映画・テレビ

2010年3月24日 (水)

今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その十二(王政復古の大号令)

「王政復古の大号令」 慶応3年12月9日(1868年1月3日)

徳川内府、従前御委任ノ大政返上、将軍職辞退ノ両条、今般断然聞シ召サレ候。抑癸丑以来未曾有ノ国難、先帝頻年宸襟ヲ悩マセラレ御次第、衆庶ノ知ル所ニ候。之ニ依リ叡慮ヲ決セラレ、王政復古、国威挽回ノ御基立テサセラレ候間、自今、摂関・幕府等廃絶、即今先仮ニ総裁・議定・参与ノ三職ヲ置レ、万機行ハセラルベシ。諸事神武創業ノ始ニ原キ、縉紳・武弁・堂上・地下ノ別無ク、至当ノ公議ヲ竭シ、天下ト休戚ヲ同ク遊バサルベキ叡慮ニ付、各勉励、旧来驕懦ノ汚習ヲ洗ヒ、尽忠報国ノ誠ヲ以テ奉公致スベク候事。

将軍慶喜の大政奉還により、政権が天皇に移管されました。(将軍職の辞表を出したのは10日後の10月24日)。しかし大政奉還に反対する会津藩、桑名藩や旧幕府勢力の強硬な幕府権力奪還の動きもあり次の新政権に慶喜が擁立される可能性が高かったのです。

それを完全に排除するために出されたのが「王政復古の大号令」です。

慶応3年11月末(1867年)、薩摩藩主島津忠義(島津久光は忠義の父)の率いる約3千の兵が上京。長州藩兵約2千5百も12月初めには摂津西宮と備後尾道に到着しました。

慶応3年12月9日(1868年1月3日)朝、薩摩、安芸、備前、尾道(遅れて土佐も)の藩兵が宮中に入り、それまで宮門の警備に就いていた会津、桑名の兵を追い払って各要所を固めました。五藩の兵に守られた宮中の学問所に親王、公卿の他、薩摩、安芸、越前、尾張、土佐の諸侯を集め、明治天皇〔15歳)が王政復古の大号令を下しました。

摂政、関白、幕府の廃止が明示され、加えて五摂家、門流、議奏、武家伝奏の廃止ならびに守護職、所司代の廃止が布告されました。幕府(徳川慶喜)、京都守護職(松平容保)、京都所司代(松平定敬)が正式に廃止され、新設された「総裁・議定・参与」三職には徳川慶喜の名前はありませんでした。

同日夜、小御所において初めての三職会議が開かれました。席上、岩倉具視と大久保利通(参与)は徳川慶喜の辞官納地(慶喜の内大臣の官位辞退・領地返上)を主張し、山内豊信(容堂)、松平慶永(春嶽)と対立。会議は紛糾して深夜に及びましたが、慶喜に辞官納地を命ずることが決定されました。その十三に続く     以上

 

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2010年3月22日 (月)

今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その十一(龍馬暗殺)

近江屋事件は、幕末の慶応3年11月15日(1867年12月10日)に坂本龍馬と中岡慎太郎が京都河原町近江屋井口新助邸において暗殺された事件のこと京都見廻組の仕業であるとされる。

龍馬はそれまで宿舎としていた薩摩藩の定宿であった寺田屋が幕府に目をつけられ急襲(寺田屋事件)されたため、慶応3年11月3日(1867年11月28日)に近江屋(醤油屋)に移った。11月13日(12月8日)、伊東甲子太郎が尋ねてきて、新撰組に狙われているので河原町三条の土佐藩邸に移ったらどうかと勧めたが、龍馬は間近の近江屋に留まった。

11月15日(12月10日)、夕刻に中岡が近江屋を訪れ、三条制礼事件について話し合う。夜になり客が近江屋を訪れ、十津川郷士を名乗って龍馬に会いたいと願い出た。元力士の山田藤吉は客を龍馬に合わせようとするが背後から斬られた(1日後に死亡)。

