理教の「おふでさき」などの各神示は、これから迎える終末の大峠(たぶん2012年12月)までの間に、人類はそれぞれのカルマの清算を済ましておかなければならないと教えています。
  カルマの清算は、私たちが新しい世界(=ミロクの世=神の国)へと移行(アセンション)するためにやり遂げなければならない宿題ということができます。
  しかしながら、多くの人はそんなことには全く無関心で、毎日の自分の生活をエンジョイすることに心を奪われ、カルマの清算をするどころかますます新しいカルマを“生産”している有様ではないでしょうか。子供のころ、遊びに夢中になっていたために夏休みが終わりに近づいてからあわてて宿題に取り組むことがありましたが、そういうことでは間に合わないと言われているのです。なぜなら、大峠に差し掛かると、個人のカルマはもちろん人類や地球全体のすべてのカルマが一斉に噴き出して、心静かに身魂磨きに取り組めるような平穏な世の中ではなくなるからです。
  そのことを警告するメッセージが「大本神諭」や「日月神示(ひふみ神示)」には繰り返し出てきます。以下にその一部を抜粋してご紹介しますので、しっかり心に留めていただきたいと思います。

 これだけ気をつけて(=警告して)いるのに、聞かずして、我と我が身が苦しみて、どんじり(最後)で改心をいたしてももう遅いぞよ。厭な苦しい根の国、底の国へ落とされるから、そうなりてから地団駄踏みてジリジリ悶えても、「そんなら許してやる」ということはできんから、十分に落ち度のないように、神がいやになりても(=嫌がられても)人民を助けたい一心であるから、何と言われても今に気をつけるぞよ。(大本神諭・大正5年)

 めぐり(罪科償却)の出てくるのは、世界はこれからであるぞよ。高いところへ上がりて偉そうにいたしておりた人民、これからは気の毒なことに変わるぞよ。そこになりてから神に縋(すが)りたとて、聞き済みはないぞよ。(大本神諭・明治35年)

 天地のびっくり箱が開くと、天地が一度に鳴り出して、耳も、目も、鼻も飛んでしまうような、えらい騒ぎになりて、どんな悪の強い身魂でも、学のある守護神でも、ジリジリ悶えいたして、一度に改心をいたすなれど、そうなりてからの改心はもう遅いぞよ。(大本神諭・大正3年)

 「九分九厘になりたら、手のひらを返すぞよ」と申してあるが、そうならんと守護神も人民も改心をいたさんが、恐さ(ゆえ)の改心は真の改心ではないから、間に合わんぞよ。(大本神諭・大正4年)

 大峠が近寄りたから、もう改心の間がないから、もう一度気をつける(=警告する)ぞよ。(大本神諭・大正6年)

 厭なことを目の前にして見せてやらんと承知がいかん浅ましきものであるから、にわかにジリジリ舞わなならんことが出てくるぞよ。そうなりてから走り込んで来て、「どうぞ助けてくれ」と申しても、そんなことにはかかりておれんように忙しくなりて、それどころでないぞよ。(大本神諭・大正6年)

 智慧でも学問でも、今度は金積んでもどうにもならんことになるから、そうなりたら神を頼るよりほかに手はなくなるから、そうなりてから「助けてくれ」と申しても間に合わんぞ。(ひふみ神示・下つ巻第16条)

 またたきの間に天地引っ繰り返るような大騒動が出来るから、くどう気つけて(=警告して)おくぞ。さあという時になりてからでは間に合わんぞ。用意なされよ。(ひふみ神示・下つ巻第28条)

 大峠となりてからでは、いくら「改心します」と申しても、「許してくれ」と申しても、許すことはできん。(ひふみ神示・ウメの巻第6条)

 大峠の最中になったら、キリキリ舞いして、「助けてくれ」と押し寄せるなれど、その時では間に合わん。逆立ちしてお詫びに来ても、どうすることもできん。皆おのれの心であるからぞ。今のうちに改心(するのが)結構。(ひふみ神示・碧玉の巻)

 真っ只中になりたら、学でも智でも金でもどうにもならんことになるのぢゃ。今は神を見下げて人民が上になっているが、そうなってから神に「助けてくれ」と申しても、時が過ぎているから時の神様がお許しなさらんぞ。(ひふみ神示・ウミの巻第14条)


  このように、終末の土壇場ともなれば、大天変地異などに遭遇して誰もが神に縋るしかなくなるのです。その時になって、神様に命乞いをするような心の持ち方では、もはや救済することはできないとの警告です。
  終末の大混乱に遭遇して、まず「神頼み」に走るのは、たぶん私たち一人ひとりについている守護神さまでしょう。霊界において「助けてください!」と神さまに泣きつくことになるものと思われますが、その段階で改心しても間に合わないということが、「大本神諭」にも「日月神示」にも繰り返し述べられていました。
  しかも、今回の魂の格付けは「末代のこと」なのです。つまり、未来永劫その状態が続いてしまうということです。今回の終末試験は卒業試験ですから、落第した人(魂)に再試験のチャンスはなく、その居場所が永遠に定まってしまうということです。場合によっては動物や昆虫のような生物と化し、そのまま固定されることになるのかも知れません。私が「高をくくってはいけない」と警告的に申しあげているのはそのためです。この項の最後に、そのことを伝えている神示をご紹介しておきましょう。

 今度役目きまったら、末代続くのざぞ。神示に出た通りの規則となるぞ。善も末代ぞ。悪も末代ぞ。(ひふみ神示・松の巻第10条)

 今度神の帳面から除かれたら、永遠に世に出る事できんのであるから、近欲に目くらんでせっかくのお恵み外すでないぞ。(ひふみ神示・アメの巻第9条)

2011年12月14日 (水)

「終末試験」に合格するための処方箋ーその⑤

第5章 「終末試験」に合格するための処方箋

 身魂が磨けたら神が憑依して助ける


 「おふでさき」の語り手である神様がもっとも重視されているのは、終末の御用をしてくれる用木探しでした。この物質世界を立て替えるために、神様に代わって働く人間がたくさん必要となるからです。そこで、神の御用を務める人間(=用木)がいないかといろいろ探し回っていたら、この世では落ちぶれたようになっている者のなかに、ちょっとした用木となれそうな人間がいっぱいいた、とおっしゃっているのが次の神示です。

★ おふでさき ★
 これまでもなんでもよう木ほしいから たいていたづねいたるなれども
 このたびハたにそこにてハ一寸したる 木いがたあふりみゑてあるなり
 このきいもたんたん月日でいりして つくりあけたらくにのはしらや
 それからハにちにち月日みさだめて あとのよう木のもよふばかりを
 この木いもめまつをまつわゆハんでな いかなる木いも月日をもわく


【なわ・ふみひとの解釈】
  これまでは“よう木(=終末の御用をしてくれる人民)”が何人でも必要だから、あちらこちらと探しまわっていたけれども、このたび身分の低い人間のなかにちょっとした役に立ちそうな“よう木”がたくさん見えている。この“よう木”に“月日”が出入り(=憑依する)をして立派な人材に育て上げたら、新しい世を導く国の柱となるだろう。それから先は、毎日“月日”が人民の見極めをして、後継者づくりの段取りだけをすればよくなるのだ。
  この終末の御用をしてくれる人民は、女性であろうと男性であろうと関係ない。どのような人民でも“月日”の判断で引き寄せて御用をさせるのだ。


  「終末の御用をしてくれる人材」のことを「用木」と表現しているのはこれまで見てきた通りです。神様(=月日)は、その用木となれる人物がたくさんほしいのです。このあたりの表現は大本神諭や日月神示とよく似ています。そして、用木の体に神が出入りする(神が憑かる)という点も、まったく同じです。次にそれぞれの神示をご紹介しておきます。

 水晶の霊魂を改めて、神が御用に使うぞよ。身魂の審判をいたして、神が綱を掛けるぞよ。(大本神諭・明治26年)

 神はそのままでは何もできんから、因縁ある身魂を引き寄せて、憑かりてこの世の守護をいたす。(大本神諭・明治31年)

 磨けた人から神がうつって、今度の二度とない世界の世直しの手柄立てさすぞ。みたま磨きがなにより大切ぞ。(ひふみ神示・日月の巻)

 神かかれる人早う作るのぞ。身魂洗濯するぞ。神かかりと申しても、狐憑きや天狗憑きや行者のような神憑かりでないぞ。誠の神憑かりであるぞ。(ひふみ神示・日の出の巻)

 この世のことは神と臣民と一つになりてできると申してあろがな。早く身魂磨いてくだされよ。臣民ばかりでも何もできぬ。神ばかりでもこの世のことは何も成就せんのぞ。それで神憑かれるように大洗濯してくれと申しているのぞ。神急けるぞ。この御用大切ぞ。神憑かれる肉体たくさん要るのぞ。(ひふみ神示・富士の巻)

 今度は神が人民にうつりて、また人民となりてマコトの花を咲かす仕組み。(ひふみ神示・極めの巻)