このとき「ぎゃあ!!」と大声を上げた山田に対し、龍馬は「ほたえな!(土佐弁で「騒ぐな」の意)」と言い、刺客に自分の居場所を教えてしまう。刺客は音もなく階段を駆け上がり、ふすまを開けて部屋に侵入した。そして龍馬は額を斬られた(この他、浪士達が二人を斬る前に名刺を渡してから斬ったという説などいろいろな説がある)。

龍馬は意識がもうろうとする中中岡の正体がばれないように中岡のことを「石川、太刀はないか」と変名で呼んだという。その後龍馬は胸など数箇所を斬られ、とどめを刺されて絶命した。中岡はまだ生きており助けを求めるが、2日後に吐き気を催した後に死亡した。

なお、近江屋と土佐藩邸の位置関係は、河原町通りを隔てた真向かい(数メートル)であったが、暗殺当夜に土佐藩邸からは何の救援の手も差し伸べられなかった。暗殺直後に、真っ先に現場に着いたのは薩摩藩の吉井幸輔、土佐藩の田中光顕、谷干城、毛利恭介、海援隊隊士の白峰駿馬らである

暗殺実行者は誰か!

「京都見廻組実行説」 大正時代になって元見廻組隊士だった今井信郎、渡辺篤の口述で、佐々木只三郎らが実行犯であると証言している。また、勝海舟は幕府上層部の指示であるとも推測している。この見廻組実行説がいわば通説となっており、これに疑問を呈する歴史学者は皆無に等しい。ただし、今井や渡辺の口述に食い違う部分(刺客の人数構成、現場に置き忘れた鞘の持ち主など)があるため、主に作家を中心に色々な異説が唱えられている状況である。なお現場に駆けつけた中岡慎太郎を見舞った谷干城は京都見廻組説を信じていなかったという。

「新撰組犯行説」 事件後、11月26日に幕府から取り調べを受けた新撰組局長の近藤勇は関与を否定した。現在では、新撰組犯行説を支持する研究者は殆んどいない

「薩摩藩陰謀説」 幕藩側に立って良く書かれるテレビ・小説等は故意に幕府側に龍馬の所在を薩摩側が漏らしたとする説で、一部に熱狂的な支持者がいるものの、歴史学界では殆んど相手にされていないのが実情である

「イギリス陰謀説」 武力倒幕により、薩長倒幕側に武器の売り込みを狙ったジャーデイン・マセソン系のイギリス人・グラバー、外交官・パークス、アーネスト・サトウらにより仕組まれた陰謀であるとの説。

       その十二に続く             以上

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2010年3月20日 (土)

今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その十(大政奉還)

徳川家茂の死後、将軍後見職の徳川慶喜は徳川宗家を相続したが、幕府の自分に対する忠誠を疑ったため、征夷大将軍職への就任を拒んでいた。5か月後の1866年(慶応2)12月5日ついに将軍宣下を受ける。しかし、同月天然痘に罹っていた孝明天皇が突然崩御。睦仁親王(後の明治天皇)が践祚した

翌1867年(慶応3)薩摩藩の西郷・大久保利通らは政局の主導権を握るため雄藩連合を模索し、島津久光・松平春嶽・伊達宗徳・山内容堂(前土佐藩主)の上京を促して、兵庫開港および長州処分問題について徳川慶喜と協議させたが、慶喜の政治力が上回り、団結を欠いた四侯会議は無力化した

5月には摂政二条斉敬以下多くの公卿を集めた徹夜の朝議により長年の懸案であった兵庫開港の勅許も得るなど、慶喜による主導権が確立されつつあったこうした状況下、薩摩・長州はもはや武力による倒幕しか事態を打開できないと悟り、土佐藩・藝州藩の取り込みを図る。土佐藩では後藤象二郎が坂本龍馬の影響もあり、武力打倒路線を回避するために大政奉還を提議し、薩摩藩もこれに同意したため、6月22日には薩土盟約が締結される。