  神が憑かることのできる人材は、それ相応に身魂を磨いておく必要があるということです。もちろん、用木となる人間は男性でも女性でもよいということです。

★ おふでさき ★
 いまゝでも今がこの世のはじまりと ゆうてあれどもなんの事やら
 このたびのぢうよぢざいでとくしんせ いまゝでこんな事ハしろまい
 月日よりたいないよりも入こんで ぢうよぢざいをみなしてみせる
 こらほどのぢうよぢざいのしんぢつを はなしするのはいまはじめやで


【超訳】
  いままでにも、「今が新しい世の中の始まりの時だ」と言ってきたけれど、人民には何のことかさっぱりわからなかっただろう。このたびは自由自在に手助けをしてみせるから、それを見て得心するがよい。
 今までこんな(すごい)ことができるとは知らなかっただろう。“月日”が人民の肉体に入り込んで(=憑依して)、自由自在にコントロールして見せるのだ。神が人間を自由自在にコントロールするという真理について話をするのは、今回が初めてのことだ。


  この神示では、大変具体的に「月日(=神)が人間の体内から入り込んで自由自在にコントロールする」と述べられています。これから迎える終末においては、身魂の磨けた人間に神が憑依して、世の立て替えの中で大きな役割を担わせるということは間違いないようです。

★ おふでさき ★
 このせかい一れつみゑる月日なら とこの事でもしらぬ事なし
 月日よりみなそれそれとみさだめて 善とあくとをみハけするぞや
 月日よりなんでこのよにくどいなら あしきみへるがきのどくなから
 たんたんとをんかかさなりそのゆへハ きゆばとみへるみちがあるから
 とのよふなものでも月日しんぢつを うけとりたならみなたすけるで
 いまゝでハどんなはなしをしたるとも なにもみゑたる事ハなけれど
 これまてもみなみへきたる事なれど ほんもとなるをしらん事から
 かみなりもぢしんをふかぜ水つきも これわ月日のざねんりいふく
 この事をいまゝでたれもしらんから このたび月日さきゑしらする


【超訳】
  この世界のことをすべて見通すことができる“月日”であるから、どこで起こることでも知らないことはない。“月日”がそれぞれの人民を見極めて、善と悪の区別をするのだ。“月日”がどうしてこんなにもくどく言うのかと思うだろうが、人民の悪い心や行ないが見えて、その結果がどういう状態になるかがわかっているからなのだ。
  だんだんと因果が積もり積もって、牛馬のような畜生の道に落ちていく姿が見えている。それでも、いまどのような心の人間であっても、この“月日”が教える真理を受け取ってくれればみな助けてやるのだ。いままではどんな話をしても、それが形に現れなかったと思っていただろうが、実はこれまでも心に思ったことや言葉にしたことはすべて現象として我が身に降りかかっていたことなのだ。その本元の仕組み(=経綸)がわからないから、因果関係がわからなかっただけなのだ。
  雷も地震も台風も洪水も、すべて“月日”の残念な怒りの表現なのだ。このことを今までは誰も知らないから、このたび“月日”が先に知らせておく。

 
ここではカルマの法則が、具体的にわかりやすく説明されています。今日世界中で多発している地震や台風、洪水などの自然災害も、「神の怒りの表現だ」という表現がされていますが、要するに「心に思ったこと」「言葉に表したこと」の結果であることを述べておられるのです。

★ おふでさき ★
 けふからハせかいを月日みさだめて むねのそふぢにかゝる事なり
 このそふぢうちもせかいもへだてない めゑめゑの心みなあらわすで


【超訳】
  今日からは“月日(=親神)”が世界を見定めて、人民の心に蓄積しているカルマの掃除を始める。この“掃除”というのは、心の中もそとの世界も同じことなのだ。要するに人民一人ひとりの心(=潜在意識)にあるものを現象として現していくことになる。


  「胸の掃除」とは、すなわち潜在意識に蓄積された「善くない心の癖」を改めるということです。これは「心の中(まだ現象化していないカルマ)」も「現象として現れている世界」も区別せずに、すべてをまとめて現象化していくとおっしゃっています。
 大本神諭で、「何もかもが一度にどっと出てくる」と表現されている内容と同じです。

★ おふでさき ★
 けふまではどんなあくじとゆうたとて わがみにしりたものハあるまい
 この心神がしんぢつゆてきかす みないちれつわしやんしてくれ
 せかいぢういちれつはみなきよたいや たにんとゆうわさらにないぞや
 このもとをしりたるものハないのでな それが月日のざねんばかりや
 高山にくらしているもたにそこに くらしているもをなしたまひい
 それよりもたんたんつかうどふぐわな みな月日よりかしものなるぞ
 それしらすみなにんけんの心でわ なんどたかびくあるとをもふて
 月日にハこのしんぢつをせかいぢうへ どふぞしいかりしよちさしたい
 これさいかたしかにしよちしたならば むほんのねへわきれてしまうに


【超訳】
  今日までは、自分が悪いことをしたら、どんなこともすべて自分の身に(“かやし”として)返ってくるということを知っている者はいないだろう。この原理について神が本当のことを言って聞かせよう。みんなよく考えてみてほしい。
  世界中の人民はみんな兄弟姉妹なのだ。お互いに他人ということは決してないのである。この元となる真理を理解できる者がいないので、“月日”は常々残念に思っている。身分や地位の高い者であっても社会の底辺にいる者であっても、みんな同じ魂なのである。それよりもぜひわかってほしいことは、人間が使っている体の諸機能はすべて“月日”から貸し与えているということだ。それを知らないものだから、人間心で考えて、人には身分の違いがあると思っている。
  “月日”としては、人間はみな同じ魂で、その体は神からの借り物であるということを、世界中の人民にしっかりわからせたいと思っている。これさえちゃんとわかってくれたら、もうお互いが傷つけ合うことになる根本原因はなくなってしまうはずだ。


  「人を傷つけることは自分を傷つけること」という新約聖書にも出てくる普遍の真理が述べられています。それは、「人の魂はみな繋がっているから」なのです。お互いに他人と思っている相手も、実は“神”という広大な海にできた別々の波であると見ることができます。その波ができて消えていくまでが一つの人生だということです。
  波はすぐに消えて海を構成する水となって還元されます。そしてまた新しい波となって生まれるのです。同じタイミングでできた波をみて、自分と他人、高貴な人と卑しい人、富者と貧者、といった区別をしますが、それはつかの間にできた波の形の違いでしかないということですから、傷つけ合ったり、いがみ合ったりすることは意味がないと諭しておられます。これは道徳律として述べられているのではなく、宇宙の真理が説いてあるのです。

★ おふでさき ★
 いまゝてハ高山とてけんけんと まゝにしていた事てあれども
 これからハいかほどたかい山でもな たにそこまゝにさらにてけまい
 このさきわたにそこにてハだんだんと をふくよふきがみゑてあるぞや
 たんたんとよふぼくにてハこのよふを はしめたをやがみな入こむで
 このよふをはじめたをやか入こめば どんな事をばするやしれんで
 とのよふな事をしたとてあんぢなよ なにかよろつわをやのうけやい   
 この事をはやく心をしいかりと さためをつけてはやくかゝれよ


【超訳】
  今までは高い地位にある権力者たちが威張りちらして、世の中を自由にしていたけれども、これからはどんなに高い地位の者でも、身分の低い人民たちを自由にすることは決してできないのだ。これから先は、身分の低い者の中に、“ようき=用木=新しい世の中を導く人材”がたくさん見えている。
  その“ようぼく=用木=ようき”には、これからはこの世界を始めた神がだんだんと入り込む(=憑依する=神憑かる)のだ。この世界を始めた神が入り込めば、どんな驚くようなことをするかわからない。しかし、すべては神が請け負ってやることだから、どんなことがあっても心配する必要はないのだ。このことを心にしっかりと刻んで、早く(心の掃除を)始めなさい。


  用木に憑依する神様は「この世を始めた親神様」ということになっています。天使と呼ばれるような存在ではなく、神様が直々に憑依されるようです。憑依された人間は、文字どおりの超能力を発揮することになるのでしょう。そのことによって、多くの人を導いていくことになるものと思われます。そのような用木としての務めをするためには、やはり心を掃除しておくことがもっとも大切だというのが結論です。そのことは、次の神示にも出てきます。

★ おふでさき ★
 月日にハどんなところにいるものも 心しだいにみなうけとるで
 いまゝでハとんな心でいたるとも いちやのまにも心いれかゑ
 いんぢつに心すきやかいれかゑば それも月日がすぐにうけとる
 月日にハせかいぢううハみなわが子 かハいいゝばいこれが一ちよ
 いまゝでハどんなものでもむねのうち しりたるものわさらにあるまい
 このたびハとんなところにいるものも むねのうちをばみなゆてきかす
 これまでハかへひとよにてへたてたら なにをゆうても一寸しろまい
 けふからハよこめふるまもないほどに ゆめみたよふになにをするやら