これは徳川慶喜に自発的に政権返上することを建白し、拒否された場合には武力による圧迫に切り替える策であった。しかし兵力の発動を渋る山内容堂に反対され、また薩摩藩も慶喜の拒否を大義名分として結局武力発動しかないと判断していたため、両藩の思惑のずれから9月7日盟約は解消。

結局土佐藩は10月3日単独で山内容堂が老中に大政奉還の建白書を提出した。いっぽう、薩摩藩の大久保・西郷らは、長州藩・藝州藩との間に武力を背景にした政変計画を策定。さらに洛北に隠棲中だった岩倉具視と工作し、中山忠能(明治天皇の祖父)・中御門経之・正親町三条実愛らによって、慶応3年10月14日(1867年11月9日)に討幕の蜜勅が出されるにいたる。

ところが、徳川慶喜は山内容堂の進言を受け入れ、同じ10月14日には、天皇に大政奉還を奏請しており(在京各藩士には前日に二条城で宣言していた)、討幕派は大義名分を失った。大政奉還により、江戸幕府による政権は名目上終了した

「大政奉還の上奏文」 臣慶喜謹て皇国時運の沿革を考候に、昔し王綱紐を解き相家権を執り、保平の乱政権武門に移りてより、祖宗に至り更に寵眷を蒙り、二百余年子孫相受、臣其職奉ずと雖も、政刑当を失ふこと少なからず。今日の形勢に至り候も、畢竟薄徳の致す処、慙愧に堪へず候。況や当今、外国の交際日に盛なるにより、愈朝権一途に出申さず候ては、綱紀立ち難く候間従来の旧習を改め、政権を朝廷に帰し奉り、広く天下の公議を尽し、聖断を仰ぎ、同心協力共に皇国を保護仕候得ば、必ず海外万国と並立つべく候。臣慶喜国家に尽す所、是に過ぎずと存じ奉り候。去り乍ら猶見込の儀も之有り候得ば、申聞くべき旨、諸侯え相達置候。之に依って此段謹て奏聞仕候。以上 慶喜

             その十一に続く                以上

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2010年3月18日 (木)

今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その九(薩長同盟)

「薩長同盟」 は、江戸時代後期の慶応2年1月21日(1866年3月7日)に京都二本松薩摩藩邸で幕末の薩摩藩と長州藩の間で締結された政治的、軍事的同盟である。薩長盟約、薩長連合ともいう。

幕末の政治世界で影響力を持った薩摩藩と長州藩は討幕の思想では共通していたが、西郷隆盛・大久保利通らの薩摩は、1864年(元治元年)の会津藩と協力した8月18日の政変や禁門の変で長州を京都から追放し、第一次長州征伐(幕長戦争)などで薩摩が長州を屈服させて以来感情的には敵対していた。

長州、薩摩共に伝のある土佐藩脱藩の坂本龍馬や中岡慎太郎の斡旋により、主戦派の長州藩重臣である福永喜助宅において会談が進められ、下関での会談を西郷が直前に拒否する事態もあったが1月21日(22日説も)京都小松清廉(京都市上京区)で坂本を介して西郷隆盛、大久保利通、薩摩藩家老の小松清廉(帯刀)と長州藩の木戸孝允(当時は桂小五郎)が討幕運動に協力する6か条の同盟を締結した。他の薩摩側出席者は、島津伊勢(諏訪甚六広兼)、桂久武、吉井友実、奈良原繁。

薩長同盟提携内容(6ヶ条)

ー、 戦いと相成候時は、すぐさま二千余の兵を急速差登し、只今在京の兵と合し浪華へも一千程は差置き、京阪両所相固め候事

ー、 戦、自然も我が勝利と相成り候気鋒相見え候とき、其節朝廷へ申上げきっと尽力の次第これあり候との事

ー、 万一敗色に相成り候とも、一年や半年に決して潰滅致し候と申す事はこれなき事に付き其間には必ず尽力の次第これあり候との事

ー、 是なりにて幕兵東帰せし時は、きっと朝廷へ申上げすぐさま冕罪は朝廷より御免に相成り候都合にきっと尽力との事

ー、 兵士をも上国の土、橋、会、桑も只今の如き次第にて、勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を抗し、周旋尽力の道を相遮り候時は、終に決戦に及ぶほかこれなくとの事