【超訳】
  “月日”には、どんなところにいる者であっても、心の状態通りにすべて受け取るのだ。だから、いままではどんな(善くない)心を持っていたとしても、その心を一晩の間にもすっかり(善い心に)入れ替えれなさい。
  本当に心を入れ替えて善い心になったら、その心を“月日”がすぐに受け取る。“月日”にとっては世界中の人民はみなわが子だから、可愛いばかりなのだ。この(心の入れ替えという)ことが一番大事にしてほしいことである。
  今までは、だれも他人の心の内を知ることは全くなかっただろう。これから(新しい世になれば)、人の胸の内がすぐにわかるようにする。これまでの世では、壁一つ隔てていたら、言っていることが少しと言えども他人に知られることはなかった。今日からは脇目を振る暇もない間に、夢を見たと間違うような(驚くことを)が起こるようになる。


  これまでご紹介してきた「おふでさき」の内容を見てみますと、終末の時代にまず心がける必要があるのは、「胸(思念)」と「口(言葉)」を正しくコントロールすることだと言えそうです。そうすることによって、過去世を含むこれまでの人生のなかで作ってきた負のカルマを一掃し、神が憑かれるような清浄な身魂になっておくことが急がれるということです。
以上は「2012年のカルマの法則」より

2011年12月13日 (火)

「終末試験」に合格するための処方箋ーその④

第5章 「終末試験」に合格するための処方箋

 「我が身思案」は要らぬもの


 「おふでさき」のご紹介と私の「超訳」そして解説を続けます。
★ おふでさき ★
 だんだんとせかいぢうをしんぢつに たすけるもよふばかりするぞや
 そのゝちハやまずしなすによハらすに 心したいにいつまでもいよ
 またさきハねんけんたちた事ならば としをよるめハさらにないぞや
 いまゝでハなにの事でもしれなんだ これからさきハみなをしゑるで


【超訳】
  だんだんと、世界中を真の意味で助ける段取りばかりするのである。それが終わったらあとの世は、病気もなく、死ぬこともなく、年老いて体が弱ることもなく、自分が望むならいつまでも生きておれるようになる。またその先もっと年限が経ったとしても、老いるということが全くないのである。このように今までは知らなかったことを、これから先はなんでもみな教えることにする。


  終末の大峠になりますと、この地球のカルマが一斉に現象化することになります。それは文字通りの大天変地異となり、場合によっては核戦争を伴った第三次世界大戦という人為的な大惨事が起こることになるかもしれません。
  「おふでさき」の神様は「助ける段取りばかりする」とおっしゃってますが、「助ける」という内容は、終末の大惨事から肉体生命を守るという意味ではありません。肉体生命が守られても、真の意味での救済にはならないからです。たとえば、大天変地異によって現在の文明社会が崩壊し、生活に必要なインフラが破壊されてしまった地球の上で、生き残った人たちはどのようにして生きていけばよいのでしょうか。しかも、核戦争が起これば地上は放射能で汚染されてしまっている可能性もあります。
  「おふでさき」の神様がおっしゃってる救済の内容は、前出の「茶摘み」のたとえのなかにそのヒントが含まれています。次元上昇した新しい地球で生きる人間(魂)を「お茶の葉」に例え、お茶の葉として使えない硬くて古い葉(=この地球の文明に執着している人間)は、お茶の葉を摘み取ったあとで一斉に刈り取られてしまうことになるのです。
  古い葉を刈り取った後に残った木には、翌年は新しいお茶の葉が出てくるための種木としての役割があるわけです。その種木となる木のことを、「おふでさき」では「よふき(用木)」と呼んでいます。「神様の御用に使う木」という意味です。「用木」の役割のできる人が、終末の大峠のあとに生まれる新しい地球での生き方を実践し、生まれ変わった人たちを導いていくことになるのです。
  「用木」となる人たちは、既にこの終末の時代において、神様が憑依できるような繊細な波長になっていることでしょう。一口に言えば、「身・口・意」のコントロールができる人たち、そして「我善し」の考え方を卒業し、世のため人のために命を投げ出せる人たちということになるでしょう。この世での物質的な富や繁栄に執着せず、自分の損得に関心の薄い人たちです。
  そういう人たちに導かれる新しい地球では、人は病気をすることも死ぬこともなくなるとおっしゃっています。自分が望めばいくらでも生きていくことができるのです。もちろん、年をとることもなく、自分の好きな年齢の状態で過ごすことができるということでしょう。同じ内容は新約聖書や日月神示にも述べられいますので、かなり信憑性が高いと思われます。ホワイト・イーグルやシルバー・バーチなどの信頼できる霊界通信によれば、現在でも霊界はそのような状態になっているようです。
  大峠のあとの次元上昇した新しい地球は「半霊半物質」の世界になるということですから、この物質界が今の霊界と似たような状態になるということです。心に思ったことがすぐに実現してしまうようになるのもその特徴です。善くない心の持ち方をすれば、それがすぐに他人を傷つけ、自分にもはね返ってくるということですから、「我善し」の考え方が抜けきれない人は住むことのできない世界と言えるでしょう。
  ただし、現在の霊界はまだ天国的世界から地獄的世界までが混在した状態になっていると見られます。神様の波長に近い高級霊の住む世界から、動物霊や邪悪な低級霊の住む世界までの多層構造になっているので、トータルとしてはとても「ミロクの世」とは呼べないものです。霊界はこの地上世界と「合わせ鏡」のようになっていて、地上の乱れが霊界の乱れとなり、それがまたこの地上世界に反映されてその乱れを増幅する形になっているからです。
  そのようにして乱れに乱れた霊界の低層部分が、今回の次元上昇の中では一掃されることになると言われています。そのことを察知して、自分たちの寿命が近いことを恐れる霊界の邪悪な霊たちが、この物質界の人間にさまざまな形で干渉し、誘惑を仕掛け、道連れにしようと画策しているのです。そのことが、今日の世界の悲惨な終末状況をつくり出していると言えます。
  このような邪悪な霊の道連れにされないためにも、「むね(思念)」と「くち(言葉)」をコントロールして、魂の洗濯をしておきなさい、というのが「おふでさき」の神様のメッセージなのです。

★ おふでさき ★
 このよふハいかほどハがみをもふても 神のりいふくこれハかなハん
 めへめへにハがみしやんハいらんもの 神がそれそれみわけするぞや
 これをみていかなものでもとくしんせ 善とあくとをわけてみせるで
 このはなしみな一れつハしやんせよ をなじ心わさらにあるまい
 をやこでもふうふうのなかもきよたいも みなめへめへに心ちがうで


【超訳】
  この世でいかに我善しの気持ちを持っていても、神の怒りを受けたらどうしようもないのだ。自己中心の考え方はしてはいけない。神がその心の中を見分けてしまうのだ。神が善い心と悪い心は見分けてしまうから、そのことをよく理解しておきなさい。この話はどんな人間でも必ず心に留めておきなさい。人間は一人として同じ心ではないはずだ。親子でも夫婦でも兄弟姉妹でも、みなそれぞれに心の中は違っている。


  「我が身を思う」「我が身思案」というのが「自己中心的な考えをする(=利己主義=我善し)」という意味です。「自分のことを心配しなくても、神がそれぞれの心の中を見て、善と悪とに選別する」とおっしゃってるわけです。親子でも夫婦でも兄弟姉妹でも心の中が違えば、善悪のふるいにかけられてしまうということですから、場合によっては親兄弟であっても、永遠に別れ別れになる可能性があるということでしょう。

★ おふでさき ★
 いまゝでハ心ちがいわありたとて ひがきたらんてみなゆるしていた
 このたびハなんでもかでもむものうち そうぢするでみなしよちせよ
 むねのうちそうぢをするとゆうのもな 神のをもハくふかくあるから
 このそふぢすきやかしたてせん事に むねのしんぢつわかりないから
 この心しんからわかりついたなら このよはぢまりてつけるなり


【超訳】
  今までは心違いがあっても、時節が来ていなかったのでみな見逃していた。このたびはどんなことでも心の中を掃除するので、覚悟しておきなさい。心の中を掃除するというのは、神の深い思惑からすることである。人民の心の中の掃除をすっきり仕上げてしまわないと、本来の心の持つ本当の働きが理解できないからである。この心の働きが理解できたなら、この世(新しい世)の始まりに手をつけることにする。

  「心の中を掃除する」というのは、悪い思いを持たないようにするということです。悪い思いとは、「不満」「恐怖」「心配」「憎悪」などの気持ちを指していると思われますが、その具体的な内容は次の神示にちゃんと出てきます。
 いずれにせよ、人民がそのような悪い心の癖を直してくれないと、神が救おうと思っても救うことができないということです。