ー、 冕罪も御免の上は、双方とも誠心を以って相合し、皇国の御為に砕身尽力仕り候事は申すに及ばず、いづれの道にしても、今日より双方皇国の御為め皇威相輝き、御回復に立ち至り候を目途に誠しを尽くして尽力して致すべくとの事なり

坂本龍馬が桂小五郎の求めに応じて裏面に朱書で、裏書署名している。

「表に御記入しなされ候六条は小・西両氏および老兄龍等も御同席にて談合せし所にて、毛も相違これなく候。従来といえども決して変わり候事はこれなきは神明の知る所に御座候。」      その十に続く             以上

  

          

 

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2010年3月16日 (火)

今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その八(尊王攘夷)

「尊王攘夷」とは、王を尊び外圧・外敵を撃退しなければならないとする思想。日本では、江戸時代末期(幕末)に朝廷から一般民衆まで熱く論じられ、反体制運動の合言葉として利用された。国の存在の根拠としての尊王と、侵掠・侵入してくる外敵に対抗する攘夷が結びついたもの。「王(きみ=天子)を尊び、夷(い=外国人)を壌(はら)う」の意。

古代中国の春秋時代において、周王朝の天子(王)を尊び、王朝を守るため侵入する夷狄(いてき=周辺諸民族。この時代の夷狄は南方の楚を差していた)を打ち払う、という意味で覇者が用いた標語を、国学者が輸入して流用したものである。

斉の桓公は、周室への礼を失せず、諸侯を一致団結させて、楚に代表される夷狄を討伐した。その後、尊王攘夷を声高に唱えたのは、宋学の儒学者たちであった。なお幕末期における「尊王攘夷」という言葉の用例は、徳川斉昭が弘道館記で東照宮家康公の事績を褒め称える文脈で使っているのが最も古い。

「攘夷」 徳川斉昭時代の後期水戸学は、外圧に対抗する尊攘運動を思想的に指導したように、この時代から尊王攘夷は攘夷運動が中心となる。1858年(安政5)、大老井伊直弼が、無勅許で日米修好通商条約に調印し、そののちオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも条約を結んだため、天皇尊崇の尊王論と外国排斥の攘夷論が、幕府を問責するに主力を傾注した。

その背景には輸出超過のために起こった国内物資の不足と物価高騰とがあり下級武士や豪農・豪商は幕府の責任を問うとともにその政権打倒に与するに至った。吉田松陰の出た長州藩は尊王攘夷を激化させたが、島津藩や土佐・福井・会津藩などは公武合体論による対外的現実主義政策を主張して、京都で両派は激突を繰り返した。

長州激派と薩摩藩等公武合体派が1864年(元治1)に戦った禁門の変で長州が敗北したが、1866年(慶応2)の第二次長州征伐で幕府が失敗し薩摩の小松帯刀・西郷隆盛と長州の木戸孝允らが薩長同盟に成功したのも同年のことである。1863年(文久3)の長州藩外国船砲撃事件と薩英戦争に敗れた薩長は外圧に対する攘夷の不可能を思い知らされ、攘夷運動を討幕に切り替えた。

1867年(明治1)の将軍慶喜の大政奉還は薩長らの討幕計画の圧力によるものだが形式的には尊王論の結論でもあった。明治維新の王政復古や1870年(明治3)の大教宣布の詔は、尊王運動の結末であるが、そののちの文明開化以後には尊攘思想の復古と反省が繰り返される。 その九に続く                   以上

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2010年3月14日 (日)

今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その七(尊王攘夷)

尊王論は江戸初期から始まり、幕末には攘夷運動と合体して尊王攘夷運動となり討幕運動に発展して、明治維新変革を成功させた。日本の近代民族国家を創設することを目的とした維新変革は、富国強兵と西欧文明の近代技術を輸入消化することを手段としながら、変革のイデオロギーは尊王攘夷であった。

後進地域であるアジアの一国としての日本が、西欧先進国との国際的競争に打ち勝つためには、日本の主体性の主張が先決問題であった。尊王攘夷は日本の民族主義の主張であり、西欧近代国家のナショナリズムと性格は同じである。ナショナリズムは合理的・理性的であるよりは、非合理的で感情的である。

「尊王」 戦国時代末期から江戸時代初期にかけて日本に渡来したイスパニア・ポルトガル・オランダ・イギリスなどの西欧諸国は、重商主義国としてアジアの植民地化を企て、キリシタン布教により宗教的進出をも目的としていた。1637~1638年(寛永14~15)の島原の乱と1633~1639年(寛永10~16)の数次の鎖国令は、近世の日本が西欧の脅威に民族としては初めての危機を痛感した象徴的史実である。

1657年(明暦3)に始まる徳川光圀「大日本史」編纂は、江戸時代初期の国際的危機に、日本の国体の尊厳を古代的・大和神話的権威の象徴である天皇尊崇を歴史研究によって確かめるための事業であった。江戸小石川の彰考館で「大日本史」編纂に従事した館員は、安積澹泊・朱舜水ら朱子学派が15名、栗山潜鋒ら敬義学派が3名、国学神道の学者が4名、その他となっている。

朱子学の大義名分論敬義派儒者山崎闇斎の垂加神道、その他国学や神道のような既成思想の影響が彰考館でも大きかったが、「大日本史」は日本の歴史事実を史料的に実証して、天皇を頂点とする家政国家や君臣の階級節度の史実を明らかにすることを目的とした。

前期水戸学の尊王は、国民の自覚を高揚させるが、対外的な攘夷思想ではなく鎖国と同様な性格である。1758年(宝暦8)の宝暦事件は、竹内式部が京都の公卿に垂加神道の尊王思想を宣伝して処罰されたが、これも朝幕関係にかかわる国内問題に過ぎなかった。徳川斉昭が彰考館で、豊田天功・藤田東湖・会沢正志斎らと「大日本史」編纂を続けた1829~1860年(文政9~万延1)の頃は、ロシア・イギリス・アメリカなどが日本の近海に出没し1853年(嘉永6)のペリー来航以来、日本の存亡にかかわる外圧の時代であった。

会沢正志斎が1825年(安政8)に世に問うた「新論」は、激越な尊王攘夷思想の宣伝文書で、幕末尊攘運動の志士たちの指針となった。

   その八に続く              以上

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2010年3月12日 (金)

今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その六(安政の大獄)

安政5年(1858年)4月大老に就任した井伊直弼(彦根藩主)は条約問題と将軍継嗣問題を強権的に一気に解決を図った。即ち、大老就任直後の6月、勅許の降りないまま井上清直と岩瀬忠震を全権として日米修好通商条約を締結させた。

領事裁判権を認め、関税自主権を喪失し、かつ片務的最恵国待遇を課した拙速な不平等条約であり、同様な条約がイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結ばれた(安政の五ヶ国条約)。

開市開港は段階的に行なうとされたが、この時期についてはロンドン覚書調印により時期をずらすことになる。また、将軍職については、5月紀州慶福を後継に決定する。慶福は家茂と改名し、江戸城へ入った(将軍就任は10月)

こうした井伊の強権的手法には反撥が相次ぎ、徳川斉昭(水戸藩主)・徳川慶勝(尾張藩主)・松平慶永(越前藩主、のち春嶽)らは抗議のため登城するが、無断で登城したことを理由に逆に井伊によって謹慎処分を受ける事となった。また、京都を中心に活躍した一橋派各藩の工作員らも、井伊の指示を受けた老中間部詮勝(鯖江藩主)らが取り締まりを行なった。

これにより、橋本左内・梅田雲浜・頼三樹三郎らが処刑された。また長州藩(萩)で私塾・松下村塾を開いていた吉田松陰なども、間部詮勝の暗殺を企てたかどで処刑された。これら一連の政治的弾圧を「安政の大獄」と呼ぶ。特に幕府・関白を介さず、朝廷から直接水戸藩へ勅書が出された件(戊午の密勅)は井伊ら幕閣の警戒感を強め、水戸藩への弾圧は苛烈を極めた。