★ おふでさき ★
 このよふハにぎハしくらしいるけれど もとをしりたるものハないので
 このもとをくハしくしりた事ならバ やまいのをこる事わないのに
 なにもかもしらずにくらすこの子共 神のめへにハいぢらしき事
 なにゝてもやまいとゆうてさらになし 心ちがいのみちがあるから
 このみちハをしいほしいとかハいいと よくとこふまんこれがほこりや
 このよふのにんけんハみな神のこや 神のゆう事しかときゝわけ
 ほこりさいすきやかはろた事ならば あとハめずらしたすけするぞや
 しんぢつの心しだいのこのたすけ やますしなずによハりなきよふ
 このたすけ百十五才ぢよみよと さだめつけたい神の一ぢよ


【超訳】
  この世の人民はみんな賑やかに暮らしているけれど、世の中の元となる仕組みを知っている者はいないので(苦しみが絶えないのだ)。この世の元の仕組みを詳しく知ったならば、病気などの不幸な出来事が起こることはないのに(気の毒なことだ)。何も知らないで暮らしている子どものようなものだから、神の目からみるといじらしいかぎりだ。
  とにかく病気になるということは決してないのだ。間違った心の使い方をするから病気になるだけだ。間違った心の使い方とは、惜しい、欲しい、可愛いという気持ち、そして欲と高慢が心の埃となるのだ。この世の人間はみんな神の子である。神の言うことをしっかり聞き分けて、心の埃さえすっきりと払ってくれたなら、珍しい助けをしてあげよう。
  本当に、心の持ち方次第で助けてあげられるのだ。そうすれば、病気になることも、死ぬことも、老いることもないようにする。この助けによって、人の寿命は115歳というふうに定めたい。これが神の教えの中心となるものである。


  善くない心の癖として「惜しい」「欲しい」「可愛い」「欲」「高慢」があげられています。これに加えて「にくい」「うらみ」「はらだち」の計8つが、「おふでさき」の神様の言われる「心の埃」ということになっています。「可愛い」はモノや人にたいする愛着ということで、仏教でいう煩悩の一種です。「世界の中心で愛を叫ぶ」といった恋愛感情としての愛は、文字どおり「心の埃」である場合が多いということでしょう。「高慢」も大変な心の埃となるようです。新約聖書の中でイエス・キリストが「謙虚」であることの大切さを説いていることと一致しています。

★ おふでさき ★
 はたらきもいなかる事とをもうかな 心うけとりしだいかやしを
 このかやしなにの事やとをもうかな みちのりせんりへだてありても
 この事ハなにをゆうてもをもふても うけとりしだいすぐにかやしを
 このかやしなんの事やとをもうなよ せんあくともにみなかやすてな
 よき事をゆうてもあしきをもふても そのまゝすくにかやす事なり
 この事をみへきたならば一れつわ どんなものでもみなすみわたる


【超訳】
  神の働きはどういうものかと考えるであろうが、神は人間の心を受け取り次第に「かやし(お返し)」をするのである。この「かやし」は普通に考えられるようなものではなく、道のりが千里も隔たっていても返すのだ。何を言っても思っても、受け取り次第直ぐに返す。この「かやし」はどんなものかと思うな。善も悪もともに皆返すのである。善い事を言っても思っても、悪い事を言っても思っても、そのまま直ぐに返すのである。この法則が人民にわかるようになったら、だれでもみんな心が澄み渡るようになるだろう。

  ここでカルマの法則の説明が出てきます。日月神示ではカルマのことを「めぐり」「借銭」などと表現されていました。「めぐり」という場合は、「投げたボールが返ってくる」というイメージです。「借銭」となると、悪い心を使うことによって神様の世界に「借り」を作っているので、それ相応の「償い(借金払い)」をしなくてはいけないという意味にとれます。
  「かやし」の場合は、人間が投げたボールを神様が受け取って、きっちり返すというイメージです。悪いボールを投げれば悪いボールが返されてくるということになります。「自分が蒔いた種を刈り取る」という新約聖書の言葉と共通の概念です。
  仏教では「因果応報」「善因善果、悪因悪果」という表現がされていますが、すべてカルマの原因は自分が作っていることと、それに見合う形の見返りがあるという点では一致しています。
  ただ、これまではその「かやし」がすぐには返ってこなかったのですが、新しい世界となればすぐに返ってくるようになるということです。それがわかれば、みんな心が澄み切るだろうとおっしゃってます。つまり、自分が投げたボールと同じボールが返ってくるということですから、悪いボールを投げないようになるだろうという意味です。
  ただ、自分が投げているかの自覚がないと、いつまでも悪いボールを投げ続け、最終的には悪の世界へと“選別”されることにもなりかねません。
  そのボールとは「身・口・意」であることを心に刻んでおきたいものです。
  次の「おふでさき」には「月日」という言葉が出てきますが、これはその後「おや」と言い換えられ、そのために天理教の神さまのことを「おやがみさま」と呼ぶことになります。つまり、天理教の元となる神さまのことです。それが「日月神示」の「日月」とよく似ていることにも要注目です。