安政の大獄は、旧一橋派や攘夷派の反撥を招く。度重なる弾圧に憤慨した水戸藩や薩摩藩の浪士は、密かに暗殺計画を練り、万延元年3月3日(1860年3月24日)、江戸城登城の途中の井伊を桜田門の外で襲撃して暗殺を決行した(桜田門外の変)。政権の最高実力者に対する暗殺という結果は、幕府の権威を大きく失墜させることとなった

「安政の大獄での犠牲者の名簿サイト」  安政の大獄ーwikipedia で検索して下さい

「平成の大獄での犠牲者の名簿サイト」 小泉劇場ーwikipedia で検索して下さい 

 その七に続く                            以上

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2010年3月10日 (水)

今、何故,NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その五(条約の内容)

日米修好通商条約調印後、勝海舟や、福澤諭吉を乗せた咸臨丸が条約の批准書を交換するために渡米している最中に桜田門外の変により井伊直弼は暗殺された。

条約の主な内容は、

(1)条約港の設定。神奈川(1859年7月4日「安政6・6・5」)

 長崎(1859年7月4日「安政6・6・5」)  箱館(函館)(既約1854年3月31日「嘉永7・3・3」)

 新潟(1860年1月1日「安政6・12・9」) 兵庫(1863年1月1日「文久2・11・12」)

  以上の開港と

 下田の閉鎖(1860年1月4日「安政6・12・12」)

(2)領事裁判権をアメリカに認める。

(3)江戸(1862年1月1日「文久元年12・2」)  大阪(1863年1月1日「文久2・11・12」)

  二都市での開市許可。

(4)自由貿易

(5)関税はあらかじめ両国で協議する(協定税率、関税自主権がない状態)。

(6)内外貨幣の同種同量による通用。

(7)アメリカへの片務的最恵国待遇。

詳細のサイトは「http://www.geocities.jp/sybrma/177nichibeisyukoutsusyou.html]           

以上であるが、実際に開港したのは神奈川ではなく横浜(1859年7月1日「安政6・6・2」)、兵庫ではなく神戸であった。この事は条約を結んだ各国から批判もされたが、明治新政府になると横浜を神奈川県神戸を兵庫県として廃藩置県することで半ば強引に正当化した。

最恵国待遇については、当初アメリカ側からは双務的な最恵国待遇を提案されたものの、鎖国政策を出来るだけ維持し、一般の日本人に対しては自由な海外渡航を認める考えが無かった幕府側から断ったとする見方もある。

貨幣の交換比率は銀貨を基準に定められた。当時の日本の金銀比率は金1に対し銀4.65であり、諸外国の相場(金1対銀15.3)に比べ銀が強く、物価は金基準では諸外国と同等、銀基準では格段に安かった。そのため幕府は金貨基準の貨幣の交換を主張するがハリスは銀貨基準の交換を主張して押し切り、金の流出・インフレーションによる経済の混乱を引き起こすことと成った。(幕末の通貨問題)

 その六に続く                                 以上

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2010年3月 8日 (月)

今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その四(通商条約)

江戸幕府は、諸国大名に命じ江戸湾一帯の警備を固めたが、如何せん軍事力の差は歴然としており、戦争すれば、敗北間違いなしの状態(現在と同じ)であった。

このため、1858年7月29日(安政5年6月19日)に日本とアメリカ合衆国の間で「日米修好通商条約を結んだ。幕末の混乱期から明治初頭にかけて日本が列強と結ぶことを余儀なくされた不平等条約の一つである。幕府は同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んだ(安政五ヶ国条約)。

この不平等条約が解消するのは日本が日清戦争において清に勝利した後で1899年(明治32)7月17日に日米通商航海条約(1940年{昭和15年」1月26日失効)が発効したことにより失効した。

経緯

日米和親条約により日本初の総領事として赴任したタウンゼント・ハリスは当初から通商条約の締結を計画していたが、日本側は消極的態度に終始した。しかしハリスの強硬な主張により交渉担当者の間で通商条約止むを得ずという雰囲気が醸成されると老中・堀田正睦は孝明天皇の勅許を得て世論を納得させた上での通商条約締結を企図する。

堀田は自ら京都へ向い条約勅許に尽力したが武家伝奏への取次ぎの際、中山忠能・岩倉具視ら中・下級公家88人が抗議の座り込みを行なう(いわゆる「廷臣八十八卿列参事件」)など攘夷派の少壮公家が抵抗した。

また、孝明天皇自身、和親条約による薪水給与までなら、あくまで港内での上陸であるため「神国日本を汚すことにはならない」との考えであったが、対等な立場での異国との通商条約となるとこの秩序に変化をもたらすものであり、「祖先に申し訳ない」と頑固な態度で拒否した勅許獲得は失敗に終わり、それが原因で堀田は辞職に追い込まれる

ハリスはここに至って交渉を急ぎ、アロー号事件をきっかけに清と戦争中(1856~1860年)のイギリスやフランスが日本に侵略する可能性を指摘してそれを防ぐにはあらかじめ日本と友好的なアメリカとアヘンの輸入を禁止する条項を含む通商条約を結ぶしかないと説得した。新たに大老に就任した井伊直弼はこれを脅威に感じ孝明天皇の勅許がないままに独断で条約締結に踏み切った。

調印は神奈川沖・小柴(八景島周辺)のポウハタン号上で行なわれた。日本側代表は下田奉行の井上清直・目付の岩瀬忠震、アメリカ側の全権はハリスであった。

その五に続く                          以上

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2010年3月 6日 (土)

今、何故、NHK大河ドラマ「龍馬伝」なのか!その三(日米和親条約)

条約調印後は、伊豆国下田(現静岡県下田市)の了仙寺へ交渉の場を移し、1854年5月25日に和親条約の細目を定めた下田条約(全13箇条)を締結した。なお、ペリー艦隊は同年6月1日に下田を去り、帰路琉球へ立ち寄り、琉球王国とも通商条約を締結している(琉米修好条約)。

条約の内容は以下の通り

日米和親条約の主な項目

(1)アメリカに物資を補給(薪水給与)するために下田、函館を開港(条約港の設定)すること。(第2条)

(2)漂流民の救助、引渡し。(第3条)

(3)アメリカ人居留地を下田に設定する。(第5条)

(4)片務的最恵国待遇(第9条)

詳細項目サイトhttp://www.geocities.jp/sybrma/173nichibeiwashinjouyaku.html

下田条約の主要項目

「1)アメリカ人の移動可能範囲は下田より7里函館より5里四方に限り武家・町家に   立ち入る事を禁ず

(2)アメリカ人に対する暫定的な休息所として了仙寺・玉泉寺に置き米人墓所は玉泉寺に置く。

(3)アメリカ人が鳥獣を狩猟する事を禁ず。

アメリカ側の目的

アメリカはその時代には鯨油を貴重な燃料として使用していたが、そのために太平洋に鯨を取りに行くと大量の燃料が必要になるので、それを日本で補給して燃料代を浮かせようとした事が目的であったといわれている。

また、別の目的は食料と水の補給確保である。特に、穀類は別としても、冷蔵庫もなく、しっかりした保存食もない時代において、脚気や壊血病の防止、また乗組員の満足できる味と量の食事のためには生野菜や肉類の補給は必要であった。また、清をはじめとする東アジアとの貿易のための補給港としても重宝とされた。

条約の日本語批准書原本は幕末の江戸城火災により消失した。オランダ語によって書かれた批准書原本の内アメリカ合衆国が持ち帰ったものについては、アメリカ国立公文書記録管理局で保管されており現存する。2004年(平成16年)には、日米交流150周年を記念して、アメリカから日本へ条約批准書のレプリカが贈られた。

       この続きはその四に               以上

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