★ おふでさき ★
 いまゝでもたいてくどきもといたれど まだゆいたらん月日をもわく
 このたびハなにか月日のさんねんを つもりあるからみなゆうておく
 このところたすけ一じよとめられて なんてもかやしせすにいられん
 このかやしたいしや高山とりはらい みな一れつハしよちしていよ
 このはなしなんとをもふてきいている てんび火のあめうみわつなみや
 こらほどの月日の心しんバいを せかいぢうハなんとをもてる
 たんたんとくどきなけきハとくけれど しんぢつなるの心たすける
 どのよふなものも一れつハかこなり 月日の心しんばいをみよ
 このよふハ一れつハみな月日なり にんけんハみな月日かしもの
 せかいぢうこのしんぢつをしりたなら ごふきごふよくだすものわない
 こゝろさいしんぢつよりもわかりたら なにもこわみもあふなきもない
 月日よりをしゑる事ハみなけして あとハにんけん心ばかりで


【超訳】
  今までもほとんど大切なことは述べてきたが、月日(=日月の神)の思わく(=経綸)についてまだ言い足りないことがある。このたびは月日の残念な気持ちが積もり積もっているから残らず言っておく。このいまの世の中において、人民を助ける一番の方法を止められて、まず何事にも“かやし(お返し)”をしないといけなくなっている。
  この“かやし”というのは、上に立って権勢を誇っている人民は、その権力を取り払われることになる。いったいどんなことだと思って聞いているのか。それは天火・火の雨・海は津波という形で現れるのだ。それで人民が大変なことになるのを“月日(=日月の神)”は心配をしているのに、世界中の人民はなんと思っているのだろうか。だんだんと説教し、嘆きたい気持ちを説明しているが、誠の心になった者は助けるのだ。どんな者でもみな我が子である。“月日(=日月の神)”がいかに心配しているか(考えてみてほしい)。この世のすべての存在は“月日”の体なのだ。人間の体といえども“月日”が貸し与えたものである。世界中の人民がこの真理を知ったら、もはや豪気・強欲を出すものはいないだろう。心でこの真理を理解しさえしたら、恐いことも危ないことも経験する必要はなくなる。“月日”の教えることをみな消してしまって人間心だけで考えるから(わからないのだ)。


  ここは「超訳」を読んでいただけば解説は必要ないでしょう。
  私は拙著『2012年の黙示録』の中で、「カルマは人の潜在意識に沈殿した心の癖(=波動の傾向)である」と述べました。それは一種の精神的エネルギーとして蓄積され、この物質世界に現象として表面化するのを待っているのです。
  そして、人がそのカルマの原因となるような心の使い方を続けるならば、さらにそのカルマは蓄積され、肥大化していくことになります。それは、たとえば「心配する気持ち」や「不安な気持ち」などで表現されるものから、人を憎んだり呪ったりする気持ちまでいろいろとあります。
  私の本の中では、「気持ち=念」と置き換えて、「懸念」「残念」「執念」「怨念」の4つを「マイナスの波動」すなわち「負のカルマ」として説明しました。それらはこの三次元の世界でさまざまな“不幸な現象”として表面化するのですが、その表面化するまでの時間がだんだん短くなっているというのが、これまで述べてきたことでした。
  それを「大本神諭」や「日月神示」では「時節がきた」と表現されています。つまり、ついに終末を迎えたので、これから大峠(たぶん2012年)に向かって時間がますます圧縮され、それにともなって異次元に蓄積されている個人や国、民族、人類全体のカルマが次々に、そして最後は一斉に表面化していくことになるということです。
  天理教の「おふでさき」にもまったく同じことが述べられていることがわかります。しかしながら、明治の初め、まだラジオ放送も始まっていない時代にあって、地方(今の奈良県)に住む一老女(=教祖中山みき)に憑かった神さまが、当時の人民に「世の終末」を伝えるには、言葉選びに大変苦労されたことと思います。
  神さまの言葉を受け取った側も、今日のように書籍やネットから簡単に情報が手に入る時代ではありませんから、言葉の真の意味を推し量ることには苦労されたことでしょう。しかも、「おふでさき」は短歌の形で表現されていますので、その解釈はさらに困難を極めたことと思います。
  そういう観点から、今日世の中に出回っている多くの情報をベースに、再度「おふでさき」の解釈にチャレンジしてみた次第です。
以上は「2012年のカルマのノ法則」より

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